4 悪い夢

 乾いた音がした。残像のように手の平に痛みが残る。悲しい目をした夫がいた。事実を確かめようとするかのように頬を手で覆う。私の目をみつめ、唇を開き、だがなにも言わないまま目を伏せる。

 波の音がした。次の瞬間、低いエンジン音が聞こえてきた。私は視線を滑らせた。

(私は――)

 若い男を乗せた水上バイクが飛沫をあげている。波の上を潮が網目のような模様を描いている。

(――今、なにを)

 広げた手の平をみつめる。そこにはなにも無かった。かすかな痛みも、熱さえも。

「すまん」

 柾木の声が耳に入り、私は顔を上げた。謝ってほしいわけじゃない。喉の奥から込みあげた声を呑みこむと同時に目頭が熱くなった。

「投げればいいじゃない」

 だらりと下げた柾木の右手が目に入った。銀色の鎖が垂れている。

「そんなの、海に捨てればいい」

 持っていることに初めて気づいたとばかりに、柾木は拳を胸の高さまであげた。しげしげとネックレスを、赤黒いガーネットをみつめる。

「どうしてできないの?」涙声になるのを抑えられなかった。

「おまえの大事なものだろ」

「そうね、そうかも」目と目を見交わす。

「私も拾いに行って、溺れて死ぬのかもね」

 笑おうとして、うまくいかなかった。鼻を啜り、夫の顔から目を逸らして海をみつめた。ずっと海をみつめていられればいいと思った。

「先に帰ってる」

 つぶやくような声で柾木が言った。横を通りすぎ、突堤を陸のほうへ歩いていく。

 私は立ち尽くしていた。ふりかえって夫の背中に悪罵のひとつでも投げつけたかった。ナイフのように尖って、刺されば内臓まで達する言葉があれば良かった。そんなものがなくて良かった。そんな言葉があったなら、きっと私は自分自身を刺していただろう。

 突堤を歩いた。つばの広い帽子をかぶってはいても陽射しの強さを感じる。潮の香りを深く吸いこみながら昔のことを思いだす。そして思いださないようにする。突堤の先端、コンクリートの上に立ち、拳を握り締めて記憶の海に溺れそうになるのを全身で抗う。

 ひとつだけ思いだしてしまった。遠い夏、家族で海水浴をした。砂浜で穴を掘って遊ぶ兄弟らしき子供たちがいた。人見知りしがちな一人息子が声をかけようとしてためらっていた。

(もし、あの子が生きていたら)

 目尻から一粒の涙がこぼれ、頬を滑り落ちていくのを感じた。

 記憶を失ってしまいたい。あの入り江で問いかけても、足帆は答えることができなかった。この世でたった一人、私だけが知っている。あの子が与えられるはずだった名前を。

 なにかが腕をかすめた。虫だろうか。そう思った私は空を見渡して驚いた。いつの間にか暗い雲に覆われている。

(雨?)

 頬を冷たいものが打った。暗い空が唸っている。小雨では済みそうにない。雷でも落ちてきそうだ。

(いけない)

 帰ったほうが良い。私は踵を返した。突堤を小走りで駆ける。乾いたコンクリートに点々と雨の雫が打たれていく。

(近道しようか)

 消波ブロックの上を渡っていけば、少しは近道ができる。そう思った瞬間、背筋に寒気が走った。

(やめておこう)

 いい年して、みっともない。うっかり落ちて怪我でもしたら夫と息子に笑われるだろう。二人の笑顔を想像すると、少しだけ身体が軽くなるのを感じた。

 林の中を抜ける道を戻る。枝から垂れ落ちる雨粒がレンガを濡らしている。何人か私と同じように慌てて公園内を走っていく人影があった。

(帰らないと)

 公園の入り口脇に駐めていた自転車の番号錠を外す。ハンドルを押し、スタンドを倒すと同時にサドルへまたがる。ペダルを漕ぐ足に力を込め、アスファルトの歩道を走る。

 どこかで雨宿りすることも考えたが、いっそこのまま走り続けることにした。ずぶ濡れになりたい。涙を忘れてしまいたい。雨はすっかり本降りだ。風が真向いから吹きつけてくる。

 海岸沿いは危ないかもしれない。私は頭の中に地図を描いた。あえて回り道を選ぶ。民家の間を抜けていくほうが、建物に風が遮られて進みやすい。

 もともと休日は公園を散歩するのが習慣だった。朝から晴れ渡った空に心が浮き立った。沖縄のあたりに台風が来ていることはニュースで知っていたのに、このあたりはまだ大丈夫だろうと信じこんだ。

 いつものようにショートパンツにTシャツのラフな格好に着替えた。ガレージから自転車を出して、さあでかけようというところで柾木に呼びとめられた。自転車を押しながら益体もない話をする私に、少し前を行く夫は寝呆けたような返事をくりかえした。

 公園に来て、まわりに人目がなくなったところで柾木はネックレスをとりだした。「おまえのだろう」と突きつけられたそれを私はぼんやりとみつめた。意味がわからなかった。どういう気持ちでそれを私に返そうとしているのか想像がつかなかった。

(どうして)

 私は考えるのをやめた。考えることを、努めて止めようとした。

(どうして、いつも)

 もう何度も経験したことだ。嫌なことはどれだけ思い返しても嫌なままだ。自己嫌悪はいつまで経っても自己嫌悪のまま。なにも変わらないなら、いっそ悩まないほうがいい。

 土砂降りになってきた。ペダルが重い。立ち漕ぎでないと前に進めない。バケットハットのつばの先端から雨が垂れ落ちる。服が雨に濡れて動きづらい。きっと下着までびっしょりだろう。寒気を覚えた。さっきまで暑さにまいっていたのが嘘のようだ。雨に濡れて体温を奪われたらしい。

 再び海岸通りにでる。ここからは緩く長い上り坂だ。ここさえ越えれば帰れる。

(あと少し)

 廿六木荘の屋根が見えた。突然の横風に煽られ、バランスを崩しそうになる。体勢を立て直し、しゃにむに漕ぐ。

 敷地内に入る。気力が尽きた。私は自転車から下りるとハンドルを押して歩いた。やるべきことを頭の中に整理する。シャッターを開けて、ガレージに自転車を駐めて、服を洗濯機に放りこんで、シャワーを浴びて、それから。

(――あれ?)

 誰だろう。通用口の庇の下、小柄な姿がある。空は雨雲に覆われて薄暗い。人の形をした暗い灰色の塊にしか見えない。男なのか女なのかさえわからない。

 誰だろう。どうしてあんなところにいるのだろう。あそこの庇は短いから、きっとずぶ濡れになっているはずだ。雨宿りだろうか。うちに用事があるなら中に入って声をかければいいのに。

(誰――)

 稲光が走った。

 立ちあがる中年女性の姿が青い光に照らされた。つばの短い麦藁帽らしきものを被っている。金剛力士像のような厳しい顔をしていた。思わず私は足をとめた。横殴りの雨をものともせず、女はこちらへ歩いてきた。

「あの」

 どちらさま、と問おうとした。私がそれを口にする前に、地の揺れるような雷鳴が響いた。思わず私は、ひっと短く声を漏らした。同時に目の前の女が口を開いた。

 地の轟くような音に包まれながら、陵司は知らずしらず手の平を口元にあてた。寒気がする。全身を雨が打っている。雨粒に打たれながら陵司は心が引き裂かれていくのを感じていた。考えたくないという恐れ。そして考えなければならないという圧力。相反する想いがせめぎあっていた。

 渕村が陵司の顔を睨んでいた。ずっと離れたところで自転車を押す背中が遠ざかっていく。渕村と陵司の姿が見えないかのようにガレージへまっすぐ進んでいく。

 行かせてはならない。今なら止められるかもしれない。陵司は母の背中のほうへ足を踏みだした。

 さっと目の前に腕が伸びた。渕村が、仁王立ちという言葉そのものの姿でそこに立っていた。

「これはもう、起きたことなの」

「ちがう」血を吐くような思いで陵司は言った。

「起きなかったことだ」

 なあ、そうだろう? 陵司はすがりつきたい気持ちで渕村に訴えた。

「こんなもの、ただの悪夢だ」

 夢に過ぎない。二十三年前にに過ぎない。

 ――じゃなければ物凄く理屈っぽい性格だからじゃないですか。

 煙草の先で火が輝く。キッチンで友兎と交わした会話の断片が耳に蘇る。

 ――正直、俺も初めてで驚いてるんすよ。

 同じだとしたら。父も同じ性質だったとしたら。血のつながった父子で同じ反応をしたなら。現実には存在しなかった過去を、終わりのない悪夢を父も目にしたとしたら。

 志摩子に依頼され、友兎の父親は廿六木荘を訪れると柾木に呪いをかけた。柾木はくりかえし悪夢をみただろう。陵司が電話したとき、父は眠そうな声をしていた。凜や慎太たちは徹夜明けのようなぎらついた感じを受けたという。悪夢のせいで柾木は極度の睡眠不足だったのではないか。

 柾木はどんな夢をみたのか。初めは現実と同じだったろう。近道をしようとして消波ブロックから不注意で転落するだけの、ただの事故だったはずだ。やがて異なる道筋をたどっていく。慎重になって転落をまぬがれるかもしれないし、近道すること自体やめるかもしれない。それからどうするか。

 シャッターの開く音がした。母の姿がガレージの中に消えていく。立ち尽くしたまま、陵司は過去の幻影をみつめていた。

(馬鹿な)

 あそこに父がいる。妻の身体に憑依した父が。

 公園での転落死を回避し、無事に帰ってきた母がいる。

(馬鹿げている)

 わかっていた。これから母は一階に行こうとする。これだけの土砂降りだ、外階段は使わずガレージから一階へ直接向かうだろう。気配でもしたのか、物置部屋に誰かがいると気づく。何の気なしにスライドドアを開けてみる。音もなくドアが開いていく。

 そこには二人の人物がいる。凜からネックレスをとりあげた蛍吾。昨夜の騒ぎはなんだったのかと興味本位で訊いた高校生の陵司。

 ――ひょっとすると僕は、人を殺したのかもしれない。

 磯貝足帆の死のきっかけを作ったのは自分かもしれないと、蛍吾が陵司に打ち明ける。その言葉をこれから稔里は耳にする。

(ありえない)

 シャッターが下ろされる。稔里の姿が消えた。

「ありえない、だろ」

 渕村は立っていた。なにも言わず、ただ雨に打たれている。

「そうだろう? そんな馬鹿げたこと」

 俺は泣いているのだろうか。自問したが、陵司にはわからなかった。顔を幾筋も雨が流れ落ちていく。

「父さんが蛍吾を殺したのは……だってのか!」

 渕村をインタビューする前、崖から海を眺めていた陵司は立ったまま眠りに落ち悪夢をみた。同じことが柾木にも起きたのではないか。廿六木荘を蛍吾が早めに訪れ、手伝いを申しでた。椅子を運ぶため二人は物置部屋に向かった。電球が切れているのに気づき、交換のため蛍吾は脚立に上がろうとした。くりかえし悪夢をみて極度の睡眠不足に陥っていた柾木は立ったまま夢をみたのではないか。

 ――俺は……まさ……。

 今朝、ベッドで目覚めたとき陵司は混乱した。あまりに長く、あざやかな夢をみたせいで頭がもうろうとしていた。

 ――ちがう、陵司だ。

 自分が誰なのかわからなくなった。夢の中で父になっていたせいで、目が覚めても自分が父であるかのような錯覚を覚えた。

 同じことが二十三年前にも起きた。かつて駆け落ちまでして愛した男が命を落とすきっかけを作ったのは誰か初めて知った。そんな女の心のまま柾木は目を覚まし、そして目の前には蛍吾がいた。自分を稔里だと錯覚した柾木は感情を爆発させ、蛍吾の後頭部へ懐中電灯を打ちおろした。

(だから飛びおりた)

 呪いをかける霊能力者の存在を柾木は知らなかった。柾木にすれば、何度もくりかえし悪夢をみた末に蛍吾を殺したことになる。

(頭がおかしくなったと思って)

 なぜ悪夢がくりかえされるのか。柾木は状況を理解できず、とまどっただろう。亡き妻が自分を責めていると解釈したとしても不思議ではない。蛍吾を殺めた柾木は、精神に異常をきたしたと思いこんだ。

 娘の死に柾木が関わっているのではと志摩子が疑い、

 雇われた友兎の父が柾木に悪夢をみせて、

 稔里が事故死した前後に蛍吾が過去の罪を口にし、

 知るはずのなかったことを稔里は耳にし、

 自我が混濁した柾木が蛍吾を殺した。

 奇跡的な偶然と悪意が連鎖した。幻影が人を殺した。発狂したと思いこみ、父は人生に絶望して二階から飛びおりた。

 あまりにも蛍吾が浮かばれない。いったい誰を恨めばいいのか。こんな真相なら、父が悪人だと思いこんでいたほうがましだった。

「夢だ。きっと、これは悪い夢なんだ」

 うつむいたまま陵司は動けなかった。いったいどれだけの時間をこうして立ち尽くしているのだろう。少しずつ雨が弱まってきた。水たまりの波紋が収まっていく。水面に映る暗い雲の隙間から青空が覗いた。

「そうだろう? なあ、そうだろう?」

 渕村の顔があった。なにも言わず、陵司の顔をみつめている。泣きじゃくる子供のような声で陵司が言葉を重ねても、ただそこに無言で立ち尽くしている。

 耐え切れず、陵司は瞼を閉じた。いつまでも終わらない悪夢の中にいたかった。だが、それも長くはもたなかった。陽が射してきたのだろう、瞼の裏がまばゆく輝いた。

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