紅茶の炭酸割り

 お礼がどうとかまた話すのも億劫だ。初めからすぐに取り掛らせるつもりで、ニナに買ってもらった服を紙袋に詰めこみ一階に降りた。



「イルさん、おはようございます。昨晩は、本当にありがとうございました。先輩はまだ出歩くのは難しく、近日中にでも伺いたいと」


 少し暑くなりそうだ。日差しが柔らかい席を選ぶ。頭を下げるアレイナをさっさと席につかせ、紙袋を置いた。


「ああ。まぁ、そういうのはいい。気軽に行こう。ゴリラと話す気も今はあまりない。ただ、容態は気になる。どうしている? あと、これは服だ。早速頼む」


「胸の傷はもう治りかけています。どちらかといえば、腕の傷の方が深いですが、先輩曰くちょっと転んだくらいの擦り傷、らしいです。先輩の言うことなので……」


 腕?

 ああ、なるほど。フェムを止めようとしたのは腕だったのか。知らずに削っていたらしい。実際、こっちも勢いを削がれたしな。


 アレイナの言い方に、あまり心配の色はない。流石のゴリラ回復力ということか。



「枝の影響は?」


「風邪のような感じです。熱がありますが、出歩くのが難しいといっても、大事をとって私が大人しくさせておいたというのが正しくて……」


 紙袋の中の服を改めていたアレイナが、手を止めた。


「この、大陸の服はとても素敵ですよね。最初にお会いした時も、お似合いで印象的でした。もちろん、従魔だから目立っていたというのもあるのですが、それだけではなくて」


 ニナに無理矢理試着させられ、そのまま買って着て行った例の服だ。袍と言ったか。


「そうか。それは俺も気に入っているが、枝を収めるのが難しくてな。いい感じにできるなら嬉しい。似たものが、カラフにもあるなら買いたい。ゴリラは思った通り、相当に丈夫だな。心配はなさそうだ」


「ええ。探せばありそうです。先輩は、迷宮の支配に煽られることもなくなって、久しぶりに深く眠れたと言っていました」



 開け放たれた窓から、緩い風が吹く。湿度は低く、不快感はない。日陰にいれば心地よいくらいだ。


 穏やかな空気の中、アレイナの魔素の流れも、昨日までよりも心なしかゆったりとしている。これまではずっと、彼女自身気づいていたかもわからない焦燥に駆られていたのだろう。



「ただ、その……」


「何か、問題が?」


「食べ物の好みというか、味の感じ方が少し変わったみたいで。今まで苦手だった野菜が美味しくなって、逆にパンに塗った蜂蜜が一口で喉が渇いて飲み込むのが辛いと、戸惑っていました。野菜を食べてくれるのは私としては嬉しいのですが。高熱による一時的な味覚の変化でしょうか。魔物のイメージとは何となく違いますし……」



 ……いや、めちゃくちゃ、心当たりあるな。思わず視線を泳がせた。魔枝にそんな影響があるとは。



「原因をご存知なのでしょうか?」


 俺の態度を勘違いしたのか、アレイナが不安げに問う。そんな、深刻なことではない。健康にも害はないだろう。茶と菓子を運んできたセミルが、言い淀む俺に代わって説明した。


「それ、多分、イルさんの味の好みがうつったんじゃないかな。薬味とかシソ類とか、ハーブとかネギとか柑橘類とか美味しくなってるはず。白飯やパンは食べれてる?」


「はい。パンは普通に食べていました。イルさんは、香りの爽やかなものがお好きなのです?」


「そのへん食べれるなら、イルさんほど極端ではなさそう。困ることも無いと思う。そうそう。大体、イルさんの好みは把握したかな。例えばこれ。紅茶の炭酸割り。少しだけレモンも絞ってある。苦手な人はドン引きするけど……多分、イルさんは好きなやつだと思うんだよね。どう?」


 なるほど。米が食えるなら、むしろ野菜が食えるようになって得をしたのではないか? 野菜は旨いからな。ゴリラよ、野菜を食え。



 置かれた器を手にすれば、かなり大きめのグラスにストローが挿してある。ゆっくりと吸い上げると、想像以上の爽快感が広がった。


 この部屋に満ちる緑の香りとも相まって、突き抜ける清々しさだ。


「旨い、というか心地よい。紅茶は冷たい方が雑味がなく好みだ。砂糖を入れるなどもってのほかだ。これは炭酸が爽やかで、身体の中がすっと更新される感覚になる。天才か」


「ほらね?」


「紅茶の炭酸割り……」


 セミルが得意げに言う。餌付けされているのは悔しいが、これは好きだ。


 続けて、なんとなくアレイナの微妙な視線が感じ取れた気がした。そんなに、変な飲み物なのか、これは。

 本当に爽やかなのにな。身体が求めていた水分という感じだ。


「旨いものは旨い。理由など必要ない。セミルが思い当たって作ったということは、人間にもこれを好む者がいるのだろう。結局、個人の味覚の差の範囲だ」


「それに関しては、僕も同意見かな。人の感覚なんて意外とばらつきがあるんだ。視力とか聴力は調べるからわかりやすいけどさ。多分、味覚も同じ。

 あんまり極端な食わず嫌いは本人の為にもならないと思うけど、おいしいと感じるものを選ぶ選択肢はいくらでもあっていいよ」


 知覚の多様性を尊重、だったか。図書館でセミルが読み上げた魔眼検査表の前文にそんなのかあったはずだ。


「まぁ、あまりにもイルさんの食べるものが人間と異なっていたら、僕も困っていたかもしれないね」



 俺にもよくわからないが、魔物は水と魔石さえあれば、生命維持はできるらしい。迷宮で多様な食物を手に入れるのは難しそうだからな。俺の引きこもり時代も大体そんなものだ。


 だが、それが最適とは思えない。


 先生は料理が苦手だったし、俺は買い物を面倒くさがっていたしで、村では魔石で腹を満たすことが多かった。

 それでも、枝は引きこもり時代よりも良く育った。枝の色を変える感覚も、その頃に知ったものだ。


 色々と食べた方が精神的にも余裕ができて、味覚も枝も育つのではないか。枝を与えるという行為も、栄養状態に依存しているのではないか。

 紅茶の炭酸割りを味わっていると、その考えは強くなる。



「そうですね。先輩の食事はどのみち、どうにかするつもりでした」


「元々何か問題があったと?」


「はい。先輩はその、生活力が無さすぎるといいますか、殆ど外食で。しかも今までは迷宮の支配による発作の影響で異常な量を食べたり、出歩けない時は味もついていない肉をろくに焼かないでかじっていたり。というか、家に調理器具が何もないんです。一人にしておくと何を食べるか心配なので、それで……」


 早口になったアレイナの話をじっと聞く。生肉はダメだろ。生で食える肉もあるが。食えないやつはかなり危険なはずだ。


 まさか、強化ゴリラなら食中毒にならないのか? 俺でさえ腐ったものを食うと調子が悪くなるのに。ゴリラ、強すぎでは?


「それで?」


 アレイナがおろおろと言いづらそうにしているので先を促した。もう、ややこしい話や隠すべき話もなさそうなものだが。


 ゴリラに色々食わせたいというのは何となくわかるしな。栄養面だけじゃない。俺が魔石だけ食っているよりも余裕ができる気がするのと、似たようなものだ。



「それで、先輩と相談して。私も寮を出たいですし、二人で同棲しようかということになって……あの、そのですね。色々とお互いにメリットが大きくて、理に適っているので」


「いいんじゃないか? 理に適っている。何かあった時にアレイナが見ていられる可能性が高くなるのも安全だ。枝の影響は長期的にはまだわからないからな」


 何故か、セミルがため息をついている。何なんだ。アレイナも、そんなに興奮しながら言うようなことではないだろうに。


 と、そこでアレイナとゴリラが知り合った経緯を思い出した。そうか。理解した。同棲にも様々な形態があるが、男女のそれの多くはつがいのことだ。


 俺は手を叩いて大きく頷いた。


「……ああ。アレイナのこの興奮は恋のなんとかってヤツか」


「違います! 利点が大きいので! それに、興奮してはいません!」


 中腰になり声を大きくしたアレイナは明らかに興奮し、魔素の光がぴょんぴょこと飛び散っている。面白い。散った先から色を変える彼女のそれは、見ていて本当に飽きない。

 俺に人の顔が見えるなら、きっともっと面白いだろうに。


 笑いを堪えながら、セミルが言った。


「イルさんのそういうところ、面白いよね。知識はあるから、顔色ひとつ変えず生殖器がどうのとか言うし。それはそうと、同棲するなら新しく部屋を探すのかな。イルさんも部屋を探さないとだし、不動産屋に一緒に行ってもいいかも」


 アレイナを面白がっている俺を、セミルが面白がっていた。これが食物連鎖か。


 宿は五泊分を払っているが、この調子だと延長しそうではある。まさかカラフに来てすぐに、ゴリラと戦うことになると誰が予想するというのだ。


 不動産屋と聞いたアレイナは、そうでした! と何か思い出して、落ち着きを取り戻した。



「それについても、お話があるのでした。多分、イルさんにも条件の良いお話のはずです……ええと、ですね」



 なになに?

 それから聞いた話は、なかなか興味深く。

 確かに悪くはなさそうだ。


 正午を過ぎ、セミルの祖母が来たのを見計らい、俺たちは一旦作業を切り上げて、ゴリラの家へと向かった。

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