*イルさんをダシにするってこと?
「ハルディアにはさ、氷使いの男と結ばれれば懐は暖かいって諺があるんだ。というわけで、イルさん今日も製氷よろ」
「俺は結婚する気はないし、できるとも思えないが……」
ブツブツと文句を溢しながら、イルさんは立ち上がってシンクの方に向かった。諺、どんな意味だろう。保存や輸送が発達してなかった昔、氷を自由に作れたら奥さんが楽できるって意味かな。
そうだ、溶ける前に写真、写真を撮っておこう。カバンからカメラを取り出しつつ尋ねる。
「あの、写真とるしたいです」
「写真? 俺も撮るのか? まぁ……むやみに見せびらかしたりしないのなら構わないが」
「どうぞどうぞ。なんなら、ラウンジも撮って。自慢の花々が咲いてるから。イルさんは露出控えようって今更だと思うんだよね」
「ありがとうございます!」
真っ先に、花の浮かんだ氷の球をテーブルの上に置いてフレームに納める。建物の裏側にあたるここに直射日光は射さないけれど、大きな窓と間接光で十分に明るい。リングを回して絞りを開けて。構えはコンパクトに。ピンは氷の表面ではなく、中の花弁に合わせて。よし。小気味よい音がしてシャッターが切れる。念のために続けてもう一枚。
あの冬の氷の写真はない。でも、今なら残しておける。それも、色鮮やかに。術そのものは写真に映らないけれど、記憶のよすがは残せるんだ。
次は、うん。チャンスを逃さないように、程々に絞る。シンクの二人をフレームに納めて雑にシャッターを切った。
イルさんの背中には、六本の……なんだろう、尾のようなものが肩甲骨のあたりから生えていて膝上くらいまで伸びている。大抵は慣性に任せて揺れているけど、たまに猫の尾みたいに動くんだ。それに気づいたら、ちょっとかわいい。
服は、これはオーダーなのかなぁ。背中の見える範囲だけでも、黒く固そうな鱗、というか鎧みたいに覆われていて、素肌は殆ど見えない。
ゆったりとしたシャツの下は、ハルディア風の男の人が身につける腰巻き。ようはスカートなんだけど。ハルディアが海洋民族の流れを汲むことを感じさせる、南方の民族衣装の名残だ。ここ、インサナディアよりは、最初に訪れた首都の方でよく見かけた。イルさんのそれは、先染めされた青系のグラデーションで織られている。
裾からは黒く覆われた脚。水回りの作業をするのに捲り上げた袖からも、途中まで同じように覆われた腕が覗いている。首から上はすごく人間ぽいのに、他は殆どこんな感じなんだ。たぶん、見えない所も。
フレーム越しだからかな。ボクはとても落ち着いていた。よかった。初めに感じたあの恐れは、勝手に食らった威圧によるものだったんだ。自分の中に、見た目で恐れる心が全くないわけではない。それでも。
見たものを余すことなく記録に収めてゆく。そう、それから――
「イルさん、セミルさん。こっち見る!」
ボクの呼びかけに二人が振り返る。セミルさんは小慣れたものだけど、イルさんの表情は固い。
「イルさん、わらう、お願い」
「急に、言われてもな……っ、おい!」
セミルさんがイルさんの背中に腕を回し、ぐっと引き寄せた。隙なく反対側の手でピースサインをボクに向かって差し出す。不意打ちでバランスを崩したイルさんがぐらりと傾く。
――今だ!
ボクは完璧なタイミングでシャッターを切った。軽快な音が響いて、旅の宝物がまた一枚、加えられたことを教えてくれる。
イルさんを乱暴に腕から解放したセミルさんが、ノリノリでボクに呼びかけた。
「マヤさん。よかったら、焼き増しして僕にも今の一枚を貰えないかい。代金多めに払うから。引き伸ばしも欲しいな。六切りで」
「りょかいです。絶対、いい写真。自信です。現像、こっちでするです」
グッと親指を立てると、セミルさんも同じように返してきた。シャッターの瞬間、イルさんは多分、ちょっと驚いた顔をしてたけど、それを含めてきっといい写真。
「あー、現像はそうだね。できたネガと写真はどうやって持って帰るのかな?」
「えーと、フィルムはいっしょ帰るです」
「大陸まで船、それから大陸横断鉄道?」
「はい」
何故そんな事を聞くのかな?
セミルさんが眉根を寄せて、うーんとうなる。それから真剣な表情で、言葉を区切りながらゆっくりと切り出した。
「いいかい。写真は出来るだけ、ハルディアで現像するんだ。大事なやつは、最低二枚ずつになるよう焼き増しする。一枚は自分の手元に。もう一枚とネガは、DDLで営業所止めで送る。国際郵便は使わない。何故だかわかるかい?」
DDL……何の略だったかな。あっ、まさか。
「写真、調べるされる?」
「そうだね。それをハルディア語で検閲っていうんだ。グレシー教国の一部じゃ国境や税関でフィルムや写真を没収するのがまかり通ってる。現像所でも検閲されることがある。何を検閲してるのかは……わかるよね?」
セミルさんの声は、男の人にしては少し高めで軽い。流行のファッションでも話すような調子で言われた内容は、なのに深刻で。
そう、そうだ。ハルディア行きは自己責任でボクも危ない橋を渡ってる。楽しくて、忘れそうになるけれど。
「……はい。外国いった友達、本送ったボクに。とても臭い漬物の中。えと、ダークエルフと人間。魔物。仲いいする絵、少しえっち」
「ははは! そりゃすごい。DDLを使えば、臭い思いをしなくてもいいんだ。DDLは元が迷宮連にあって、アーティファクトなんかを輸送するのが本業だ。料金は高いし、内容も審査される。そのかわり税関手続きもしてくれるし、加盟国なら条約で守られていて国による検閲はない」
「……すごい。ボク、考えるなかった」
セミルさんは宿の仕事をしているから、旅行客との付き合いも多くて、そういうことに詳しいのかも。
聞いてよかった。何も知らなかったら現像しないでそのまま持って帰ってフィルムごとダメにされたり、あったかもしれないんだ。そんなの、考えるだけでショックでしおしおのぱーになる。
カメラを見て、残り枚数を確認する。このフィルムはカラフィサールに来る前から撮影していたから、もうすぐ使い切りそうだ。セミルさんを喜ばせるために、早めに現像に出そう。うん。
顔をあげれば、イルさんが腕を組んで、疑わしいものを見る目をセミルさんに向けていた。
「DDLが確実なのは理解できる。だが、ただの写真を扱うのか? 条約で保護されているのは、アーティファクトや美術品、迷宮関連の学術的な資料、書籍。そのあたりだろう?」
「イルさんはさ、わかってないよね。自分のこと。六本枝を撮りまくった写真とか、明らかに迷宮関連の資料じゃないか。なんなら、イルさんの魔枝の殻でも添えればいい。こういうのはさ、やり方。抜け道があるんだ」
わわ。イルさんをダシにするってこと?
セミルさんがいたずらっ子みたいに、隣のイルさんを肘で小突いた。イルさんは明らかに苦い顔をしている。
「マヤさんにはあとで、僕の付き合いのあるウデのいい現像所と、DDLの営業所をメモして渡そう。土産に殻もつけて。僕の紹介だと言えば話が早いはず」
「確かに、下手にコソコソするより確実だ。俺からもそうするのを薦める。悔しいが、否定もできん……」
「殻? いろいろ、たすかるます」
イルさんにとってはこそばゆい問題なんだろうなぁ。ハルディアの人々は、ボクからしたら信じられないくらい魔物や魔獣についてルーズだ。アイドル従魔がいたり。なんだっけ、クワタロー。時間が合えば、クワタローショーにも行きたい。
気づけば、テーブルの上の氷はかなり溶けていた。おしぼりでそっと拭く。花弁のうちの一枚が覗いている。
――この一枚がちょうど入るくらいの器を持つ者がいたなら
細かなものさし。そう。ボクはきっと今の今まで、ものさしがあることさえ知らなかった。イルさんからはとても大きな存在感が伝わってくる。セミルさんは、まだボクには感じられない。ものさしがあると一度わかれば、あとは練習なんだ。
色々なものを見たい。
色々なものを感じたい。
んっ、よし。
「ありがとうでした。セミルさん、鍵です。観光ビーク乗るいてきます。夜もどるします」
「おっ、いいねー。楽しんでおいで」
少しちゃらい感じでセミルさんが言い、イルさんは黙って軽く手を振った。ボクも同じように振り返す。
ああ、本当にハルディアは驚くことばかりだ。ボクは、この地の人々のような色とりどりの期待を胸に、駆け足で駅へと向かった。
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