ばら亭

 あれからアレイナに少し街のことを訪ねてから別れた。追ってきた理由は、単に俺が困っていたら助けたかっただけだと。騎士だからなのか、裏があるのか。真面目さを見せるかと思えば、階段を飛び降りもする。まぁ、そういう奴もいるか。実際、助かったのでとやかくは言うまい。



(地図の通りならこの辺だが……)



 先生が書いた地図にある宿は駅から10分ほど。アレイナが言っていたように、カラフィサールの街は碁盤の目になっていて、入り組んだ道路はあまりない。ここまで来るのに苦労はしなかった。

 商店街と反対方向だからか、あれほど溢れていた人の群れは急激に減った。少し安心する。ずっとあんな群れの中にいたら、精神的な緊張と疲弊で死んでしまいそうだ。


 どこからかバラの香りが漂っている。

 フェムの見せる像で、何かでかい塊があるのは見て取れる。ぶつかるぎりぎりまで近づくと、うっすらとした明暗がいくつも見えた。ここは壁だから垂直なはずで……わからん。触れてみると全体的には平たいが、一定間隔に深い凹凸。なるほど、レンガの継ぎ目が見えているのか、これは。村にはレンガ造りが殆どなかった気がする。

 側面に沿って歩いてみるも、どうもこちら側には入り口がないらしい。



「フェム、入り口を見つけたら教えてくれ」



 フェムへの伝え方には少しコツがある。まずは簡潔に。加えてフェムは、人の世界をあまり知らない。物の名前もあまり知らない。これはフェムだからというよりは精霊だからだ。


 こうして街を共に歩いていれば、フェムも徐々に新しいことを覚えるだろうか。杖になったフェムにどの程度の自我があるのか、俺には知る術がない。だが、フェムからときおり伝わる反応は、彼女が反射で動いているだけの機構ではないと、俺を信じさせるのに十分だった。


 生物は効率的だ。使わない機能は失われる。必要な機能には適応する。フェムの伝える刺激が俺の認知によって、一面の明暗から、ここまでの像を結ぶまでになったように――俺が、フェムをモノとして扱えば、彼女に残された自意識も消えてしまうだろう。



 角を曲がり、建物の正面にまわると、バラの香りがより鮮やかになった。レンガの感触が途切れ、壁には縦向きの構造が現れる。触れて軽く突くと、跳ね返りも音も軽い。窓だな。


 いくつかの窓は開け放たれている。覗いてもどうせ見えないだろうと思ったが、そうでもなかった。窓枠の向こう側では魔素が飛び交い、ほんのりと明るい。普通、逆ではないか? これではこの建物の中が森か何かのようだ。


 見上げれば大きく育った街路樹が建物に葉を重ねて、その影に蔓が絡んだ柱が二本立っている。香りはここからだった。地面から響く音が変わり、足裏で段差の感触を確かめながら近づくと、フェムが目の前の何かを白く光らせた。触れると扉の取っ手のようだ。



「よくやった、フェム」


 驚いた。入り口を見つけてくれと頼んだら、フェムは取っ手を教えてくれたのだ。入り口といえば、猫用の穴にさえ反応したフェムが!


 金属の取っ手は、陽に照らされていたのかじわりと熱い。ゆっくりと重い扉を引くと、蝶番が軋んだ音をたてた。


 中はさほど広くはない。内装には豊富に木材が使われていた。加えて、外から見えたようにかなりの魔素が残っている。おかげで、フェムの見せる明暗と合わせて大凡の構造が理解できた。左手に卓と椅子が三組。間隔は広くゆったりと置かれ、反対側では柱に絡ませた、これもまたバラがアーチを作っている。他にもあちこちに緑が溢れ、ここの主はよほど植物が好きなのだろうと思えた。


 バラの香りといえば、どうにもきつい印象があった。しかし、どうだろう。この空間に満ちるのは、露落ちる初夏の森の、早朝を思わせる爽やかさだ。


 昨日まで、村を出たこともないのだ。宿など入ったこともない。どんなものかと気を張っていたが、流石にこれは予想外だ。不安になり地図をよくよく見直すと、俺から見てもあまり達筆ではない先生の字で『ばら亭』とある。……なるほど。


 しかし、これはどうすればいいのか。見回していると、バラのアーチの奥からガタガタと音がした。近づいてみれば、アーチに挟まれるようにカウンターがあり、その裏で宿の者がしゃがみこんで何かしている。いい加減、俺に気づいて欲しいのだが。



「すまないが……」


 仕方がないので、カウンターに身を乗り出して声をかける。


「あっ、すみません。あっ……」


 声の主は、飛び跳ねるように立ち上がり、そのまま固まった。今までがうまく行き過ぎていただけで、これが一般の反応だろうなと、どこか納得する。努めて平静に、要件を告げる。


「ウルザ・エヴェレンの名義で予約していた者だ。宿泊手続きを頼みたい。俺が来ることは、前もって伝わっていると聞いている。……予約確認書はここに」


「さきほどは大変失礼いたしました。お預かりします。確認いたしますので、少々お待ちください」


 声からすると若い男だ。声も魔素の巡りも、緊張感でいっぱいいっぱいに見える。青緑を帯びた彼の輝きは、この部屋の雰囲気にとても良く似合うというのに。

 不意に五感が記憶を掻き立てた。前も、思わなかっただろうか。この香りの中で、この色を。



「一名様で、本日から五泊のご予約でよろしいでしょうか?」


 そうだ、この少し高めの声もだ。


「ああ、間違いない。……もし、違ったらすまないが、ウサクの村の花屋にいなかったか?」


「ええ、覚えていて下さったのですね。花屋のセミルです。ここは、祖母が経営していたのですが、私が継ぐことになりまして。お名前をお願いします」



 思い違いではなかったようだ。


 小さな村でも、花屋は重要な存在だ。生きるのに必要ではなくとも、生きるのが困難な時でさえ、人間は様々な節目に花を求める。村で唯一の花屋の庭は――売り物を育てるためだから、あれは畑かもしれないが、かなり広い。

 畑は、野や山で見るものとはまた違う一面の魔素に溢れて、季節が巡るとその色を変える。


 この男――名前はたった今知ったが、セミルは、畑で花に話しかけていた。変わったことをする人間もいるものだと、少し記憶に残っていたのだ。


 カウンターの上で紙をめくる音がして、記帳が必要なのだと思い出す。フェムに頼っても、平面に普通のインクで描かれたものが見えることはまずない。書けないことはないが、代筆でいいか。



「知っていると思うが、イルだ。記帳は代筆で頼む。こうして話すのは初めてだが、花屋のあの畑を俺は嫌いではなかった。ここも、いい所……だと思う」



 村で見かけただけの人間だ。香りという過去に繋がる鮮烈なきっかけがなければ、思い出せなかったような。それがどうして、こんな無駄な会話を俺はしているのだろう。


 見れば、セミルの緊張はほとんど解けている。青緑色の魔素はおおらかに巡り、はぐれた先ではらはらと散っては溶ける。カウンターを囲むアーチには、深く青い輝きが蔓を辿り宙を編み上げる。満ちるのは、甘すぎず樹々を思わせる香り。


 一時訪れた静寂に、セミルのペンが紙を滑る音が響く。続く声ははきはきとして、滑らかに紡がれた。



「ありがとうございます。精魂込めて育てておりましたので、そう言っていただけて何よりです。朝食は込みの料金となっておりますが、食事はどうなさいますか?」


「食べられないわけではないが、人間の食べ物は口に合わないものも多い。手間をかけさせるだろうから、無しでいい」


 正直、何が食えて何が食えないのか俺も正確に把握していない。魔物は最悪、魔石さえ食っていれば腹が満たせる。食事は楽しみたい所だが、作ってもらって食えなかった、というのは流石に俺も気まずい。


「それでしたら……」


 セミルはしばし言葉を止めると、姿勢を崩してカウンター越しにこちらに身を寄せた。何事かと警戒する俺に、秘密を打ち明けるかのように提案する。



「もう少しで夏休みに入ると、一気に忙しくなる。だから、あと数日は僕の休暇も兼ねて、余裕を持たせてあるんだ。半分、祖母の趣味でやってるような小さな宿だし。気が向いたら朝ダイニングに来てもらえれば、適当に何か作るけど、どうだい?」


「なら、それで頼む。あと、口調もずっとそれでいい」



 これが本来の彼の調子か。軽快に残りの手続きを済ませたセミルに案内され、俺は二階への階段を登った。








「全て、先生の手のひらの上のような……気さえする……」



 楽な格好に着替えると、真っ先に宿のベッドの上に大の字になった。ずっしりとした疲れが、俺をやわらかな掛け布団に沈めてゆく。


 まず間違いなく、先生とセミルには面識があるだろう。狭い村だ。加えて、先生は皆からもそう呼ばれているように、数年前まで学校の先生をしていた。セミルやニナくらいの年齢であれば、なおさらだ。


 繁忙期前の休暇、だったか。多少の客は取っているのかもしれないが、俺の他に宿泊客の気配はない。セミルは気を利かせてあんな風に言ったが。どうにも俺が人に慣れていないのを考えて、先生が特別に予約をねじ込んだとしか思えない。


 それに、ここの環境は俺にとって居心地がよい。しかも、一度覚えれば、あのバラの香りで場所を見失うこともない。



(……ひとまず)



 計画だ。


 村では金を使うことがあまりなかった。貯金はそれなりにある。主に輝石を採掘して得たものだ。


 未登録の魔物であった俺は、自分の名義で口座を開設できなかった――従魔であっても普通はできないが。ともかく、先生名義の口座にあった俺の貯金は預金小切手に振り出してある。できるだけ早く、自分の口座を開設して資金の移動をしなければならない。


 口座を作るには身元の証明が必要になる。市役所に行き転入届をして、いや、俺の場合、元が無いわけだから転入なのか?

 従魔登録に関する書類は預かっているので、役所の人間に聞けばなんとかなるだろう。人間の場合も、諸事情で無戸籍となった者が大人になってから戸籍を得るケースがあると聞く。

 特級はそうとう珍しいがゼロではないし、従魔登録自体が戸籍に近い仕組みだろうから、どうにもならないということはないと信じたい。



 財布の中身を確認する。手元にある現金は――十万グランと少し。ありがたいことに、紙幣には魔力を帯びた素材を使って透かしが仕込まれており、俺にも見分けがつく。俺のためではなく、偽造防止のためだろうが。


 一万グラン紙幣の透かしは建国の偉い奴の肖像。顔だとはわかるが、誰なのかを見分けたり表情を読み取るのは困難だ。俺が普段、このように人を見ていないからだ。千グラン紙幣は麦の穂。グランというのは古い言葉で穀物や資産のことを指し、それがそのまま通貨単位になったのだという。


 この宿は一泊4500グラン。よくある、朝食のみ提供する個人経営の小規模な宿だが、駅から近いという好条件もあり、この価格が安いのか高いのか判断しかねる。まぁ、おそらく普通だ。5日以内に住む所が決まらなければ宿泊を延長するつもりだが、金は無限ではない。


 紙幣と小銭を、ベッドの上に何枚か並べる。



「フェム、これが金だ。か・ね。お金ともいう」



 物を食べず、物を所有せず、労働もしない精霊に、金という概念を教えるのは無理ではないだろうか。金の成り立ちからすれば、物々交換から触れるべきだろうが、このさい、正確性は無視だ。



「これがあると、きれいな水のある、あたたかいところにいられるんだ。フェムの好きな、たのしいこともできる」


 今のフェムにとって、楽しいことは何なのだろう。目を閉じて触れるフェムの細さを確かめて。思考の海から言の葉を探り、ゆっくりと区切るように続ける。



「みんな、たのしいことがしたいし、あたたかいところにいたい。でも、ひとりでは、たいへんだ。水がきたなくなることもあるし、さむくなることもある。こわい、まじゅうがいることもある」


 俺たちのいた迷宮跡は地震で崩れた。人間が踏み込んできたあの時、精霊たちは散り散りに消えた。俺と約束をしたフェムを残して。

 金があれば、あの場所は守られたのだろうか。無理だろう。自然災害に金で備えはできても、奴らは一方的に来る。大自然と金で取引はできない。



「だから、みんなで約束した。みんなでたのしく生きるために、がんばった人には、お金をあげる。お金をもらったら、みんなが、たのしくなるようにがんばる」



 ベッドにうつ伏せになり、フェムを脇に抱える。左手で紙幣を指差しながら、右手でフェムをそっと撫でる。取引という言葉は無理でも、フェムには約束がわかる。



「――お金は、約束のしるしだ。みんなで約束を守っているなら、お金がたくさんあると、あんしんできて、たのしい」


 自分で言っておいて、全くそのとおりだ。俺も、もっと金を貯めて、安心して楽しくなりたいものだ。早く、仕事を見つけなければ。


「でも、お金を約束のしるしだと信じない人がいると、あんしんできないよな。みんなで、たのしく生きることと、そのための約束をわすれないようにしているから、お金はたのしくて、だいじなものなんだ」



 最後は少し難しかったかもしれない。俺は教えるのに向いていない。そうして、色々なことをフェムに話しかけているうちに夜は更けていった。

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