一、はじまりの悪夢

1 あなたが犯人ね

生まれてから死ぬまで

両親 友達 恋人……生きている間にすれ違った数え切れないほどの人たち

その人はもういないけどその人のことを覚えている人はいる

私の見ているものはみんなに残っているその人の記憶とその人への想いなんじゃないのかなって

幽霊ってそういうことなんじゃないのかなって思っている

――奥瀬サキ『流香魔魅の杞憂』




 あなたが犯人ね、と探偵が言った。溜め息混じりの声だった。退屈な仕事の終わりがようやく見えて、うっかり漏らしてしまったという感じの。

 突然の糾弾に頭の中は真っ白――とはならなかった。不思議と冷静に受けとめることができた。さて、どう返事をしたものか。なにか言ったか? そんなふうに空とぼけて訊き返そうか。はたまた大袈裟に驚いてみせるか。

 いっそ馬鹿正直に答えるのも面白いかもしれない。そのとおり、俺が殺したんだ。よくわかったな。

「なにか言ったか」

 壁の照明スイッチから指先を離す。ふりむきながら俺は小首を傾げてみせた。

 たったいま灯した裸電球が天井の真ん中で温かな光を放っている。板張りの床はワックスが輝いているが、かすかに埃臭い。

 壁際に雑多な品々が置かれている。鏡台、衝立、籐椅子、帽子掛け、白磁の花瓶、大人でも身を潜められそうな木箱。造りつけの木製の棚にはさらに数多くの小物が並んでいる。工具箱、卓上扇風機、スキー板、かつて息子が使っていたランドセル、変色した段ボール箱、埃を被った段ボール箱、重みに耐えかねて歪んだ段ボール箱。当分は出番が無さそうなものばかり無言で身を寄せあっている。

 部屋の奥、壁際に焦げ茶色のソファが置かれている。三人掛けのソファの真ん中に、渕村徳恵ふちむら とくえの姿があった。背中を丸め、顔をうつむけている。ただでさえ小柄な姿がますます小さく見える。

「あなただと言ったんです」渕村が顔を上げた。

恩陀柾木おんだ まさきさん、あなたが犯人だと」

 わざわざフルネームで俺を指弾した探偵は、ありふれた顔の中年婦人だった。丈の短いぶかぶかのデニムパンツに、これまたぶかぶかの白いチュニック。今すぐエアロビクスを踊りだしても支障のない、動きやすい格好だ。

 髪は短く、パーマがかかっている。きっと休日には同世代の者たちと喫茶店にでもたむろして延々とおしゃべりしているのだろう。三日も過ぎれば道端ですれ違っても気づけそうにない。平凡なおばちゃんの顔だ。

 強いて言うなら目が違う。剣呑な目つきだ。赤の他人の子供でも無作法があれば容赦なく𠮟り飛ばす。神の鉄槌がふりおろされる日は近いと綴られたビラを自信満々に往来で道行く人たちに突きつける。世の習わしを知り尽くしているかのような目をしている。

「へえ、そうか」

 気の抜けた声で俺は返事をしつつ、喉元を手探りした。シャツの第一ボタンはとっくに外れていた。

 渕村の頭の上、天井際の窓を見上げる。細長い曇りガラスはその中心部分が朱く染まり、端のほうほど黄色味を帯びた白へグラデーションを描いている。もう陽が沈む時刻らしい。ここは半地下だ。あんな採光用の小さな窓を開けたところで風はたいして吹きこまない。風どころか虫が飛びこんでくるのが落ちだろう。

 ここは物置部屋だ。エアコンなど無い。渕村も暑いのだろう、藤色の麦藁帽を扇代わりにしている。棚から扇風機をとりだしてコンセントにつなごうか。いやいや、こんなところに長居などしたくない。

「とりあえず、上に戻らないか」

 皆がいるリビングに戻ったほうが落ち着いて話ができるだろう。ここは剥き出しの白熱電球ひとつしかなく薄暗い。肌着が汗でべったりするほど蒸し暑い。誰が殺したなんて陰惨な会話も精神衛生上よろしくない。おまけに扉一枚隔てたクローゼットには頭を割られた死体が転がっている。

 こんな部屋、誰だって長居したくないだろう? あんただってそう思うだろう?

 渕村は無言で首を左右にふった。

 俺は溜め息を吐いた。

 戸田間蛍吾とだま けいごを殺したのは遅い昼下がりのことだった。蛍吾は天井の電球を交換しようとしていた。俺に背を向け、脚立に足をかけようとした。頭頂部から左斜め下にあるつむじめがけて、俺は手にしていた懐中電灯をふりおろした。

 瞬間的に蛍吾は身を竦めた。指で頭に触れながら、上半身を捻じるようにしてふりかえった。気弱そうな、やや垂れた目が俺を見上げた。

 俺は決断しなければならなかった。今すぐ謝罪するか、それとも最後までやり遂げるか。論理的な思考を組み立てる前に腕が動いた。蛍吾は頭をかばおうとしたが、それはあまりにも遅すぎる動きだった。

 銀色の懐中電灯は細長く、持ち手の部分が金属製で、単一乾電池がいくつも入っていて重かった。逆手にした懐中電灯を何度ふりおろしたか覚えていない。気が遠くなったのか蛍吾は足をふらつかせ、壁際のソファに倒れた。

 埃避けの大きな白い布カバーにソファはすっぽりと覆われていた。俺は座面に片膝をつくと、仰向けに横たわる蛍吾の襟元をつかんで何度も殴った。気づけば蛍吾は手足をだらりとさせ、動かなくなっていた。

 静かな時間が流れた。三人掛けのソファの真ん中、スラックスに青いワイシャツ姿の男が倒れている。人懐こそうな笑みを絶やさなかった男は虚ろに目を開き、額や鼻筋に血が流れている。

(死んだ)

 荒い息が落ち着くにつれ、遠くから波音が聞こえてきた。長閑のどかな音が目の前の惨状にそぐわなかった。

(ちがう、殺したんだ)

 そこからの俺の行動は愚かの一語に尽きた。スライドドアを開けて物置部屋をでると階段を上がった。そして、一階の洗面所で顔を洗った。

 馬鹿だと思うだろう。俺だって同感だ。だがどういうわけか、そのときは顔を洗うことしか考えられなかった。まるで顔に接着剤を塗りたくられたかのように不快だった。蛇口からほとばしる冷たい水を何度も手の平に受けては顔に浴びせた。溺れ死にそうなほど顔を洗ってから、ふと鏡をみつめた。ワイシャツに赤い斑点が散っていた。

(返り血か)

 背筋がぞっと冷えた。いっぺんに夢から覚めた心地になった。よく見れば腕や手の甲も血飛沫で汚れている。なにをしている、顔を洗ってる場合じゃないぞ。鏡に向かって怒鳴りつけたくなった。

 俺は二階に向かった。寝室に入り、箪笥たんすを漁った。ボタンダウンシャツに着替えると、血のついたほうのシャツは丸めて抽斗の奥に押しこんだ。

 やるべきことを考えながら階段を下りる。物置部屋の前に立った。スライドドアは閉まっている。手を離せば勝手に閉まるタイプだ。覚悟を決め、俺は把手をつかむと力を込めた。夢か幻ではと期待したが、あいにく悪夢はそこにあった。

 天井際に細長い採光用の窓がある。光源はそこだけなので薄暗い。痩せた中年男がソファに座っている。だらしなく崩れた姿勢のまま、目を閉じて動かない。

 部屋の真ん中に脚立が置かれ、その傍らに新品の白色電球と血塗れの懐中電灯が落ちていた。殴られたとき蛍吾が落としたのだろう。段ボールの包装に入れたままのおかげで電球は割れていなかった。

 かすかに波の音が響く。耳にしていると現実と虚構の境界がぼやけてくる気がした。

(海……)

 そうか、海か。死体を投げ捨てれば転落事故の扱いになるかもしれない。だが、思案の末に俺は首を左右にふった。

 二年前、妻が命を落とした。義母の提案で今日は妻を偲ぶ集まりを催すことになっていた。

 予定では午後三時から集まりが始まる。蛍吾は四十分も早く訪れ、なにか準備で手伝えることはないかと申しでた。リビングへ椅子を運んでもらおうと二人でこの物置部屋に足を運び、電球が切れていたことを思いだした。蛍吾が脚立を部屋の真ん中に置き、俺は棚に替えの電球をみつけた。蛍吾の手元を照らしてやろうと棚に目をやり、柱に打った釘からぶら下がる懐中電灯をみつけた。俺はそれを手にし、凶行に及んだ。

 腕時計を確かめる。文字盤の針が蛍光塗料で輝いている。集まりの時刻まで二十分もない。気の早い客がもう訪れてもおかしくない。この家のどこかに死体を隠すしかない。

(夜までの辛抱だ)

 おあつらえ向きにこの家の裏庭は崖に面している。崖の真下は昼間こそ岩棚が剥き出しだが、夜になれば潮が満ちて波に沈む。この家の周囲に民家はない。町はずれの、海際にぽつんと建つ一軒家だ。目の前に道路があるが、生け垣で遮られているから注意すれば目撃される恐れは小さい。家の中に死体を隠しておき、夜になったら崖から死体を投げ捨てよう。

 おあつらえ向きにソファは埃避けの巨大な布カバーで覆われている。俺は布カバーを風呂敷代わりにして蛍吾の身体をくるんだ。凶器の懐中電灯も忘れずに入れる。さらなる出血があっても血が染みでないよう、頭部を念入りに包んだ。

 死体を包んだ布カバーをひきずる。床を滑らせるだけならそれほど力は要らなかった。ウォークインクローゼットの引き戸を開け、死体を引きずりこむ。ここはろくに使っておらず、がらんとしている。いくつかハンガーがぶらさがっているだけだ。

 クローゼットの戸を閉める。気持ちとしては鎖を巻いて南京錠でもかけたいところだが、そうもいかない。さすがによその家のクローゼットを無断で開ける馬鹿な客はいないだろう。

 なぜか床に目が惹かれた。脚立の横に来客用のスリッパが揃えて置かれている。脚立に上がろうとした蛍吾が脱いだのだろう。

 思わず声がでそうになった。俺は慌てて階段を駆けあがると玄関から蛍吾の革靴を持ってきた。ぜいぜい息をしながら物置部屋に戻る。クローゼットを開け、布カバーを広げて蛍吾の足に履かせた。

 再びクローゼットの戸を閉じる。もう見落としはないだろうか。俺は床に目を凝らした。懐中電灯が落ちていたところにわずかだが血痕があった。再び一階に行き、いつも洗面所に置いている雑巾を手にとった。水で濡らして絞る。地下階へ舞い戻ると床を拭った。見渡したが、目立つ血痕は見当たらなかった。小さな飛沫はあるかもしれないが、そもそも客が物置部屋に入ることはないだろう。大丈夫、死体を始末した後で念入りに掃除すればいい。

「恩陀さん」

 探偵に名を呼ばれ、俺は思わず身を震わせた。蛍吾を手にかけてからのあれこれを思い起こしながら、ぼんやりしていたらしい。

 慌てるな、問題はない。たしかに死体はみつけられてしまった。思わぬ見落としもあった。だが、俺が犯人だと証明する証拠など無いはずだ。

「自首する気はありますか」

 麦藁帽で顔を扇ぎながら、渕村は税務署職員のような表情で俺を見上げている。小市民たちを帳簿で管理し、涼しい顔で労働の対価を奪っていく。

「自首?」

 小首を傾げ、唇の端を歪め、そして肩を竦める。大根役者のように俺の演技はわざとらしかったかもしれない。

「あんた、さっきまで途方に暮れていたじゃないか。なにを急に俺が犯人だなんて言うんだ」

「明かりを点けたから」

「なんだって?」

「だから、あなたを犯人だと言いだした理由」

 わけがわからない。このオバちゃん、暑さにやられて頭のネジが緩んだのか。なにか勘違いで俺を犯人だと思いこんでいるのかもしれない。

「いいか? さっきも説明したが、蛍吾くんは同じ銀行に勤める後輩だ。亡くなった妻の親戚だから今日の集まりに呼んだ。家族ぐるみで付き合いを重ねてきたから友人とも言えるな。蛍吾くんとの関係はそれだけだ。俺に蛍吾くんを殺すなんの理由がある」

 これが俺の生命線だった。死体はもうみつけられてしまった。警察が来れば状況的に俺を最有力容疑者とみなすのは間違いない。この上に動機までそろってしまったら万事休す、犬のおまわりさんだって俺を逮捕するだろう。

「そうね」

 渕村はいかにも無念そうに瞼を細めて首を左右にふった。

「正直、動機はさっぱり」

「おいおい」

「それは警察に任せることにします。犯人はあなた、それだけはわかってるから。あのね、実を言うとあなたのことは初めて会ったときから疑ってたの」

「そりゃ名探偵だな」

「まだ気づかないの、これ」

 そう言って渕村は妙なしぐさをした。鎖骨のあたりで透明ななにかをつまむような。無意識に俺はしぐさを真似た。指先がなにかに触れた。

 尖った硬い布だった。襟だ。嫌な予感がした。俺は反対側の手でも襟元を探った。ボタンダウンシャツは襟の先にボタンがある。それが片方しか嵌められていない。

 記憶が蘇る。蛍吾を殺し、洗面所で顔を洗い、ワイシャツが血飛沫で汚れているのに気づいた。このまま人前にでるわけにはいかない。寝室でシャツを着替えた。焦っていたのだろう、襟のボタンを片方しか嵌めなかったらしい。

 初めて会ったとき、この探偵は怪訝そうな顔をしていた。その時点ではせいぜい粗忽な奴としか思わなかっただろう。だが後になって、俺が慌てて服を着替えた可能性を、人を殺して返り血を浴びたのかもしれないと疑ったのだとしたら。

(しまった)

 これは、罠だ。

 渕村が俺をみつめていた。じっくり俺の表情を観察していた。医薬品の研究者がモルモットに投与した試薬の効果を確かめているような眼。

 この眼だ。相手の表情を、一挙一動を決して見逃さない。初めて会ったときから嫌な予感がしていた。

 死体をクローゼットに隠し、しばらくは平和だった。義母からの電話で集まりの開始が遅れることになった。リビングで来客の相手をしていると、地下階から声がした。ごめんくださいという声に、また誰か勘違いをしたなと察した。

 この辺りは北にある崖に向かって土地が隆起している。習慣的に地下階と呼んでいるが、地下にあるのは北側だけで南側は地上に露出している。南北に走る海岸通りを北側から来れば一階の東端に玄関があるとわかる。だが、南側からだと地下階を一階と錯覚して通用口に入ってしまう者が多い。

 俺は地下に向かった。暗い廊下には誰の姿もなかった。この廊下は窓がない。背後にある階段の踊り場にある窓と、突き当りにある通用口のドアの上半分に嵌められた型板ガラスから射しこむ光しかない。

 物の境界がぼやけるほど暗い廊下に耳慣れない電子音が響いていた。目覚まし時計のベルの音のような、あるいは電話の呼び出し音のような。しかし地下階に電話などあるはずもない。

(まさか)

 耳が音の方向を探りあてた。物置部屋のスライドドアをみつめ、俺はしばし混乱していた。把手を握り、開けていく。くぐもった電子音が明瞭になる。部屋の奥、クローゼットの戸が開いていた。

 そのときにはすべてを理解していた。来客の一人は蛍吾の娘だった。姿を現さない父を心配して携帯電話にかけたのだろう。間抜けな俺は蛍吾の所有物をなにも確認していなかった。間抜けな探偵はうっかり地下階の通用口から入ってしまった。耳慣れぬ音に興味を惹かれて物置部屋に入り、クローゼットの扉を開けた。

 つばの短い藤色の麦藁帽を被った小柄な中年婦人がいた。埃避けの布カバーを広げ、がらに目を落としていた。

 その眼に誘われるようにして視線を走らせた俺は、ショックで気絶せんばかりになった。

(馬鹿な)

 広げられた真っ白な布。その一部は蛍吾の頭の傷から流れでた血を吸って真っ赤に染まっていた。そのいびつな赤い円から、一本の線が伸びていた。

 それを目にしたところで大半の者は血の流れた跡としか思わなかっただろう。だが、俺にはわかった。人間が意思を込めて描く線はただの線とは違うものだ。

(生きてたのか)

 死者からの伝言、ダイイングメッセージ。在りし日に推理小説で覚えた言葉が胸に蘇った。

 俺に殴打されて蛍吾は壁際のソファに倒れた。死んだように見えて、本当はまだ息があった。俺が洗面所で顔を洗ってシャツを着替える間に、かろうじて意識を取り戻した蛍吾は頭の血に指を浸し、布カバーに殺人者の名前を記したのではないか。

 運が良かった。死体を布カバーでくるんだとき、血が染みでてこないよう頭部を念入りに包んだ。そのとき蛍吾の手があった位置の布は頭の辺りに来たのだろう。血を吸って赤く染まった領域が広がり、俺を告発するはずだった血文字は失われた。残ったのは赤い円から伸びる、なんの意味もない一本の線だけだった。

 死体を観察していた中年婦人が俺の姿に気づき怪訝そうな顔をした。ミスに気づいてパニック状態の俺はなにも言えないまま見知らぬ訪問客と睨みあった。

 あの瞬間から、長い闘いが始まった。

 そして終わりが近づきつつある。

 中年婦人は渕村徳恵と名乗り、興信所に勤めていると説明した。証拠を隠滅されることを恐れたのだろう、俺を含む客たちはリビングでの待機を命じられた。物置部屋を調べ終わったのか、やがて渕村はキッチンに俺たちを一人ずつ呼んでは今日の行動や蛍吾との関係について質問した。何度か渕村は中座し、物置部屋の調査をしているようだった。

 一通り全員の聴取が終わったところで、俺だけが物置部屋に呼ばれた。頼んでもいないのに客たちの行動を説明された。犯人を特定できそうもない困ったものねと、たいして困ってなさそうな顔で言われた。

 渕村の魂胆は見え透いていた。こうやって俺だけを殺人現場に呼びつけ、事件を検討したいという口実で会話につきあわせてボロを出すのを待っているのだろう。あの布カバーのダイイングメッセージは確かに見落としていた。だが運命の女神は俺に微笑み、告発は失われた。こんな苦し紛れの手段を選んだことからしても、渕村には俺を犯人だと証明する決定的証拠など無いはずだ。

(無いはず、だ……)

 そう頭では理解していても、心のどこかが折れてしまっていた。

 殴られた蛍吾が倒れた焦げ茶色のソファに、この小さな中年婦人はまるで亡霊のように座っている。死者の代理人が俺を告発しようとしている。

「蛍吾くんを殺した理由か」

 脚立の上に置かれた電球を手にとる。寿命を迎え、さっき俺が取り外したものだ。さっきまで新品のほうを包んでいた包装段ボールに電球を入れた。

 ついさっき、警察の捜査のため明かりが点くようにしておいたほうが良いと渕村に促された。俺は脚立に上がり、蛍吾が果たせなかったことを代わりに果たした。

「そうだな、そんなものがもしあるとしたら」

 電球を脇に挟む。もう片方の手で脚立を手にし、畳む。軽い金属音がした。

「あいつが、だな」

 わずかな間があった。俺は脚立を棚に戻した。迷ったが、古い電球は電球の買い置きがあった場所にひとまず置くことにした。こういうものはどうすべきか訊きたいが、妻はもういない。ソファのほうをふりむくと、渕村は小首を傾げて不満そうな顔をしていた。

「わかってもらおうとは思わないさ」

 俺の口調にはあらゆるものが詰まっていただろう。あきらめ、疲労感、嘲弄、そして虚無。

「どうして俺が犯人だと思ったのか、説明してくれたら俺も詳しく話す」

 深く渕村は息を吸いこんだ。口を開き、なにか言いかける。だが唇から声が発せられることはなく、おもむろに立ちあがった。どうぞ。そう言わんばかりにソファのほうへ手の平を向ける。

 いや、疲れてない。立ったままでいい。俺はそう断ったが、渕村はまた同じしぐさをくりかえすだけだった。

 ――明かりを点けたから。

 渕村の言葉が脳裏を過ぎった。

 ――だから、あなたを犯人だと言いだした理由。

 明かりが点いたら、どうなる?

 部屋が明るくなる。暗いときには見えなかったものが、見えるようになる。

 そこから先はすべてが自動的だった。三人掛けのソファの真ん中に俺は腰を下ろした。それをみつけても、もはやショックは感じなかった。驚きも恐怖も悲しみもなかった。

 このソファには布カバーが被せられていた。その上から蛍吾は座り、血文字を残した。布地は薄く、血は座面へ染みていった。血飛沫がないか探したときは床しか見ていなかった。たとえ目にしたとしても、薄暗い部屋で焦げ茶色の座面に赤黒い血で記された文字は気づけなかっただろう。

 マサキ。かすれた血文字が、俺の名前を片仮名で綴った三文字がそこにあった。

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