2 自分の仕事

 ブレーカーを落とす。指先に着いた埃を、友兎は手を叩きあわせて払った。

 長い廊下を歩く。玄関の上がり框に陵司が座りこんでいた。壁にもたれかかり、顔が土気色をしている。

「これで終わりです」

 友兎が声をかけても、陵司は蛙の鳴き声のような呻きをあげただけだった。

「思いついたんすけど」

 ブーツを履きながら友兎は言った。

「磯貝足帆が生きてたりしないすか」

 眉根を寄せ、陵司はしばらく口を半開きにしていた。やがて「おいおい」と蚊の鳴くような声をあげた。

「おまえんとこの凄い霊能力者様がご託宣してくれたってのに、おまえは信じないのか」

「俺と渕村さんは仕事仲間でもなんでもないんで。噂くらいなら聞いたことありますけど昔の話だし。同業者だからってお客様の後ろ暗い事情をペラペラ話しあうことなんか無いすよ、守秘義務ってのがあるんで。親父とすら仕事の話はしないすね」

「まあ、それもそうか」

「稔里さんに磯貝のことあきらめさせようと、九竜黛三が渕村さんにパフォーマンスを頼んだんじゃないすか? でなけりゃ磯貝は本当に死んだ。死んだといっても仮死状態で、どこかの浜辺に漂着してから奇跡的に回復したとか。渕村さんは意識を失うまでの記憶を覗いてるだけで、生き返ることもありえるってのはどうすか?」

 渕村がパフォーマンスを頼まれただけなら、海に投じられたなにかを探していたなどと言い当てられるはずがない。そのことを知っていたのは磯貝本人を除けば稔里と蛍吾しかいなかったのだから。仮死状態になっただけで能力が使えるなら、渕村は蛍吾の死を待つ必要はなかったはずだ。

 そんな反論が思い浮かんだが、陵司には口にするだけの気力が湧いてこなかった。実は渕村にパフォーマンスを頼んだのは稔里のほうだったとしたら。こっそり不倫関係を続けるため、磯貝は死んだと黛三たちを騙したのかもしれない。それならネックレスを海に投じたことを渕村が聞いていてもおかしくはない。

 理屈と膏薬はどこにでもひっつく。細かいことを言い争ってもしかたない。さっさと友兎の思いつきを拝聴したほうが良さそうだ。

「磯貝が生きていたとして、どうなる。廿六木荘にやってきて蛍吾さんを殺したってのか? それはないだろ」

「いま悩んでるのは動機すよね? 柾木さんが蛍吾さんを手にかけたことは間違いない。ほら、凜さんでしたっけ? 柾木さんは寝不足でハイだったんじゃないかって言ってたじゃないすか」

 どこに話をもっていこうとしているのか見当がつかず、陵司は首を傾げた。

「入り江での会話が物別れに終わって、磯貝は東京に帰った。それからある日、今度こそ稔里さんの名前とか駆け落ちしたときの思い出まで、ぜんぶ思いだしたとしたらどうです?」

「二十三年前にか? 蛍吾さんが殺されたあの日、磯貝が廿六木荘にいた?」

「いや、俺が想像したのはその前の日すね」

「前日……」

 脳裏に火花が散るような感触があった。壁にもたれかかっていた陵司は身を起こした。

「間違えて殺したのか?」

 顔を揺らすようにして友兎はうなずきをくりかえした。

「こんな地方じゃ玄関の鍵をかけないくらい当たり前すよね。稔里さんがとっくに亡くなっているとは知らず、こっそり会おうとして磯貝は廿六木荘へ侵入した。そんで柾木さんにみつかって追いだされた」

 陵司の頭の中をめまぐるしく考えが駆け巡った。妻を喪い、一人息子が上京し、柾木は廿六木荘での一人暮らしを始めたばかりだった。生活リズムが乱れ、稔里を偲ぶ会が始まる直前にうたた寝をしていたとしても不思議ではない。

 そこへ蛍吾が訪れる。玄関ブザーを鳴らしても誰もでてこない。数えきれないくらい訪れた友人の家だ。遠慮なく中に入る。リビングの様子から椅子が足りないと気づき物置部屋へ取りに行く。そこで柾木が眠りから目覚め、物音に気づく。

「勝手に家の中へ入った蛍吾さんを、また懲りずに忍びこんだ磯貝と勘違いして殴ったわけか」

 ありえない話ではない。人違いで殺してしまったというのは後ろめたくて人に話せないだろう。凜や慎太がいる前で磯貝にまつわる事情は明かせなかっただろうし、結果的に口をつぐんだまま自殺したとしてもおかしくはない。

 いや、それならロマンチストという言葉はどうなる。しょせん悪夢の中で耳にした言葉だから気にしなくていいのか。蛍吾は何度も殴打されていた。勘違いを悟った瞬間にやめるのが普通ではないか。眠気と部屋の薄暗さで気づかなかったのか、埃避けの布カバーで顔を覆ったせいか。いや、ちがう。布カバーで覆って殴ったのは二番目の悪夢からだ。

 ドアをノックするように陵司はこめかみを拳で叩いた。しっかりしろ、よく考えろ。まだ眠気が残っているらしい。

「元気になったみたいすね」

 声につられて陵司が顔を上げると、瞼を細めた友兎が玄扉扉を開けて外へでていくところだった。

 陵司は浅く溜め息を吐いた。どうやら気力を奮い立たせることが目的だったらしい。ゆっくりと陵司は立ちあがった。まだ軽く眩暈がした。

 表にでると雪がやんでいた。友兎が玄関扉を施錠し、運転席に乗った。駅まで送ると誘われ、ありがたく陵司は後部座席に乗りこんだ。まだ熱があるのか、額や頬がほてっている。すでに友兎は能力を解除しているが、体調が戻るまでには時間がかかるらしい。

「ちょっと待ってくれ」

 陵司は背広の内ポケットからスマートフォンをとりだした。電話のアプリを起動する。通話履歴から「叔母」をタップする。

 くりかえしコール音が鳴り響く。バックミラーに友兎の怪訝そうな目があった。

「いや、ひょっとしてなんだが……本当に磯貝は来ていたかもしれない」

 わずかに友兎が目を見開くと同時に、陽気な声がした。単刀直入に用件だけを伝えることを津久三理子は甥に許さなかった。今日のうちに東京へ戻ること、ひさしぶりに凜や慎太の顔を目にしたことなどを語らなければならなかった。

 職場の仲間や上司に手土産くらい買って帰りなさいよ。ありがたいお言葉を焦れったい気持ちで拝聴した末に、ようやく陵司は目的の質問を口にすることができた。

「父さんが死ぬ前の日、お客さんがあったって言ってなかった?」

 これまでずっと月に一度は理子と電話で会話してきた。いつ、どういう流れで話題になったのか忘れたが内容は覚えている。殺人があった当日ではなく前日のことだから、事件とは関係のないことだと気にしていなかった。

「ほら、最後の会話になったのに、喧嘩みたいになって寂しかったっていう」

 思いだすのに苦労しているのか声が途絶えた理子にそう言い足すと「あったあった」と明るい声がした。

「あれのことね。兄さん、いっつも余計なこと口にする人だったから。顔は良いのにモテなかったの、そのせいよ。あんたも気をつけないとダメよ? 私だって好きで騙されたわけじゃないってのに、昔のこと何度でも蒸し返して。私が高校の入学式に寝坊した話、覚えてる? いつまで経っても話のタネにして誰にでも話しちゃって、可愛いと思ってもらえるからいいだろとか適当なことを言って……」

 話を整理するとこうだった。事件前日の夕方、理子は廿六木荘へ電話をかけた。柾木たちはお盆のいつ頃に実家へ顔を見せるのか確かめようとした。電話にでた柾木は、来客に対応しているので後にしてくれと頼んだ。数分後に柾木のほうから電話をかけなおしてきた。

 来客は誰だったのか軽い気持ちで訊いてみると「たいしたことじゃない」と柾木は言い、そこから急にかつて理子が勤め先の花屋でクレーム詐欺の被害に遭った話を蒸し返されたという。「お前、騙されやすいほうだから気をつけろよ」と上から目線で忠告する兄に、カッとなって理子もさんざん言い返したという。

「で、ここからが訊きたかったことなんだけど」

 耳がキンキンするのは熱がぶり返してきたのだろうか。陵司は瞼を強く閉じ、息をひとつ吸って吐いてから質問を口にした。

「客の名前とか、顔とか、なにか特徴は話してなかった?」

 そういえば右の眉に傷があって、片足をひきずっていたとか言ってたねえ。

 とは理子は口にしなかった。「なんか言ってた気もするけど、忘れちゃった」当然のごとくそう言って、そういえば墓参りはしないのと新しい話題に移った理子に陵司は何度も謝罪をくりかえした末に通話を切った。

「待たせた」

 気力をふりしぼるようにして陵司はそう告げた。「おつかれさまです」笑みを含んだ声で友兎が返事し、車が動きだした。

(そう都合よくはいかないか)

 二十三年という時間の厚みを思い知らされた気がした。考えてみれば本当に磯貝が訪れたなら、妹である理子に秘密にする必要はない。「お前のところに来ても相手にするな」と注意するくらいのことはしそうなものだ。

 逆に考えることもできる。ひさびさに磯貝の顔を目にして動揺し、隠そうとしたのではないか。話題を変えようとして脈絡もなく理子がクレーム詐欺に遭った過去を口にした。可能性だけならなんとでも言える。すべては四半世紀近い歳月の霧の中だ。

 車窓から堤防沿いの歩道が見えてきた。考えを改めた陵司が途中で引き返し、走って戻ってきた道だ。空は暗い雲に覆われている。

 そろそろ陽が沈む頃か。そう思った陵司の脳裏に、朱く染まった採光窓が、麦藁帽を深く被った渕村の顔が浮かんだ。

「なあ」陵司は口を開いた。

「本当だと思うか」

 夢での出来事を、すでに友兎には廿六木荘のリビングで説明していた。

「なにが」

「渕村さんが、なんだ、蛍吾さんがまだ生きてたかもって話だ」

「どうすかね」

 ハンドルを握る友兎は、まとわりつく羽虫をうるさがるように頭をふった。

「あったことかもしれない。なかったことかもしれない」

「興味なさそうだな、おまえ」

「よく言われるっす」

 バックミラー越しに視線が合った。友兎はなにか言いかけたが、唇を閉ざした。

(ま、いいさ)

 陵司は目を閉じた。車の振動を感じる。瞼の裏にもやもやとした光が広がっていく。

 意味など無かったかもしれない。気持ちの悪い自己満足に過ぎなかったかもしれない。夢は、夢だ。二番目の夢以降、明らかに過去の現実とは乖離した出来事が起きていた。さっきの悪夢も、現実には起こらなかったことだ。なんの意味もない。

 それでも陵司は試したかった。渕村徳恵も間違いを犯していたとしたら。それを誰にも打ち明けることなく生きてきたのだとしたら。そんな渕村と話がしてみたかった。

(もし、あのとき)

 眠りに落ちそうな浮遊感があった。陵司は手の平を握りしめた。

(正しい列車に乗っていたら)

 渕村が廿六木荘を訪れたのは午後四時頃だった。少なくともその時刻まで蛍吾は生きていたことになる。快速列車に乗る間違いがなかったら、集まりが開かれるはずだった三時過ぎに陵司は帰っていたはずだ。柾木の様子に不審を抱き、携帯電話にかけて物置部屋から蛍吾をみつけ、救急車を呼んでいたら。

 陵司は自嘲めいた笑みを口元に浮かべた。そんなことはありえない。正しい列車に乗ったとしても、きっと自分は長旅の疲れを理由にリビングのソファでダラダラしていただろう。

(俺は、俺だ)

 当たり前の話だ。恩陀柾木は恩陀陵司ではない。仮定の話を積み重ねたところで過去の現実は変わらない。

(これは俺の悪夢だ)

 だから、どうでもいい。悪夢の中でなにをしようと俺の勝手だ。渕村と話をしたかったから、もう一度だけ悪夢をみた。それでなにが悪い。俺は恩陀陵司であって、二十三年も前に人を殺して二階の窓から身を投げた男ではない。死者はもう死んだ。それだけのことだ。

 いつの間にか眠りかけていたのだろう。後ろから突き飛ばされるような力を感じ、思わず陵司は前の座席に手をついた。

 左右の車窓を見渡す。車は路肩に駐車していた。

「どうかしたか」

「いいんすか」フロントガラスをみつめたまま友兎が言った。

「このまま帰って、本当にいいんすか」

「はあ?」

「なぜ柾木さんが蛍吾さんを殺したのか、動機の謎が解けてない」

「いや、それは」

 眠気と怠気で頭がうまくまわらない。陵司は懸命に言葉を継ごうとした。

「あれだろ、ロマンチストだったからだ。蛍吾さんが不倫の手伝いをしたからさ」

「とっくに稔里さんは亡くなってたのに? 二年も過ぎて、どうしてあのタイミングで殺したんですか」

「……衝動的な犯行だったんだよ」

 背もたれに身を預け、陵司は深く溜め息を吐いた。

「もういい。正直、疲れた。今日一日、やるだけのことはやったろ? 警察にすら謎が解けてない二十三年も前の殺人事件の動機なんて、わかったら奇跡だ」

「本当にいいんすか、このまま帰って」

「わかってるのか? これ以上、俺が体調崩して死んじまったらどうするんだ。おまえ、俺を殺したいのか?」

 陵司はバックミラーに映る友兎の両眼をみつめた。かすかな薄笑いの眼に見えた。

(裏があるのか)

 この調査の目的を明かすことを拒んだ飯芝の顔を思いだす。さっきまで廿六木荘で悪夢をみていた。陵司が眠っている間に、友兎は雇い主である飯芝と電話で相談できただろう。急に陵司がやる気をだして戻ってきて、飯芝も調べを再開する気になったのかもしれない。

「俺は」

 友兎の声は、かすかに震えていた。

「自分の仕事を最後まで見届けたいだけっす」

 視界が開けた気がした。陵司は友兎をみつめた。バックミラーの中ではなく、運転席の後ろ姿をみつめた。マスクの紐が耳朶の後ろにかかっている。うなじが細く、肌の色が白い。ハンドルを握りしめた手がフロントガラスにうっすらと幽霊のように映っている。

 そこには一人の青年がいた。これから長い道を歩かなければならない。その道のりの長さすら知らない、ただの若い男が座っていた。

 はあ、と陵司は盛大に息を吐き、がしがしと頭を掻いた。「かけるか」と小声でつぶやく。

「なにをです」友兎が訊いた。

 命に決まってるだろ。あきらめ顔で陵司はそう言った。

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