5 市民のためだ
波の音がしていた。押し寄せ、崩れ、引いてはまた押し寄せる。飽きることなく波は打ち寄せる。眠りに落ちた赤ん坊の息のように。あるいは心臓の鼓動のように。穏やかな音に陵司は包まれていた。
瞼を開く。耳たぶに熱を感じた。頬を涙が滑り落ちていく。怠さも熱っぽさもなかった。ふわふわと雲の上にいるような浮遊感があった。マスクをした友兎の顔が間近にあり、ようやく陵司は自分が今どこにいるかを知った。
空が暗く、ぽつぽつと星が輝いている。顔を起こした陵司は気づいた。友兎はスマートフォンを手にしている。それをずっと陵司の耳に当てていたらしい。
「渕村さんが……」
友兎はスマートフォンを引っこめた。説明の仕方に迷ったのか、目を泳がせる。
「えっと、こういうことっす。飯芝さんが病院に駆けつけたんですよ。それで俺にかけてきて、そしたら渕村さん、ベッドで目を覚まして。陵司さんと話したいって。今は無理だって言ったんですけど、耳にあてるだけでいいとか言って」
そうか。まだ頭の中がぼやけており、陵司は生返事をした。指先で頬の涙を拭う。
友兎が手にしたスマートフォンから声がした。飯芝らしい。「貸してくれ」腕を伸ばし、陵司は友兎からスマートフォンを受けとった。
「大丈夫か」飯芝の声がした。
「なんとか」
陵司は額に手をあてた。どうやら熱もないらしい。悪夢をみたにもかかわらず、身体が軽い。何時間も眠った後のようにすっきりしている。
「それなら良かった」
「渕村さんは大丈夫ですか」
「急に倒れた理由はわからんが、今は落ち着いているよ」
「お役に立てず、すみません」
「構わんさ」
ひっかかった。陵司は笑みを浮かべた。どうやら頭も冴えてきたらしい。
「やっぱりそうか」
「なにがだ」
「渕村さんの精神状態が回復しないか期待してたんだろ?」
飯芝の声が途切れた。陵司は構わずに言葉を続けた。
「俺は、二十三年前の事件で渕村さんはなにか心が傷つくような体験をしたと思ってる。長い時間をかけても後悔は晴れることがなく、遂には仕事を辞め、人と話すことすら難しくなるほど悪化していった。俺を呼んだのは、あの事件を探ることが渕村さんの心に刺激を与えると期待したからじゃないのか」
「七十点だな」
今度は陵司が押し黙る番だった。
「渕村があの事件のことを引きずっているとは私も思っていた。実際、何度か水を向けたんだが私には話してくれなかった。君らに事情を探ってもらい、なにがあったのかわかれば治療の助けになるかもしれないと考えたのは事実だ」
なるほど、と陵司はうなずいた。治療のためだったのか。渕村の生霊が陵司のみた悪夢に参加していたと考えるより現実的だ。
飯芝が、成功する確率はかなり低いと言っていたのもわかる。本来なら友兎の能力は呪いじみた悪夢をみせるだけで、陵司のように過去を再体験することなど期待していなかった。断片的であっても父の体験を覗き見て、くわえてインタビューに同席して過去の記憶を刺激することで、渕村がどんな心の傷を受けたのかヒントだけでもつかめれば良いくらいの期待だったのだろう。
「だがな、渕村を助けるくらいで私は〝人助け〟などという言葉は使わんよ」
沈黙があった。心にいくつか浮かんだ考えを捨て、最後に残った言葉を陵司はぶつけた。
「九竜志摩子のためか」
ちがう。きっぱりした口調で飯芝は言った。
「市民のためだ」
陵司の脳裏に、選挙カーの上でマイクを握って話す男の顔が浮かんだ。
「市長選のためか?」
廿六木荘へ行く前に叔母の家を訪れた。市長選に向けて演説をする候補者の姿がテレビに映っていた。新型コロナウイルス感染症の影響で経営に打撃を受けた企業への助成金の在り方を巡って、トリアージ派と温情派が争っていた。
「君は本当に勘が良いな」半ば呆れた調子で飯芝は言った。
「つまり、あんたは……志摩子さんならどの候補者を推すか、それを知ろうと?」
志摩子が亡くなったのは去年だ。そのときにはもう、症状が進行していた渕村は霊視ができなかっただろう。志摩子の判断を知るには、まず渕村の健康状態を回復させる必要があった。
「渕村さんの能力は、死者が考えていたことは読めないんだろ」
「わかってる。可能性に賭けているだけだ。奥様の体調が急変する前、次期市長について私は考えを伺いに行く約束をしていた。奥様がどこに入院したか知っているかな」
ようやく陵司は話の見当がついた。志摩子の孫が院長を務める総合病院の名前が頭に浮かんだ。
「まわりは九竜家の息がかかった者たちばかり。そして奥様は身内だからとひいきされるような方でないことは誰もが知っている。誰にこの街の未来を任せるか、メモの類を残しても隠滅されるかもしれない」
「でも渕村さんなら、てことか」
たとえばその人物の名前を指で空中に書くだけで良い。渕村は死の直前に志摩子がどういう身体の動きをしたか霊視し、誰に未来を託そうとしたか知ることができるだろう。
「やめとけ」
「ああ?」
「意味がない」
スマートフォンを持つ手が汗ばむ。額が熱いのはまた熱が上がってきたのか、それとも怒りのせいなのか。
「死人は責任を持てないだろ」
「それは……わかっている」
「飯芝さん、あんたが自分で正しいと思うことをすべきだ」
たとえ、その判断の結果として人の命が失われることになったとしても。過ちを犯し、長く後悔を引きずり続けることになろうとも。現実をみつめ、前に進むしかない。
「わかっている。だがな、私はもう年寄りなんだ」
自嘲の混じった声で飯芝はそう言った。
「独りで仕事をするのはこたえてな。おっと、わかった。話が長くなったな。陵司くん、渕村が話したいようだ」
遠くから浜風千逢の声が小さく聞こえた。どうやらスマートフォンを使っているのを看護師に咎められたらしい。すみません、もうちょっとだけと謝っている。
なにを言われるのだろう。陵司は頭を巡らせたが、なにも思いつかなかった。なにか動機について補足することでもあるのか。当然のことのように感じていたが、そもそも夢にでてきたのは本当に渕村だったのか。
渕村はなかなかでなかった。鼻を啜る音だけがしている。「がんばって」千逢が呼びかける声がした。老人のしわがれた声がした。
「ごめ……い」
途切れとぎれの声が聞こえた。謝罪の言葉だと、陵司は遅れて理解した。
「……めんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
陵司はなにも言えなかった。どう返事をすればいいのか、なにも思いつかない。いつまでも渕村が同じ言葉を重ねるのをただ聞き続けていた。
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