一人じゃない

 ゴリラの部屋に行く前に――というか俺はゴリラに会う気はあまりないのだが。昨晩の侵入経路だった老人の家に正面から訪れる。


 塀はなく、木々によって道路と敷地は隔てられている。生垣ではなく、悠々と育った木だ。その一つには巣箱があるのか、小さな鳥が忙しなく飛び交う。


 敷地の境目、本来は門とも言うべき地点から玄関まではそこそこあり、昨晩忍び込んだ裏側程ではないが、やはりここにも草木が生い茂っていた。飛び飛びに置かれた敷石が必死に、植物の侵食から通路を死守している。


 途中、セミルが足を止めた。


「すごく、いい感じ。雑に見ると自然に生えてるだけに見えるかもだけど、そうじゃない。この自然に感じさせる手の入れ方がいいよね。植生も豊富でこの土地の気候に合ったものが植えられてる」


「俺には良くわからないが……確かに、香りと雰囲気はいいな」


「うん。いざゼロからこの趣を得ようとすると、とても時間がかかるんだ。よく見ると、夏の暑さで休眠中の山野草があったり、あきらかにわかってる人の痕跡がある。ほら」


 セミルはしゃがみ込んで、そのわかってる人にしか通じなさそうな話をし始めた。アレイナも一緒になって、セミルの言う植物の名を大人しく聞いている。


「庭ってさ、完璧に整えられて、派手な花が咲いていればいいってわけじゃないと僕は思うんだよね」


 それは、何となく共感できる。俺は人と同じように、花を見ている訳ではない。だからこそか。ぎっしりとした花壇というものにはあまり興味を惹かれない。


 山や野の雰囲気のある庭は好ましい。植物は見えないわけではない。知れば、見え方も理解の上で変わるだろう。





 アレイナが玄関の引き戸を開けた。ガラガラとやたら大きな音が響く。呼び鈴を兼ねているのかもしれない。



「ごめんくださーい」


「はーい。アレイナちゃん、ちょっと待ってねぇ」


 年寄りと聞いていたが、奥から聞こえたのは、まだまだ張りのある女性の声だ。それにしてもアレイナちゃん、か。事情は聞いているが、想像よりも親しそうだ。昨晩のアレイナは、この家の主との関係も計算に入れて作戦を選択したに違いない。


 軽く挨拶と紹介を済ませて、中に招かれる。ハルディア式の靴を脱いで上がる家だ。一つ不安になり、小声でアレイナに聞く。


「……俺は見ての通り靴を履いていない。何か拭くものが欲しい。拭いた後はこのまま上がっても問題ないだろうか?」


「雨の日にクロちゃん……この家の猫の足を拭く用のタオルがここに」


 アレイナにタオルを渡され、蹄の土を落とした。クロちゃんとやらは外出中なのか隠れているのか見当たらない。まぁ、俺を警戒して出てこないだろうな。



「ハルディアの夏は裸足が基本!」


「ふふっ、私もサンダルなので裸足です。その、イルさんの場合、床を傷つけないように歩いてもらえればと」


「大丈夫だ。……昨日のアレは、すまん」


 アレイナの指摘は嫌味というより、足の構造を見ての純粋な心配だろう。ゴリラ宅の床は蹄よりは魔枝で削ったものだ。歩き方に気を付ければ、床に傷をつけることはない。



 長い廊下の先。通された部屋、縁側から広がるのは、生い茂る草花と木々。いくつもの生命が織りなす魔素の輝きは、縁側という境界に切り取られて、外から見た庭よりも不思議と多弁に感じられる。


 俺たちは、低く大きな卓を囲んで座った。い草が香る敷物の、涼しげな感触が心地よい。ウサクの村を思い出す雰囲気だ。ハルディアの庶民に、椅子に座る生活様式が伝わったのは戦後のことだと聞く。


 俺は卓の下に隠れるよう、こっそりとフェムを呼び戻した。視覚に映る情報が増える感覚に重みを感じるものの、すぐに収まる。日々新たな場所に訪れるとなれば、このほんのぼんやりとした明暗にさえ、知らずと頼っていたのだ。部屋を見回して、そう実感する。

 フェムと色々見たいし、取り回しのしやすい形にもフェムがなれたら良いのだが。



 俺がそんな風に、悟られぬよう気を散らしている間、話は順調に進んでいた。


 この家の女、デフネと言ったか。アレイナは、ばら亭に来る前にデフネと相談しておいたようだ。今は改めて内容を確認している。


 要点としてはこうだ。


 デフネはゴリラの住む長屋の大家だ。長屋の部屋は三つあるが、二つは実質倉庫で、今はゴリラしか住んでいない。ゴリラとアレイナが同棲するには、狭く不便すぎる。ゴリラが引っ越すと長屋に住む者がいなくなる。


 住む者がいないと建物が傷むのが早くなるという。空き家があると、どこからともなく地主を調べた地上げ屋がデフネの元へ来て煩わしい。周辺の防犯の面からも、信頼のおける者に住んでいて欲しいと。

 あとは冬場の雪かきか。ここは旗竿地で住人以外に出入りがない。市の除雪も入らず、雪かきは重労働になる。


 賃貸料は月2万グラン。部屋は一つだがそれなりに広い。風呂はデフネの家のものを借りられる。銭湯も近い。俺が入れるかは別として。風呂は一軒家でもなければ、なかなかないものだし、炊くのも一手間かかる。ゴリラは全く使っていないが、厨房には一通り設備がある。ストーブも備え付けで、石炭小屋はデフネの家と共用している。

 一番近い電信は、銭湯にあるそうだ。何故銭湯? と思ったが、なんでもご主人が新しい物好きだとか。


 セミルによれば、カラフの中心部からの距離を考えると、部屋が一つということを入れても安いとのこと。知り合い価格というやつか。


 ガリガリに削りまくった床についても謝罪したが、住むなら自費で適当に直してくれればよいし、気にならないならそのままでもよいと、実におおらかな回答をもらった。

 デフネにしてみれば、とにかく誰かに住んでいて欲しい。雪かきや雪下ろしなど、力仕事も任せたい。ただし、全く知らない人間に住まわせるのは避けたい。そんな所だろうか。


 条件は悪くない。かなりいい。なにより雰囲気がいい。街中であるのに、極めて人通りは少なく、緑に囲まれ、庭に面した縁側。面倒な隣人もいない。ついでに、ばら亭からもそこそこ近い。


 しかしな。ゴリラの代わりが俺に務まるのか? ゴリラがここでドラミングしていたから、老女の安全な一人暮らしが守られていたわけだ。


 どう、何を言うべきか。取引は好きだが、駆け引きは苦手だ。まぁ、正直に言えばいいか。

 覚悟を決めて、俺はデフネに切り出した。



「条件はこの上ない。ありがたい話で、こちらから頭を下げたいくらいだ。だが、俺はゴリ……ヤウズのように強くはない。それに、俺には魔素しか見えず、多少の不自由もある。何より、俺は人間ではない」


 言わなくとも自明ときてる。だが、疑心暗鬼になるのは面倒だ。褒められた態度ではないだろう。それでも、敢えて聞く。


「デフネさんが、俺でいいと判断した理由が知りたい。信用してもらえるのは、アレイナの人柄ゆえだとしても」



 なんとか言い切った。正直、こんなやり取りは苦手だ。何かもっと上手い言い方があった気もする。

 訪れた少しの沈黙に、不安がつのる。


 デフネは、そうねぇ、と間を置いてから、ゆっくりと俺に語りかけた。



「ヤウズはね。小さい頃から強い子だったの。彼が魔物混ざりなことは、ずっと昔から知っていた。苦しんでいたことも。だから、アレイナが一緒に暮らすと聞いて本当に驚いたのです。ヤウズが誰かと共にいる選択をできたことに。


 ――あなたが、彼を一人ではなくしてくれたのでしょう?」



 鈴の音のように問いかけるデフネの声に、戸惑いが舞い巡り、返す言葉を失う。


 それに、この女の魔素は――


 意味もなく庭へと視線を逸らし、少しの時が過ぎるのを待った。開け放たれた窓から聞こえてくる虫の声は、夜の虫たちよりもずっとおとなしい。耳を澄ませば、杉の木の下で、枝で繋がる感覚を待ち続けた、あの時間が思い起こされる。


 一人ではない、か。



「俺は、ただ、本能を満たしたかった。せいぜい、迷宮の支配を邪魔することにしか興味がなかった。ヤウズには何も求めなかった。枝は喰った者との繋がりを作る。俺にはそれが面倒に思えて、俺のことは忘れろとまで言った。だが……」


 目を閉じて、微かな感覚を辿る。あの時、生まれたそれは、今も俺の中にあって広がりを持っている。


「俺の中で生まれたものは、決して不快ではなかった。恐れていたものではなかった。確かに、イルカイは一人ではなかったのだと」



 顔を上げ、デフネに向き直る。ひとたび声にすれば、続けて言葉は紡がれた。



「一人ではない。迷宮では精霊たちがいた。地上に出てからは、先生とフェムと。村の人間がいた。カラフに来てからはこの数日で、セミルとアレイナと……ヤウズと。そして、デフネ、あなたもだ。


 それでも、どんなに縁があっても、人は。自分が孤独なのだと思えば、どこまでも孤独になれる」



 かつての俺が、そうだったように。

 今でもその気になれば、そうなれるように。

 時には、孤独になることも必要なように。



「与えてわかったのだ。枝のつながりは、束縛とも互いを結びつける鎖とも異なる。孤独ではない、一人ではない――そう望んだ時に、自分の縁を見失わないようにしてくれる。何か、そういうものだ」


 この繋がりは、何も縛らない。俺は、何も求めない――


「迷宮の支配から解放された、そのことがヤウズの転機になったのは確かだろう。だが、それで終わりではない。自分は一人ではないと、そこにあった縁に目を向けなければ、彼もいつでも孤独になれる」



 アレイナを見て、やわらかく呼びかける。


「そうだろう、アレイナ。ゆめゆめ、油断しないことだ。まぁ、だからこそ、誰かを選ぶというのは特別なのだろうが。うまくつがいを作るんだな」


「は、はい!」

「……つがいって、イルさんそういうところマジ」


 アレイナの返事がいつになく真面目だ。セミルは通常運行。それがいい。そんな俺たちに、デフネも朗らかに微笑む。



「そうなのね。魔枝のつながりは、あの子を傷つけるものではない……望んだときに、見失わないようにしてくれる。人は、時には孤独になることも必要だから。このやさしさは、あなたの枝だからかしら?」


「枝の効果に個性があるとは考えたこともないな。ともかく、伝えたかったことは伝わったようだ。正直、柄にもなく話しすぎて、恥ずかしさで俺は今、少し孤独になりたい」


 ゴリラが寝ていて助かった。顔を合わせるのもクソ面倒だ。演出の為だったとはいえ、六本枝の魔獣とか、あとから思い出して悶えてしまったのだ。ただでも恥ずかしいのに、ここにゴリラがいたら恥ずかしさでフェムをブッ刺しかねん。


 セミルが笑いを堪えているのも、人より若干、耳のいい俺には全部聞こえているからな。はぁ。



「ともかく、そういうわけだ。ゴリラとアレイナの転居が決まったらすぐにでも入居したい。宜しく頼む」


「ええ、こちらこそ。では、賃貸契約書はこちらね。わからないことがあれば、聞いてくださいな」


 デフネが契約に必要な書類を取り出して広げる。当然、紙の内容は見えない。だが、もう慣れたものだ。こういう時は――


「セミル、手伝ってくれ。どうすればいい?」


「あーー。罫線があるから、履歴書と同じ手を使おっか。目印にイルさんの万年筆で点を打とう。この手の書類は、インクは改変出来ない黒か青のものなら使える。万年筆ので問題ないはず。ですよね?」


「ええ。手慣れているのね」


 いつもの万年筆をセミルに手渡しながら答えた。


「まあな。セミルには役所にも付き合ってもらったし」


「イルさんは、必要な時には言ってくれるからね。変に忖度を求めないから僕も気が楽なんだ」



 忖度とか互いに面倒なだけだろう。まぁ、セミルには何となく頼みやすいのも確かなのだが。


 セミルが用紙に印をつけてゆく。


 図書館の帰りに履歴書用紙も買って、あの晩はセミルに手伝ってもらいながら何枚か失敗した。書くは書いたが、まだ職業案内所には行っていない。大体、ゴリラと戦ったせいだ。


「ああ、そうだ。デフネさん、指に身体強化をかけてもらえると俺にも見える」


「これで、どうかしら。まず、ここに今日の日付。……あら?」



 最初の一筆を入れようとしたその時、玄関からガラガラと音がした。



「おーい。デフネさん、アレイナがこっちきてねぇか?」


「先輩!」



 げ、ゴリラ!


 ――手元を見直す。よかった、失敗はしていない。ゴリラのせいでペン先をピュッとやったかと思って焦った。早足で廊下にすっ飛んで行ったのはアレイナだ。



「あらあらあら。ヤウズも来たのね。熱は下がったのかしら」



 はぁー。クソッ。なんで来るのだ。寝ていろ。おまえに興味はない。


 どんな顔をしてゴリラに会えば良いかわからず、俺は賃貸契約書を埋める作業に没頭しようとした。

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