3 地獄を楽しもう

 木々の隙間からこぼれる残照がレンガ敷きの小道を弱々しく照らしていた。陵司は悪寒がするのをこらえながら足を進めていた。吐く息が白い。そろそろ陽が沈みそうだ。少し前を歩く友兎はスマートフォンを耳にあてている。

「いや、だから、別れ道があって……昔はなかった? じゃあ、こっちか」

「本当にそっちで大丈夫か」

「見た感じ、あっちは後から作られた道っすよ。今度こそ間違いないっす」

 さっきも同じことを聞いた気がする。陵司はそっと溜め息を吐いた。

 江栗自然公園の駐車場に到着し、友兎は飯芝に電話をかけた。陵司が五番目の悪夢をみたこと、そしてこれからやろうとしていることを説明した。

 そのためには飯芝に正確な場所を確かめる必要があった。だが飯芝の記憶は薄れている上、二十三年の間に公園は至るところが整備されていた。稔里が命を落とした地点を確かめるのは思った以上に難しかった。

「ああ、なんすか?」

 スマートフォンに向かって友兎が不満を鬱積したような声をあげた。だが、急に話し方のトーンが変わり、しばらく二人は話しこんでいた。

「渕村さんが倒れたそうです」

 通話を切った友兎がスマートフォンをポケットに戻す。言葉を咀嚼できず陵司は「はあ」と間の抜けた声を漏らした。

「なんだって?」

「急に呼吸困難になって、唇も真っ青とかで。気を失って倒れたんで、千逢さんが救急車を呼んだそうです」

 新型コロナウイルス感染症だろうか。陵司は志摩子の症状を思いだした。自覚がないまま低酸素血症が進行していたのかもしれない。

(それとも)

 陵司は眉をひそめた。軽い吐き気が込みあげた。

(俺のせいか?)

 にわかには信じがたい。だが、信じがたいことがもう現実に起き過ぎている。

 老人の姿となった渕村をオンライン会議で目にしたときのことを思いだす。病のせいで心在らずの状態に見えた。五番目の悪夢で起きたことを渕村が遠隔地にいながらも霊能の力で知ったとしたら。それどころか、今朝からの悪夢すべてに渕村も生霊のような形で参加していたとしたら。

(だとすると)

 これからしようとしていることは問題ないのか。渕村の精神に悪影響を与えないと言い切れるか。老女の命の灯火ともしびを吹き消す真似にならないか。

(わからない)

 確証はなかった。あれだけ悪夢をくりかえしても廿六木荘ではなにもわからなかった。ここでなら新しい発見ができる保証などなかった。そもそも稔里の死は蛍吾の死より二年も前だ。常識的に考えれば意味がないことくらいわかっていた。

 かと言って他にできることは思いつかなかった。沈没した船から逃れ、暗い海を泳いでいる気分だ。灯りひとつない真っ暗な海を、助かりたい一心でひたすらに泳ぐ。ひょっとすると見当違いの方角に泳いでいるのかもしれない。誤って沖のほうへ進んでいるのかもしれない。この先には絶望しかないのかもしれない。それでも信じずにはいられない。あがいて、もがいて、もがききった先になにかがあってほしいと。

(進もう)

 陵司は決意した。なにかを取り戻したいわけではない。不幸の穴埋めをしたいとか、ましてや同情されたいわけでもない。今さら人生をやりなおせるとは思わない。これはただ、自分が果たすべきことを果たさなかったことへの代償を払わされているだけだ。それでいい。もう数えきれないくらい不運を嘆いてきた。数えきれないくらい人を呪ってきた。だから、もう一度くらい命がけの運試しをしたって平気に決まっている。さあ、地獄を楽しもう。

「あそこみたいっすね」

 雑木林が左右に開けた。荒い波の音に身体が包まれるのを陵司は感じた。薄暗い灰色の海に向かって突堤が延びている。立ち並ぶ消波ブロックに波が砕けては白い泡を散らせていた。

(霊能力、か)

 陵司は苦笑した。正直、オカルトの類は馬鹿にしていた。もちろん子供のうちは人並みに幽霊を怖がっていた覚えがある。一九九九年七月に恐怖の大王が降りてきて世界は滅亡するというノストラダムスの大予言を週刊少年漫画誌で知り、漠然とした不安を覚えたこともある。いっそ世界は一度くらい滅亡していたほうが良かったんじゃないか。そんな捨て鉢な感情を抱く中年親父になろうとは思いもしなかった。

 それがどうだ。今はすっかり超自然現象に惑わされている。年寄りが一人、体調を悪化させたというだけで自分のせいではないかとうろたえている。

 ――仕事に打ちこみすぎてへとへとになったり、夜になかなか寝つけないことは?

 耳元で誰かの声がした。

 ――あなたの顔色がずいぶん優れないように見えるからなんですよ。

 視線があった。じっとこちらの顔を覗きこんでくる目があった。観察している。カンカン帽を被り、目映い陽射しを浴びて立つ一人の男が、相手のまばたきひとつさえ見落とすまいとみつめている。

「陵司さん?」

 いつの間にか足を止めていたらしい。ふりかえった友兎が怪訝そうな顔をしていた。

 無意識にスマートフォンをとりだそうとして、陵司は勘違いに気づいた。電話番号を知らない。「すまん、ちょっと貸してくれ」友兎からスマートフォンを受けとる間も、陵司は考えを巡らせていた。

「飯芝さん、ひとつ確認させてくれ」

 どうかしたのか。飯芝の返事を耳にすると同時に、かすかなためらいが生まれた。これを友兎に聞かせて問題はないのか。そもそも、まずは友兎に訊ねるべきではないか。

 強い海風が吹きつけ、コートの裾をはためかせた。気づけば陵司はその問いを口にしていた。

「二十三年前、志摩子さんはのか?」

 わずかな間があった。「そうだ」あっけないほど簡素な答えが返ってきた。

「それがどうかしたのかね。事件とはなんの関わりもないことに思えるが」

「まあ、そうだな。邪魔したな」

 陵司は通話を切った。「どういうことです」横から友兎の声がした。

 やはり友兎は知らされていなかったらしい。廿六木荘をでるとき、仕事のことは父親とも話さないと言っていたことを陵司は思いだした。

「いや、大したことじゃない……たぶん」

 スマートフォンを返しながら、安心させようと陵司は友兎の肩を軽く叩いた。

「おまえ、言ってただろう。相手に能力で悪夢をみせるときは、鍵穴だったか、顔のあたりを観察しないといけないって。おまえの親父さん、アンケートでもしたんじゃないか? 回答している間に鍵穴を観察したんじゃないかと思う」

 オウム真理教にまつわる事件が一時期は連日のように報道され、世の中が騒然としたものだった。新興宗教団体に向ける世間の目が厳しくなった。友兎の父親としては題材はなんでも良かっただろう、ただ納得されやすい話題を利用した。市役所の職員かなにか適当な身分を偽り「宗教団体から強引な勧誘をされた経験はあるか」といった質問を並べたアンケートに回答を頼んだのではないか。

 あ、と一声漏らして友兎がまばたきをした。

「それで詐欺のことを」

「そういうことだ」

 宗教団体から受ける被害とクレーム詐欺とは別物だ。しかし騙されるという意味では同じだろう。アンケートに回答し、友兎の父親が帰った後で柾木はかつて妹がクレーム詐欺の被害に遭った過去を連想し、それで忠告してやろうという気持ちになった。

「それって可能性としてはありですけど、本当ですかね」

「傍証があるんだ」

 首を傾げる友兎に、陵司は悪夢の中で交わした会話を説明した。裏庭の崖で柾木は飯芝と会話した。再婚はしないのかという問いから、よければ霊能力者を紹介するという話題へ移っていった。

 飯芝の本当の狙いは見合い話でも霊視の勧誘でもなかった。柾木が悪夢に苛まれているか確かめることだったのだろう。顔色が優れないなどと声をかけて動揺を誘い、柾木がくりかえし悪夢をみているか見極めようとした。

 江栗自然公園での渕村の霊視によって、柾木は稔里を殺害していないと確かめた。法律的な罪に問える事実はないと明らかになった。だが、それで終わりではなかった。

 死の直前に稔里は柾木をひっぱたいていた。柾木の口にしたなにかひどい言葉が稔里を動揺させ、結果的に事故を招いたのかもしれない。もし柾木に後ろめたいことがあったなら、くりかえされる悪夢を妻の呪いだと感じただろう。志摩子は亡き娘の夫に、もし道徳的過失があったなら償わせようとたくらんだ。公園での霊視の後、廿六木荘へ来なかったのは後ろめたさを覚えたからではないか。くりかえし悪夢をみて憔悴している柾木の顔を目にしたくなかったのかもしれない。

 このことを飯芝が陵司たちに隠した気持ちも察せられる。身内であろうとひいきせず公平に接するはずの志摩子。その志摩子が娘のために発揮した、あまりに生々しい感情にとまどったのだろう。

 それに、さっき飯芝が口にしたとおりだ。父が悪夢をみたからといって、それがどう事件に関わるのか。戸田間蛍吾を殺す動機につながるとでもいうのか。そんなはずがない。そんなわけがないとは思うのだが。

 思考を巡らせるうちに陵司は目眩を覚えた。頭がぐらつく。「大丈夫ですか」と友兎に肩をつかまれ、陵司はハッとした。なにかつかんだ気がした。蜘蛛の糸のようなもの、か細い推論の流れのようなものを。

「行こう」

 足を一歩、前に進めようとしてぐらついた。腰から崩れ落ちそうになった陵司の肩を友兎が支えた。「すまん」と言いながら陵司は今度こそ慎重に足を進めた。

 近くに東屋があった。八角形の簡単な屋根を一本だけの柱が支え、その柱の根元にベンチがあった。背もたれさえない簡素な木製のベンチだ。陵司は友兎の助けを借りながら、そこに腰を下ろした。

 外灯が前触れもなく灯った。日没が近いせいだろうか、駐車場近くの広場には犬を連れた者やボール遊びをする子供たちがいたが、ここには誰もいない。遠くから幼児の甲高い声がした。だが、すぐ静寂に戻った。暗い灰色の波が消波ブロックに飽きることなく打ち寄せられる。まるで時間に見捨てられた場所のように。

「やろう」

 陵司が声をかけた。その隣、友兎が無言でうなずく。

 瞼を閉じ、陵司は全身の力を抜いた。頭の中にある暗い階段を下りていった。

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