住民台帳カード

 カラフィサールの街の中心部を東西に通る公園の一角、感慨に浸る。


 街の中心部、広い道路にはビークや馬の引く車が途切れなく行き交う。村では見ることのなかった自動車も時々そこに混ざる。

 公園を囲む木々の向こう、さほど離れてはいないはずのそんな喧騒も、ここからでは遠く聞こえる。二つ隣の区画ではビアガーデンとやらで人が溢れていたが、この区画には人が少なく、噴水のたてる水声が耳に心地よい。



「これが住民台帳カード……」


「もう何回目だよ。でも、マジで嬉しそうだね、イルさん」


「……ああ」



 生まれた時から、なんの障壁もなく身元が保証されている連中にはわかるまい。まともな立場と人権を得た実感で、過去の些細なことなど、どうでもよくなりそうな気がしてくる。心の豊かさには、安定した社会的地位と生活基盤が必要なのだ。


 ちょっとした面倒事もあったが、住民台帳カードの取得と口座の開設まで今日一日で終わった。セミルには頭があがらん。腕一本払った価値はある。


 だいたい予想通りで、従魔の場合、従魔登録が戸籍に相当するものになるらしい。面倒事といっても、特級が珍しすぎて役所の人間がマニュアルを調べるのに時間がかかったという感じだ。


 利き手を焼かれて文字が書けないことに行ってから気が付いたが、どっちみち代筆を頼んだような気もするし。次々と別の担当が呼ばれて、迷宮連に電信で連絡するとかで待たされて、待ち時間にクソ難解な文体の書類をセミルに代読させたらかわいそうになってきたりしたが、カードは今、俺のこの手にある。


 口座の開設はそれに比べれば呆れるほど簡単だった。住民台帳カードがあれば何の問題もなし。


 隣を見ると、セミルの撒くポップコーンに鳩がたかっている。俺にはまるで寄り付かない。鳩に馬鹿にされたようで少し気に食わん。ポップコーンをひとつかみ奪い取る。



「ああっ!」



 何やら抗議の声があがるが、かまわず鳩に投げる。投げた方向に素早く鳩どもが走っていく。ちょっと楽しくなる。いや、かなり楽しい。だが、俺には寄り付かない。鳥頭め。


 それどころか、セミルがさらに鳩にたかられていた。俺と反対側のベンチの上にまで上がってきている。


「……なんでそんなことになっているんだ」


「イルさんが、今のでポップコーンをこぼしたから……」


 鳩が掃除してくれる。問題はない。ポップコーンを握った指を舐める。ポップコーン本体はモサモサしてそこまででもないが、この味のついた粉はそこそこ旨い。



「どんだけ魔力あるんだよ。イルさんに鳩寄ってこないの、絶対そのせいだ。巣立ち熊がうっかり降りてきたら、罠で捕まえて威圧をかけてから山に返すやつ」


「ああ、あったな」


「うん。あれと同じ。あれをできるのは村じゃジェッソ爺さんくらいだったから、降りてきた熊は殆ど殺してしまうんだけどさ」


「そうでもしないと、また来るからな。熊は。俺が威圧係をやれば良かったんだろうが、頼まれたこともない」


「ろくに魔力比べもしてないでしょ、イルさんは。やっぱり、若い熊くらいなら余裕? 男子はみんなやるけど、魔力比べ。あれ、僕はクラスでも上から数えた方が早くて。年上にも時々勝てるくらいはあった。でも、今朝の……あんな威圧は経験したこともない」



 嫌われていたからではなく、魔力が強いのを知られていなかったからだ、とセミルは言う。そうだとしても、魔力比べなどしたら、本当に避けられたのではないか。セミルが今朝、と口にする時、恐怖に揺れるのを隠せずにいたように。


 魔力比べか。酒の席やゴロツキに絡まれて仕掛けられても、手は抜いていた。あれは身体強化をかけてガンをつけあって、どちらが先に威圧負けするか競う遊びだ。魔力の強さと、身体強化――つまり魔素制御の上手さと、慣れや精神的な強靭さも関係する。


 生物は無意識に他者の魔素の支配域の存在を感じ取っている。これを強烈にしたのが威圧だ。


 逆に特殊な素材を使うなどして外部への魔素の影響を遮断すると、この存在感を希薄にできる。俗に言う認識阻害であり、俺は村ではこの効果がある外套を常用していた。ニナは原理を勘違いしているのか下手な認識阻害と言っていたが、俺が下手なわけではない。

 もっとも、認識阻害が流通しすぎると、俺にとっては見えない人間が増えるので困る。あの外套は軍用の入手困難な品らしいので、一般に普及するとは思えないが。


 訓練によってこうした感覚を磨けば、相手の魔力の程度を感じ取れるようになる。ただ、これは自分自身を基準とした相対的な尺度だ。俺というものさしからすれば、セミルがクラス内でどの程度なのかの差は小さすぎて判別がつかない。殆どアテにならないので、普段は他者の魔力の程度を目で見て判断している。


 鳩が俺を避けるのも、似たようなものだ。野生生物は敏感だからな。この鳩どもに野生は感じないが……


 鳩が跳ねるのを眺めていると、セミルが思いつきを口にした。



「……イルさんくらいの魔力があれば、あの噴水を全部凍らせるくらい訳ないんじゃ」


「やってみようか?」


 ある意味、面白い結果になる。やってやろうじゃないか。


 ベンチから立ち上がる。あれだけポップコーンに夢中になっていた鳩どもが、バタバタと羽音をたてて一斉に飛び去った。


 セミルが慌てて俺を止めようとする。


「冗談だって! 冗談というか、もののたとえ! 壊して弁償とかシャレならないっ」



 噴水に近づくと、空気中に散った微細な水滴に包まれた。霧のようなそれに混ざり、ときおり大きなしぶきも肌に当たる。六月から七月上旬にかけては、一年で最も湿度が低い。降りかかる水も煩わしさはなく、むしろ乾いた身体に潤いを与えてくれる。


 右手が使えないことに気づいて、噴水の縁にフェムを預けた。当然のごとく水で濡れるが、フェムからは楽しさが伝わってくる。フェムはきれいな水が好きだ。



「ヤバイって! 向こうに水遊びしてる子供が」


「……見ればわかる」



 氷漬けになる子供を想像したのだろう、セミルの尋常ではない焦りっぷりに、少々気の毒になる。指先で小波をたてる水面を確かめ、俺は全力で術を行使した。



「えっ……、アレ? なんで?」



 噴水は途切れることなく、ざあざあと波をたてている。軽く腕を引いてから手刀を当てると、あっけなく氷は割れた。身体強化を使うまでもない。凍ったのはこのあたりの表面だけだ。手元だけはかろうじて底まで凍ったようだが、この流水の中にあっては直に溶けるだろう。


 そのまま、フェムの隣に腰を下ろす。服が濡れるが、ここから離れればすぐに乾く。隣でセミルが氷を浮かべた水面を掻くと、ざばざばと音がした。



「……普通だ。普通の、氷を浮かべた、水。冷たくて気持ちいいくらい」


「これが、俺の全力だ。……術は、苦手だ」



 氷が流れていったのか、噴水の向こう側で子供の歓声があがった。セミルは納得できないのか、水をかき回している。



「おかしいだろ……そりゃ、魔力と術の強さはまるまる一致するわけじゃない。でも、関係ないわけがない。差があるにしたって、限度がある! しかも、イルさんはあんなに術に詳しくて」


 少し意外な反応だった。声を大きくするセミルに、首をかしげて聞いた。


「何に怒ってるんだ?」


「えっ、怒って? え、いや、強いて言えば、理不尽?」


 理不尽、なるほど。つまり、セミルにすれば、俺がもっと術を使えて当然だと。そんな風に考えたことはなかった。こういうものだと納得していた。

 先生も契約術に関しては色々調べていたようだが、術そのものについて深く話したことはあまりない。俺の術に関する理解の殆どは、目で見えたことだ。


「俺の術の発動には問題がない。目で見てこれが自然な状態なのだと直感的にわかる。疑う余地さえない」


「イルさんみたいな感覚もない僕から見れば、ものすごく不自然だ。何か原因があると思いたくなる」



 セミルが秒で言い返してくる。


 彼が何故そこまで納得できないのか、俺にはわかりかねる。人間と魔物の差か。魔物は生まれ持った能力について本能的に理解しているぶん、それを疑わない嫌いがあるのではないか。知性ある他の魔物と会ったことがないので、俺がそうであるだけかもしれないが。


 フェムを手にすれば、水を浴びて少しひやりとしている。フェムのことも、なんとなくそういうものだと納得しているが、あまり深く考えたことはない。



「……百歩譲って、これが自然な状態だという原因がある、なら。まぁ、ありえなくはないか」


 ぽつりともらした妥協案に、セミルが思いついた! とばかりに噴水から離れ、俺の前に立ちふさがった。



「原因、それだ。僕もそれが知りたい。ここからなら近いし。今こそ、住民台帳カードを使う時だよ、イルさん!」


「近い? おい、馬鹿、フェ……杖を引っ張るな! クソッ」

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