5 勝った
後ろ手に寝室の扉を閉める。気が緩むと同時に眩暈に似た感覚を覚え、俺は後ろへ倒れた。扉に背中を預ける。さっきまで強烈な陽射しを浴びていた。エアコンを点けていないとはいえ、ここは穏やかに感じる。
瞼を強く閉じる。眼精疲労が目の奥に滲んだ。眉間を指で揉む。疲れた。本当に疲れた。瞼を開き、俺はなにもない宙を見上げた。
くぐもった声がした。俺は視線を下げていった。
ダブルサイズのベッドがあった。四隅の柱からビニール紐が中央へ伸びている。丸首のシャツにトランクス。下着姿で海老反りになって横たわる男の姿があった。腕を後ろにまわされ、手首と足首が紐で縛られている。
タオルで猿ぐつわをされた蛍吾が首をひねり、俺の顔を見上げた。涙をいっぱいに溜めた目を恐怖で見開いている。
「待たせて悪かったな」
俺はベッドのサイドテーブルに置いていた懐中電灯を手にした。地下階の物置部屋にあったものだ。凶器になにがいいか考えたとき、なぜか真っ先にこれが頭に浮かんだ。
「いま楽にしてやる」
凶器を手にしたのとは反対側の手でシーツをつかんだ。なぜそんなことをするのか俺自身にもわからなかった。手が独りでに動いた。猿ぐつわをされ、額を汗で濡らした蛍吾の顔は真っ白な布に覆われた。ひとつ深呼吸をして、俺は腕をふりあげた。
杭を打つような動作をくりかえしながら、俺はこの数時間の出来事を思い返していた。当たり前の日常は突如捩じ切られ、ひん曲がり、押し潰されていった。
廿六木荘を訪れた蛍吾が手伝いを申しでて、俺は椅子を運ぶよう頼んだ。物置部屋で電球を交換すべく脚立に足を掛けようとした蛍吾を背後から懐中電灯で殴った。意識を失ったことを確認し、衣服を脱がせた。ビニール紐で縛りあげて動きを封じ、声をだせないようハンカチを口に詰めこんでタオルで覆った。
すぐに一階へ行き、電話をかけた。ちょうど罵賀新線に乗り換えるところだった陵司に、駅にはいつ頃迎えに行けば良いか訊ねた。わずか十分ほどの距離なのに送迎などいらないと笑う息子に、買い物のついでだと言い訳した。間違えて快速列車になんか乗るなよ。そう伝えて俺は電話を切った。
重労働が待っていた。蛍吾の身体を二階の寝室まで運んだ。初めは抱きかかえて運んだが、力尽きて最後は脇の下に腕を差しこんでひきずりあげた。意識を取り戻して暴れないかと冷やひやした。逃げられないよう、そして振動すらあげられないようベッドへ入念に縛りつけた。
物置部屋から椅子を運び、茶菓子を準備していると凛と慎太がやってきた。飯芝からの電話で集まりの開始が遅れると告げられた。体調を崩した凜が陵司の部屋で横になり、慎太は書庫にこもった。俺はガレージから車を出すと陵司を迎えるため駅に向かった。運転しながらふと、二階まで蛍吾の身体を運んだときの大変さを思いだした。時間に余裕があることを腕時計で確かめ、三ッ丸雑貨店に寄って猫車を買った。
駅に到着して数分後、スポーツバッグを肩にかけたTシャツ姿の陵司が駅からでてきた。廿六木荘へ戻る車中、会話を交わした。一人暮らしにはもう慣れたか、大学はやっていけそうか。くすぐったそうな顔をした息子は、父さんこそ一人暮らしはどうなんだとやりかえした。
ガレージに車を駐めた。シャッターを下ろし、ラゲッジスペースから猫車を下ろすよう陵司に頼んだ。あらかじめ計画していたとおり、棚にある工具箱からモンキーレンチを手にとった。そして俺は息子を殺した。
蛍吾から剥ぎとった衣服を着せた。外階段だけは抱きかかえて運ぶしかなかったが、裏庭は猫車でたやすく運ぶことができた。崖から死体を落とし、蛍吾の靴と携帯電話を崖っぷちに置いた。汗をかいたので洗面所で顔を洗った。鏡を目にしてシャツが血で汚れていることに気づき、寝室でボタンダウンシャツに着替えた。
「わけがわからないだろ」
声が震えている。泣きだす直前の子供のような声だった。
「俺にもわからないんだ」
答えはなかった。目の前にあるのは真っ赤な血で濡れたシーツだけだった。顔の形をした膨らみが俺の顔を見返していた。
「勝った」
腹の底から泡立つような感情がこみあげて、くすぐったさに俺は笑いだした。これはなんと言うのだろう。試合に勝って勝負に負けたのか。それとも試合に負けて勝負に勝ったのか。
「勝ったんだよ。俺は勝った。勝つことができた。あいつに勝った。間違いなく勝った」
たしかに渕村は俺を犯人だと指摘した。ある意味ではそれは正しく、そして完全に間違っていた。肝心な真相を渕村は見抜けなかった。蛍吾は殺されてなどいなかった。殺されたのはたった今だ。
完璧な計画ではなかった。危うい綱渡りの連続だった。いくら遠目とはいえ娘の凜がいるのに陵司を蛍吾に誤認させることができるのか。別人だとバレやしないかハラハラした。
陵司は蛍吾より十センチ近く身長が高く、蛍吾は痩せているのに陵司は小太りだ。なにか良いものはないかと蛍吾のセダンを確かめると、後部座席の床にジャケットが落ちていた。それを着せると体型の違いが少しは目立たなくなった。
悩んだのは靴だった。よその家の庭で自殺する奴などいない。事故に見せかけるほうが自然だと頭ではわかっていた。衣服はなんとかなっても、小さすぎる靴を履かせるのは無理だった。たとえ不自然でも崖際に揃えて置いて自殺を偽装するしかなかった。
どれだけ距離があろうと、顔を血だらけにしておくなんて小細工だけでは人間の観察力はあなどれない。子供に見せるものじゃなかったなと声をかけると、慎太は素直に死体を観察するのをやめてくれた。いちばん恐れていたのは肉親である凜だった。それも慎太が死体を目にさせないよう気遣ってくれた。
数えあげればきりがない。すべてをコントロールすることなど不可能だった。いや、そもそも俺はまともな計画などしただろうか。無鉄砲で行き当たりばったりな行動ばかりしていなかったか。
集まりが予定どおりの時刻に始まっていたら、どうするつもりだったのか。罵賀新線で踏切事故が起きることなど俺には予想もつかなかった。警察がすぐに駆けつけていたら渕村が事件を捜査することはなかったはずだ。帰るのは遅れる旨の連絡が陵司からあったととっさに渕村には嘘をついたが、本当に踏切事故で列車の運行が滞っているのか俺は確認していない。ガレージから崖まで陵司の死体を運ぶのを凜や慎太に目撃されたらどう言い訳するつもりだったのか。
「俺は、勝った……」
渕村徳恵に勝つ。それだけが、この無意味な犯罪の目的だった。
懐中電灯が手から滑り落ち、床で音を立てた。俺はベッドから離れた。クレセント錠を外し、窓を開ける。かすかに風が吹いていた。波の音が聞こえる。
前庭を見下ろす。そのまま前へ重心を傾けていく。
わからない。なにもわからない。なぜ俺はこんなことをしたのかわからない。地下階で渕村と初めて顔を合わせたとき、こいつがすべての元凶だと悟った。帰省したばかりの息子の頭頂部をモンキーレンチで殴打しながら、神に祈りを捧げる敬虔な信者のような至福を味わっていた。途轍もなく巨大な使命感が皮膚を焦がす炎のように俺を
(わかってる)
俺は気が狂ったんだ。
(稔里が――)
最後の運試しをしよう。二階から落ちるだけで死ねるだろうか。地下階の分もあるから五メートルはあるだろう。真下は犬走りだから、うまく頭をセメントに強打すれば死ねるかもしれない。
俺には稔里が必要だったんだ。床から爪先が離れ、身体が窓枠を乗り越えたとき、最後に思ったのはそんなことだった。
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