*遠いこと急に近くなるして
「それで、イルさんがそれ着込んでるわけか」
「ああ。魔素操作で抑えることも出来るが、通常時より抑えるのはかなり神経を使うからな」
ダイニングに降りると、朝食が出来上がる所だった。イルさんがセミルさんに先程の経緯について説明する。途中、イルさんが小声でセミルさんに何か手渡して伝えていたけれど、どっちみち難しい言葉も多そうだし早口だしで聞き取れない。
不信感というより、会話に混ざれない孤立感から、ボクは気を引き締めた。
そんな気持ちも、食事が始まれば吹き飛んでしまう。
脂の乗った焼き魚。種類はわからないけど絶対美味しいやつ。ハルディアでよく飲まれるミソのスープに、ライスに、色とりどりな海藻のサラダ。それとマリネみたいのとおかず。ハルディアに来てからボクはすっかり焼き魚のファンだ。
セミルさんに箸とカトラリーどっちにするかと聞かれて、迷わず箸と答える。練習したからね。
二人はボクに色々と噛み砕いて説明してくれる。きっと、幼い子供に教えるように。申し訳なくなるけれど、聞き逃すまいとボクは真剣に耳を傾けた。ボクはハルディア語についても、魔力や術についても、この国の子供以下なんだ。
外套には魔素を遮る効果? があって威圧が飛び散るのを防げるみたい。本来は隠れて色々するためのもので――隠密のことかな。二人は認識阻害と言っていた。少し難しい単語だ。
威圧というのは、とても簡単に例えるなら魔素での力比べらしい。
「えと、わかるしました。だいたい。ボク魔素ぜんぜんない。だから、イルさん何もしてないのに威圧なるした。威圧、知る初めて今日」
「初めてなら、ああもなるか。西方の人間は、そんなに魔素が少ないのか?」
イルさんがボクに問う。視線はボク……の胸だ。何故。見ても減りはしないけど、元々多くもない。普通、男にこんなに胸を見られたら絶対になんか言ってやってる所だ。でも、イルさんは目がかなり悪いみたいだし、何か理由がありそうだ。
それなら、ボクがイルさんをじっと観察していても見えていないのかも。若干の罪悪感を覚えながら、ボクは向かいに座る彼のの手元を追った。
イルさんはテーブルの隅にあるソイソースの容器を見もしないで手に取ると、容器の挿し口の先に人差し指を添えて焼き魚に傾ける。あっ、そうか。そうするとソースが指先を伝うから、どのくらい流れたのか見なくてもわかるんだ。ボクはイルさんのそんな些細な所作に感心しきりだった。
そう、ええと、西方の人間は魔素が少ないのかだよね。うん。
「たぶん、はい。ボク、普通。私たちの国では。身体強化使うできる人、とてもとても少ない。グレシー教、魔物の血混ざるのだめする。だから」
「……ふむ」
「こっちだと小さい子でも魔力比べ、あー、身体強化ね。してるんだ。身体強化と威圧は、似たようなもの。大体同じ。で、だんだん慣れる。威圧に耐えられるかは、慣れもかなり大きいんだ」
セミルさんが威圧について補足してくれた。ええと、魔素をどれだけ出せるかが魔力で、魔素をうまくコントロールするのが身体強化で、そういうトータルが優れていると威圧も強くなる感じ、っぽい。
ハルディアの人は普段から慣れてるから、イルさんくらい魔力が強い人を前にしても、ボクみたいに勝手に威圧にかかってしまったりはしない。多分、そういうことかな。
焼き魚の脂で、ライスがよくすすむ。このマリネも美味しい。知らない食材だけど、口に入れてしまえばこっちのものだ。
食事に夢中なフリをしながら、ちらりと前を見る。イルさんみたいな魔物が実際に生活してるって想像できる人が、ボクの国にどれだけいるんだろう。
目に見えるものは、確かなのに。イルさんは魔物で。初めて見た魔物がこんな、普通に話せて。一緒にごはんを食べていて。
今まで、魔獣だって見たことがない。ビークのような動物も、魔力の弱い人間には従いにくいから国にはあまりいない。従魔も、普通に暮らしてたら見ることなんて多分一生ない。
魔物に対するイメージは、世代間でギャップがあったり、親ガチャや先生ガチャで決まる。ボクには学生時代に小説や漫画を貸してくれた友人がいて、色々と知る機会になった。
思想だけなら抜け道が色々あるけれど、魔力に慣れる機会がないという物理的な問題は、あの国にいる限り割とどうしようもない。
「……慣れ。ボク練習してない。だから、何もしてないのに威圧なる?」
「そうだな。これまでも魔力が少ない人間に会ったことはあるが、マヤほど無防備な者はいなかった」
「むぼうび。はだかなこと?」
「吹雪に裸でいるようなものだな。今ここで慣らすだけでも変わるはずだ。伝わってるか? フードを外すぞ」
ボクが答えるまでもなく、イルさんはフードを雑に脱いだ。
早っ。少しのけ反りそうになる。あ、でも、怖い感じじゃない。ダークエルフみたいな雰囲気に心の隙間を刺されただけで。ファンタジーの住人に見つめられて、ボクの鼓動が速くなる。
「大丈夫です。わかるます。イルさんの発音、わかるしやすいです。正しいえーと違う、変化ない発音?」
「ああ。言葉というのは使われる所ほど変化が早い。遠い国で学べるハルディア語が遅れている、というのはいかにもありそうだ」
「ハルディア語、学ぶする難しいです。魔国と交流ない。だから、本ない。ほとんど」
入手できてもかなり古いものだった。ハルディアのような魔国からの人や文化の流入を、多くのグレシー教国は制限している。
ボクの言葉に、だろうな、とイルさんは一言。それから食べる手を止めて、一瞬、視線を泳がせた。何? この間は。
「……俺が言葉を覚えたのが百年以上前で、教えてくれた奴はもっと昔に覚えた筈だ。事情があって、地上の現代を知ってから十五年しか経っていない。なかなか、古い発音が抜けなくてな」
イルさんが薄く笑う。伏せ気味になった目蓋。女子が羨む長い睫毛。キレイなのに、どことなく自嘲にも思えた。地上の現代。何気ないフレーズに含まれた、過去。想像が踊る。そんな翳りさえ、ボクには――
そう、この人は本当の長命種なんだ。
ああ、この思いをどう伝えたら。
ボクは知っている限りの単語を並べた。
「ひゃくねん……魔物とても長生き。すごい! おとしより!」
「くふっ、ふっ、おとしより!」
セミルさんが吹き出した。えっ、おとしよりの意味を間違えたかな。沢山生きてて尊敬する相手、みたいな意味だったはず。
「セミル、てめぇ。俺は121だから切り捨てして21だ。今年は永遠の21歳だ」
「21て。僕より若いじゃないか。もう、めちゃくちゃだよ。しかも、全然永遠じゃないし」
失礼なことを言ってしまったのかなと不安になり、具沢山のスープを飲みながら様子を見ていると、二人が早口になって言いあった。ボクには、かなりゆっくり話してくれてたみたいだ。少し聞き取れなかったけれど、イルさんが両手で1と2を作ってビシビシと訴えたので、なんとなく意味はわかる。
実年齢は121だけど、見た目が21だと言いたいっぽい。うんうん。そうだよね。
「でも、イルさん見る若いです。21、わかるです。魔物長生きいいです。えーと、かっこいい!」
伝わったかな?
そう思ってイルさんをみれば、自慢げに顎をあげている。
「どーよ、セミル。わかる奴はわかってるだろ?」
「はぁ……。そういや、イルさん。もうかなり良さそうだね、右手」
「ん、ああ。箸が使えるくらいには」
右手?
見れば、イルさんの腕には包帯が巻かれていた。魔物って一瞬で怪我が治るイメージだったけど、あれは物語の中だけなのかなぁ。魔物にも個人差があるのかも。
箸にはドレッシングの絡んだ野菜と海藻。イルさんのサラダはボクのより多めだ。野菜が好きなのかな。
――普通に食事をして、怪我もする。
魔物って普通に生き物なんだ。そりゃ、そうなんだけど。何かもっと超常的なイメージを勝手に抱いていたかも。
長命種もそう。言葉を選ばずに言うなら、とっつき難い、プライドが高い、神秘的。そういうイメージが創作だと強い。
目の前の二人はどうだろう。イルさんとセミルさんは百歳近く歳が離れている筈なのに、同年代の悪友みたいにふざけあっている。
近くて、遠くて、不思議だ。
思い巡らすボクに、すぐ側から声がした。イルさんが少し身を乗り出してボクを覗き込んでいる。近い!
「マヤ、どうだ? 多分なんともないだろう? 外套を脱ぐぞ」
「えっ、あっ! 待っ!」
言うまでもなく、脱ぐぞと言いながらもう脱ぎにかかっていた。形の無いものをガードするべく、思わず目の前で腕をクロスさせる。全く無意味な行動だ。
クロスさせた腕の間から向こうを窺うと、イルさんはまたボクの胸をじっと見ている。あわわ。
「イルさんも、ちょっと説明が足りないよね。イルさんは、マヤさんの少ない魔素を見ようとしてるんだと思う。おっぱいを見てる訳じゃないよ。見えてないはずだし?」
「ああ。俺に通常の人間のような視力は無いが、魔素は見える。マヤの魔臓に異常があれば見てわかる。魔臓はこの辺にあるからな。で、何も問題ないだろう?」
イルさんが、胸をとんとんと指で差す。従魔標がその上で揺らめいた。
確かになんともない。イルさんは外套を脱いだのに。なんとなく、大きな存在感のようなものは感じるけれど、恐怖したり動けなくなる程ではない。本当に、こんな短時間で、慣れた?
「不思議そうだな? 取り込んだ魔力能は魔臓に行く。要するに、魔素の多い食事をすれば、魔素不足は補えるんだ。あと10分もすれば、もっと効果が出るはずだ。もちろん、慣れたのも大きいがな」
「ボクの魔臓……動いてる?」
「ああ。マヤの場合、魔素に対する反応は敏感だった。見ればかすかに魔臓が動いているのもわかった。完全に魔臓を欠く人間は、魔盲――魔素に対する感覚も無いために、威圧にもかからないと聞く」
頭が、混乱しそうだ。胸に手を当てて、何かを感じ取ろうとしてみるも、何の手応えもない。
「でも、ボクは人間で。魔物、混ざるしてない……」
威圧は感じなくなったのに、別の不安がボクを襲った。あれほど純血主義を否定してきたのに、いざ自分に別のものの血が混ざっているかもしれないと知って、足元が揺らいでしまう。
そんな自分を一歩引いて見ているまた別のボクがいて、お前も純血主義と変わらない。なんて悍ましいのだ! とボクを非難している。そんな!
二人を見ると、何言ってんだとでも言いたげな顔だ。どうして?
少しの間。イルさんは、ふっと笑って表情を崩した。
「ああ、そういうことか。面白いな」
「面白い? ボク悩むした! 本気、なのに!」
バカにされた気がして、ボクは強く言い返した。手早く自分の分を食べ終えて、皿を下げに行ったセミルさんは何も言わない。
「面白いさ。……見ろ」
イルさんが指をさしたのは、テーブルの上に置かれた花瓶だ。小花がまばらに集まった、透き通った水色の素朴なあじさいが活けてある。
イルさんの黒い爪が、あじさいの小花の一つ一つを軽くつついては揺らす。
「確かに魔物と混じれば魔力は強くなる。だが、純粋な人間でもそれなりの魔力はあるはずだ。この世の生き物は、木や草や微生物に至るまで魔力があり、魔素を生み出している。人間だけが例外だとは思えない」
「木や草まで?」
「そうだ。パンに生えるカビも、海にいるナマコも。生きているものはみな同じだ」
本当に?
それを口にはしなかったのに、イルさんはボクを見透かして諭すように言う。
「見えているからな。俺の見ている世界が幻ではないのなら」
「……あっ、ちが」
そんなつもりじゃない。そんな、幻だなんて、全く思ってない。ハルディア語で上手く言えないもどかしさが堪らなく辛い。
ボクは首を振って、なんとか言葉にした。
「幻、違う。魔素はある思う。でも、遠いこと急に近くなるして。ボク、驚いた」
うう、こんなことならもっと語学の勉強をしっかりしておくんだった。ハルディア語は大東洋語族の祖語にルーツを持つ言語で、ボク達にとってはとても難しい。何とか伝わって欲しい。
身振り手振りを混ぜて、ボクは続けた。
「魔素も魔臓も魔物も……自分から遠いこと思うしてた。違う。今は」
イルさんはボクの話すペースに合わせて、ゆっくりと頷いた。箸を置き、テーブルに肘をついて指を組み。それから、ボクの胸ではなくて目を見つめて。ボクの名を呼んだ。
「――マヤ」
「っ、はい!」
名前を呼ばれて、こんなにドギマギしたことはない。威圧は目を合わせると強くかかると言っていたから、きっとそのせいなんだ。予習をサボってきたのに指名された生徒みたいになって、ボクはイルさんの言葉を待った。
「魔力が弱いのは、欠点ばかりではない。他者の魔力を感じる感覚は、自分を基準とした相対的なものだ。例えば、セミルは同年代の中ではそこそこ魔力が強い。俺がこれを知っているのは、セミル本人から聞いたのと、目で見て判断しているからだ。感覚だけに頼るなら、俺にとって殆どの人間は小さ過ぎてあまり差がない」
いいか、そう言ってイルさんはあじさいの花弁を一枚千切った。摘んだそれを、冷たいお茶の注がれたグラスに落とす。水色の花弁はアメンボみたいに浮いて、小麦色の水面をくるりと回った。
「あじさいを浮かべる前のお茶と、今のお茶。器を持って、重さで違いがわかるか?」
「できない、です」
そんなこと、無理に決まってる。お茶の重さだけじゃない。グラスの重さもあるんだ。でも、イルさんが伝えたいことがボクにもわかりかけてきた。
イルさんは更に二枚の花弁をテーブルの上に重ねて置いた。それから、上の一枚を摘んでひらひらとさせる。
「この一枚がちょうど入るくらいの器を持つ者がいたなら。そいつにとっては、枚数を数えるのは簡単なことだ。大きすぎるものは量れないが、俺よりもセミルよりも、細かなものさしで違いを感じ取れる。
――フェム」
最後に小さく囁かれた言葉が聞き取れず、けれど目を逸らしてはならない気がして。ボクはイルさんの手元を注視した。
イルさんが摘んだ二枚の花弁が指から離れ、グラスの中の水面に触れた瞬間。それはお茶ごと渦を巻いて立ち上がった。巻き込まれた花弁がお茶の球の中でぐるぐると回る。あわわ。意味がわからない。
慌てるボクに向かって、イルさんがその球をひょいと投げてきた。
「うわっ、ま、あわ」
濡れると思ったのに、反射的にボクはそれを両の手のひらで受け止めてしまう。初めからそうなるのを狙っていたように、お茶の球はボクの手の中に収まった。
「冷たい。ぬれる、してない。氷だ……」
丸くて、少し歪で。
その歪さに中の花弁が揺らめく。
冷たくて、程よい重さがあって。
――ボクはこれを知っている。
小さな頃。とても寒かった冬。お菓子の容器やバケツで、いろんな氷を作った。削ったクレヨンや父と一緒に紙で作った花を入れて。ボクにはあの氷が魔法みたいで、特別なものに思えていたっけ。
凍える玄関先で、温かな父の膝に抱かれて。手の中に輝いていた、あの冬だけの宝物。すぐに溶けるか雪に埋もれるかしてしまう、記憶の中にしかなかった幻が、今ここにある。
この氷も溶けてしまうのだろう。でも、この想いは、あの時と同じ。
「今の、術?」
ようやく声にしたボクに、イルさんは黙って頷く。すごい。術といえば何か破壊的で派手なイメージだった。それに比べれば、これは地味なんだけど。一言で言えば、そうだ、ボクはちょうどいい単語を知っている。
「すてきだ……」
手のひらの熱で溶け始めた氷は薄い水の膜に包まれて、中に浮かぶ花弁を鮮やかにした。
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