イカ刺しは生姜に限る
よく寝た。いつの間にか寝落ちしていたらしく、布団の中ではなく、布団の上だった。この季節だ、体を冷やすこともなく疲れは取れている。寝ている間に魔枝が元に戻り、服がギチギチになっていたのは問題だったが。
指先にフェムを感じた。冷たくもなく、温かくもない。
フェムは顕現させているだけで魔力に負担がかかる。こうして、丸一日に渡って顕現させられるようになったのは最近のことだ。魔力が強くなったというよりは、慣れたのだろう。
人より魔力が強いことは自覚している。だが、魔力の強さは、行使できることの強力さと直結しない。おとぎ話とは異なり、この世界にはなんでもありの魔術は存在しない。体力が多いからといって、空を飛べるわけではないのに似ている。
なんでもありではないの悪い意味での筆頭が契約術だ。契約だなんて言葉に騙されてはならない。あれは脳の一部分を変化させる、生体コントロールだ。
生体コントロール系の魔素を持つ者は少なく、多くは医療に携わる。その一分野を極めて特化させたのが契約術といえる。ごく一部のエリートが迷宮連の機関で学ぶらしいが、たとえ独学で似たような術を行使できるようになったとしても、実際に人間に使ったならば重罪だ。
最悪なのが、契約術に可逆性はないということだ。技術が進歩すれば戻せるようになるのかもしれないが――先生が特級に拘り続けたのも当然か。
ほんの少し前まで、契約術で自由意思を奪われる未来は、俺にとっていつか訪れたかもしれない結末だった。こうして今日この日に至った現実に、まだ実感が追いついていない。
布団の上で転がりながら、体温で少し温かくなったフェムを撫でる。
アーティファクトは、世界の法則から少し浮いた存在だ。それでも、人やモノを瞬間移動させたり、国を滅ぼせるようなアーティファクトは知られていない。そんなものがあるなら、世界はもう少し異なった歴史を辿っていたように思える。
これは俺の生まれ故に、漠然と元から理解していることだが――精霊と呼ばれる存在は、迷宮のシステムの端末のようなものだ。端末とはいえ、それぞれに自我があり、個性もある。端末であるから、精霊は迷宮の外では存在できない。迷宮が死ねば、精霊は共に消える。
精霊は迷宮と切り離せないが、アーティファクトは持ち出せる。ここまで揃えば誰でも気づく。精霊が姿を変える、聖剣や魔剣と人間が呼ぶものも、アーティファクトの一種だ。
まぁ、アーティファクトという呼び名自体、人間が物事を理解するために定義したものだ。俺にとっては、どうでもいい。フェムはフェムでしかない。
(起きるか……)
一晩経ってぬるくなった水を凍る寸前まで冷やしてあおった。心地よい刺激が喉を通り過ぎ、眠気が一気に吹き飛ぶ。
窓をあければ、スズメが忙しなく鳴き交わしている。朝霧でほんのりと湿った程よく涼しい空気は、周囲の緑と花の香りをはらんで、街の中であっても生命の豊かさを教えてくれる。
「おはよう、フェム」
部屋の中で杖は必要ないが、フェムを連れて洗面台に向う。顔を洗い、髪を整える。
洗面台があるのは女性客向けだろうか。風呂とトイレは共通だ。これは程度が低いというよりは、一般家屋を改造して運営している宿だからだ。村にもこの手の宿はあった。大規模な宿よりも、地域の特色を生かした内装や食事が楽しめるとかで、一定の人気があるらしい。
鏡を見る。俺本来の視覚では鏡は何も映さない。鏡は魔素を反射しないからだ。まぁ、一万グラン札の透かしを見たときの感覚から想像できるように、映った所で顔の良し悪しや表情は俺には区別できないだろう。脳はいとも安易に、使わない機能を削ぎ落とす。
鏡にぼんやりと映る、フェムが見せるシルエットに向き合いながら問いかけた。
「フェム、どうだ?」
……反応は、特に無い。いつも通りということか。
「よーし、よしよし。健康に育つんだぞー」
階下へと向かう途中、セミルの声が聞こえてきた。やはり、植物に話しかけている。セミルは植物の世話に夢中なのか、こちらには気づいていない。このまま顔を合わせても気まずくなりそうだ。というか、どう声をかけたものか。階段の途中からそっと見守る。
彼が草木に声をかけ触れるたび、青緑の魔素の流れが生まれては消える。呼応するように、草木の魔素が鼓動する。術を行使しているのか?
セミルの魔素の特性は、かなり珍しいものに感じていた。もっと詳しく見ようと集中する。植物の内部の何かを促すような、多分そういう作用だ。俺は植物に詳しくないため、これ以上は難しい。
「何をしている?」
こっそり見守るつもりが、うっかり話しかけてしまった。仕方なく、そのまま一階に降りる。セミルも俺に気づいて立ち上がった。
「おはようございます、イルさん。あー、これは、話しかけると元気に育つような気がして……」
自覚していないのか、語尾が自信なさげだ。恥ずかしそうに言いよどむ。やはり他に客はいないようだ。説明しながら、三組ある卓のうちの一つに行き、適当な椅子に腰掛ける。
「気がするというか、多分育つのが速くなっているな」
「えっ?」
「明らかに術が行使されていた。植物の内部の何かを促進するような、そういうやつだ。知らないでやっていたのか?」
問いかけると、セミルもこちらに来て向かいに座った。仕事はいいのかと聞けば、休業中だとのこと。やっぱりか。もう誤魔化す気もないようだ。
「祖母や母もやってたんだ。それをガキの頃から真似してるうちに……って感じだね。術を行使してるって感覚はなかったな。イルさんはそういうの、わかるんだ?」
「ああ。魔素とかそういうのが見えている。というか、それしか見えていない」
「あーー、それでか。村では杖なしでも普通に歩き回ってたし、絶対何か見えてるとは思ってたんだけど」
俺はセミルを少ししか覚えていないが、セミルはなんだかんだで俺を見ていたらしい。
「まぁな。で、この宿を外から見たとき異様だった。宿の中が森かなんかじゃないかと思ったな。セミルの術を見て納得した。家具や内装に使われている木材に魔素が残っているのも、おそらく術を受けた植物の影響だ」
テーブルや椅子をトントンと指で突いて指し示せば、セミルはそれに釣られるように天板に顔を近づけて、まじまじと見ている。
「全然、わかんねー。雑属性だとずっと思っていたし、親にもそう言われてたんだよなぁ」
雑属性というのは俗語だ。どの属性なのか不明で、特に術も使えない者を揶揄するのに使われる。早い話が差別用語であり、あまり行儀の良い言葉ではない。
反面、セミルは俺に対して警戒心をさほど抱いていなさそうだ。少し、突っ込んだ話をしてもいいかもしれない。
「家業の花屋を続けられなくなるからじゃないか?」
「えっ、どういうことです?」
セミルにしっかりと向き直り、ここからは真面目な話だと一言おく。念のため、周囲に人がいないのも確認した。
「見た感じ、セミルのそれは生体コントロール系の特性だ。俺が勝手に名付けた名称だが。一般的には治癒属性と呼ばれている。義務教育とやらでどこまで学ぶのか俺は知らないが……有名所では契約術も生体コントロール系だ」
「マジで?」
「そうだ。もちろん、契約術のようなものは、それに特化された特性が必要だろうから、セミルが危険な術を使えるという意味ではない。だが、俗にいう治癒属性を使える人間は少ない。常に人手不足だ。このへんは人間の方が詳しいんじゃないか?」
詳しくは知らないが、国で抱えたり教育したり、そういう一種の監視下にあるはずだ。殆ど進路が決まってしまうなど、あまりいい噂は聞かない。
セミルは心底嫌そうに叫んだ。
「マジかぁ……。いやーーー、僕は一生この宿屋の主でいいです! 聞かなかったことに」
「高給取りになる好機だと思うがな」
「いや、遠慮しておくよ。本当に。もう、想像するだけで面倒。ありえない」
ありえないらしい。多分、俺の知らない面倒が色々あるのだろう。まぁ、俺から見ても、彼は草木に話しかけている方が似合っている。彼がそう望むのなら、この秘密は守ろう。
「どう?」
「やはり、イカの刺身はワサビよりショウガに限る」
「僕もだな。この辺はショウガ派が多いね。イルさんの飯はどうとでもなりそうかな。多分、甘味がとことんダメなんだ。ただ、パンやご飯も甘く感じるほどで、あまり口に合わないとなると……そんなんで足りる?」
「問題ない。主食は魔石だ。手持ちにしばらく分、ある。イカ刺しで魔石を食う、旨い。イカの甘みはいい甘みだ。刺し身のつまも旨い。こういうシャキシャキしたのは好きだ。こっちのサラダも」
「イカ刺しで魔石を食う……」
人間だって、刺し身でコメを食うだろうが。
食べ終わった後、客室に戻らず一階で予定を練る。ここは緑に溢れて心地よい。休業中らしいし問題ないだろう。
これからやることを、手帳に万年筆で書き付ける。
・市役所に行く
・転居届? 戸籍がどうなるか確認する
・住民台帳カードを手に入れる←重要
・口座を作る←住民台帳カードがあれば作れるはず
・住む場所を見つける←上に書いたものが必要
・仕事を見つける←上に(同上
頭痛がしてくる。ま、まぁ、上から順にやっていけばなんとかなるはずだ。市役所の場所くらいはセミルに聞くか。そう、思案していると、窓を拭いていたらしいセミルがちょうど近くに来た。
ニナはああいったが、魔素の流れの向きとフェムの見せるふわっとした明暗と音とあとなんか雰囲気で、見られてるなというのは大体わかる。
セミルは一般人の割には魔力が強く、魔素の走り方も良く言えばのびのびと、悪く言えば大雑把だ。普通なら平時に魔素が走らないような場所にも光が巡るため、俺にはかなり捉えやすい。
「気になるか? 記帳は面倒で代筆を頼んだからな。ペン先とインクが見えれば普通に書ける」
セミルにメモをひらひらと見せる。文盲だと思われっぱなしなのも面倒だな、という気持ちが若干あったのは否定できない。視覚の問題ではなく、魔物だからという意味で。
「あっ、そうじゃなくて。ミスリルのペン先なんて珍しいなと。親がそういうの詳しかったんだ。花束につけるカードとか書くからさ。インクだけで何種類もあって、ラメの入ったやつとか、途中で色が変わるやつとか色々」
「ああ。そっちか。ミスリルはこうでもしないと見えないだけだ。インクにはラメ? は入っていないが、魔石を潰したやつが入っている」
「見せてもらっても?」
言った端から覗き込むセミルの声には期待がにじみ出ている。よほど興味があるらしい。花屋はそういう仕事もするのかと感心しつつ、万年筆を手渡した。
「……知らないモデルだ。型番とかもない。軸はエボニーで、ペン先はミスリルで、ポイントは……えっ、これ、ポイントがアダマンタイト系の合金だ。色が違う! 硬いから理論上は最適だけど、最近はもっと安価な合金を使うんだ」
急に早口になったセミルに少し驚いてしまったが、悪い気はしない。言葉だけで、丁寧に扱っているのが見て取れる。
「どうみても特注品だよ。かなりの品だ。いいものを見せてもらったよ、ありがとう」
「……ああ。大事にする」
結構な金がかかっていそうだが、気にしたこともなかったな。そういうことを全然言わないのも、先生らしい。少しは、説明してくれてもいいだろうに。
セミルから返された万年筆の、なめらかな軸を確かめる。慣れ親しんだ感触。ここには、十五年の蓄積がある。これからも、まだまだ使えるはずだ。
「これは先生……ウルザ先生が作らせたものだ。俺に字を教えるために。先生のことは知っているだろう?」
「もちろん。ウルザ先生から今回の宿泊の予約が来たときには、二つ返事で受けたんだ」
やはりか。全て先生の手回しだったらしい。納得だな。
「にしても、イルさんは結構達筆だね。先生の板書は読みにくさで有名だったのに。普通の字が見えないなら、先生に書いてもらって覚えたんだろうけど、どうしてあの字からこの字が……謎だよ」
俺のメモを見ながら、セミルが不思議がる。それが少し面白い。
色々な字を見慣れている人間から見ても、先生の字は癖がありすぎるのだ。お手本でさえ、あまり綺麗ではなかった。書類の中には、偽造防止なのか特殊なインクで印刷されたものもある。そういうところから俺は普通に綺麗な字を覚えたのかもしれない。
手帳の頁をめくる。先生の実家の住所、ニナの連絡先。いつか手紙でも出そうか。
その下には、ニナの目の色と髪の色。俺は、人の容姿が見えず、意識することもまずない。知っても、うまく想像できるとも限らない。こうして書き留めておかなければ、すぐに忘れてしまう気がする。
「……セミルの髪と目の色を教えてくれ」
「えっ、何? いいけど。髪は茶色で目はヘイゼルかな」
新しい頁に書き留める。髪は茶、目はヘイゼル……ヘイゼル?
「ヘイゼルとはどういう色だ?」
あのあと散々色について質問した。セミルは色の印象や関係する感情などを説明するのが上手かった。花屋の仕事をしていれば覚えることらしい。
さて、予定はどうしたものか。そもそも市役所は何時からやっているんだ?
万年筆を手の中で転がしながらしばらく悩んでいると、掃除を終えたセミルが歩いてくる。
狭く鋭くなった魔素の巡りが彼の緊張を露わにして、俺の警戒心を刺激した。警戒には値しないと理性ではわかっているが、癖のようなものだ。
開き直した手帳へと視線を下ろす。咄嗟に開いた頁は白紙だ。
「イルさん、今、いいかな?」
「……何だ?」
「イルさんに、頼みたいことがある。村でイルさんにびびったりしてたのは、今めちゃくちゃ後悔してる。昨日初めて話したばかりだし、こんなんで、あつかましいだろうけど、他に頼めそうな人がいないんだ」
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