夏の空に冬の星を巡る
南向きの縁側には、高く登った陽が降り注ぐ。緑騒めく庭を通り抜ける風のおかげで幾分か涼しい。
「ゴリラさんとイルさんはなんでそんなに、微妙な雰囲気なわけ?」
とうとう耐えられなくなったのか、セミルが口にしてしまった。そんなハッキリ言わなくてもいいだろう。見ればわかるだろうが。
「……色々、複雑、面倒」
「なんでカタコトなんだよ」
縁側の右端で距離を置く俺の隣、セミルが嘆息する。その隣にアレイナ、更に隣にゴリラ。
「俺は別に気にしちゃいねぇけどな。むしろ、イルには感謝してもしきれねぇ」
これまた、悠々とゴリラが言うのが気に食わない。何というか、どういう態度をとれば最適なのかわからないのだ。つまり、面倒。
気がつけば、無意識に魔枝の先で縁側の端をカリカリしていた。
「何か既視感があると思ってたんですが、わかりました。アレです。新入りの猫みたいな感じ。魔獣的感覚で何かあるのでは?」
アレイナも段々と容赦がない。疲れた俺は後ろに倒れ込み、平べったくなる。日差しで温められた床が心地よい。
「逆逆。イルさんは新入りの猫が来て威嚇してる先住猫の方でしょ。言われてみればイルさんは猫っぽ……いやこれ、浜に打ち上げられたクラゲ」
セミルの例えにアレイナとゴリラが噴きだす。クラゲ……海の生き物だ。名前を知ってはいても見たことはない。海の生き物、つまり――
「どうせ、俺は魚屋で売られる存在だ」
思わず愚痴が漏れた。もういい。クラゲになりたい。床の上に広がりさらに平べったくなる。
「おぃおぃ。昨日の覇気はどうした? 六本枝の魔獣。てめぇは最高にイカれた存在じゃねぇか」
死んだ。
ああーー!
もだ、悶えるっ!
たまらず、ゴロゴロとのたうつ。つられてしなった魔枝が何かを引っ掛けた。
「ああっ! 僕の麦茶が!」
「イルさん、落ち着いてください!」
「ん? なんかマズいこと言ったか?」
死ィィーー!
広がった麦茶の冷たさが、ひたひたと服に染み込んでゆく。全てを投げ出したくなったそこで、ようやく自分が何をやったのかに気付き、俺は我に返った。
「はい、どうぞ」
麦茶を淹れ直してきたデフネが、皆の座る縁側の床に盆を置く。
「……すまなかった」
「いえいえ。凍らせてくれたから、拭く手間も省けましたし。グラスを変えてみたのですけど、どうかしら?」
デフネに問われるまでもなく。盆の上、一つだけ異なるそれに、俺は釘付けにされていた。
何層もの輝きが折り重なり、色の波が揺れている。車窓から見たあの海の、底しれない広さと奥行きがそこにはあった。
恐る恐る手に取る。
鮮烈な感触だった。深く、鋭角に、規則正しく掘り込まれた刻み目。それが出会い重なり折り返し、新たな繰り返しを生み出している。
そっと撫でると、所々で刻み目の深さは滑らかに変化して、すうっと広がった先には山も谷もない。けれど、そこには初めに見た光の波が満たされていて、その一粒一粒が絶え間なく騒めいている。
麦茶が、グラスの口から僅かに溢れ、指に触れる。夢中になるあまりグラスを傾けすぎたことに気づいた俺は、傾きを戻すのでなく麦茶の表面を凍らせた。
そのまま持ち上げて、高く昇った陽にかざしてみる。
何だこれは。目が眩む。なのに、逸らすことができない。グラスの向こうに見える天の星はその形を崩して、刻み目の端々へと欠片を散らす。欠片の先には何重にも色が滲んで波打つ。
意味がわからない。話し声も虫の声も何処かへ行ったようだ。薄く張っただけの氷が陽に照らされて溶け、溢れだした麦茶が袖口を伝う。
「――イルさん?」
セミルの声。続けて肩を揺らされる。ああ、たった今、俺は光の海から現実に戻されたのだ。
――これで、終わり、なのか。
グラスはまだ、手の中に確かにある。そうだ、これは麦茶が入った器なのだ。そんな当たり前のことを今更思い出し、中身を一気にあおる。なんてことはない、普通のよく冷えた麦茶だ。
もう一度、グラスを見つめる。突如として湧きあがった昂りは、今や鎮まっている。しかし、その光の複雑さと深さは何も変わることはなかった。
あれは、一時の幻影ではなかったのだ。あの現象が、再現可能なのだと理解すると、例えようのない充実感が俺を満たしていった。
次に沸き起こったのは、好奇心だ。
「……デフネさん、これは一体なんだ? アーティファクトか何かか?」
「ふふ。素敵なものではあるけれど、アーティファクトではないの。これは、輝石ガラスの切子ね」
切子?
知らない言葉だ。アレイナとセミルがのしのしと寄ってきて俺の手元を覗き込んだ。
「本物は初めて見ました。あの、言葉がなくて小学生みたいな感想になってしまうのですが、とても綺麗……」
「ヤバいよこれ。切子って普通のグラスでも数万グランするんだ。輝石ガラスだとちょっと値段がわからない。ごめん、値段の話ばっかで」
セミルの話を聞いて、壊しやしないかとビビる。そんな俺にデフネは軽く笑って説明した。
「大丈夫。輝石ガラスは冷やしても熱しても落としても、まず割れることはないから。それは何箇所かの迷宮跡から集めた輝石を溶かして混ぜて、層にして重ねてあるのね。それを上から彫刻すると、色の変化が断面に現れる……わかるかしら?」
俺にも見えるよう、手先に魔素を回しつつ、デフネが両手を何度も交互に重ねた。
「ああ。産地によって、魔素の色が異なるのだな。見た感じ、三層、いや四層はある。生物に由来しない魔素は――」
そこまで言ってしまった、と気づいた。アレイナとゴリラとデフネは俺が魔素視持ちだとは知っているが、それ以上は知らないはずだ。いや、問題ないか。属性が見えるとは言ってないし、ましてや魔素の理が見えるとは。
色が見えることを突っ込まれたら、魔物だしロジックで通すか。バレると、セミルが雑属性のフリをするのが難しくなる。
「――生物に由来しない魔素はどれも青白い。ただ、例外がいくつかある。迷宮産の輝石もその一つだ。あくまで、俺がそう見えている、というだけの話だが」
「色が重なって見える、なら僕もそう見えているし、想像の範囲だ。でも、イルさんの魅了されようは、ちょっと普通じゃなかったような……」
そんなに、だったか?
セミルが疑いの目でこちらを見ているのが想像つく。まぁ、隠しても仕方がないし、話す気が無いどころか、見たものを伝えたい気持ちの方が大きい。ただ、ひたすらに言葉にするのが難しいだけなのだ。
少し悩んで、それこそ小学生の語彙になりながら、俺は見たものを説明した。
それまで聞き手に徹していたゴリラが言う。
「そりゃアレだ。屈折とか干渉じゃねぇのか?」
屈折――知識として知ってはいても、見え方としては知らないものだ。魔素は屈折も反射も殆どしないものとされている。実際、何かに透かして向こう側の魔素が見えににくくなっても、像がズレたりはしない。普通は。
ん……いや、本当に屈折しないのなら、俺の目に魔素が像を映すはずもないような。殆どということは例外があるのだ。透かした陽があんなに散り散りになったのだから、あれが屈折なのか。
衝撃的な体験をゴリラに一言で説明されて、何か悔しい。
「――屈折か。そう、かもしれない」
普通の光が見えていれば、世界はこんな美しさに溢れているのか――続く言葉は心の内に閉まった。悲観ではなく好奇心でしかないとしても、万人にそう取られるとは限らない。
世界は既に美しい。これは、その一端を見つけたに過ぎない。
再び、グラスを翳してみる。落ち着いて観察すると気づくことがあった。この現象は、星の特性を持つ魔素でしか起きない。全く意味がわからないが、そういうものらしい。
迷宮が星の魔素を吸い上げて、死んだ迷宮が輝石を残すなら、輝石の魔素もこの星の魔素に由来する。星の魔素同士で起きる現象なのかもしれない。さらにグラスの多層構造も関係ありそうだ。
試しにひときわ目立つ星を透かし見る。小さくとも鋭い点の輝きは、欠片となってグラスの端々に映った。
「あれは白狼星か。これもまた、太陽と違った散り方で面白い」
「白狼星って確か、太陽以外で三番目だか四番目に近いとされる恒星だよね。くっそ寒い夜に学校の宿題で星の観察やらされた思い出しかない……」
「ああ。七月の昼に見えるのは、冬の星座だからな」
当たり前のように続いた俺とセミルのやりとりに、アレイナが驚く。
「イルさんは昼も変わらずに星が見えているのです? 白狼星くらい明るければ、空気の澄んだ山の上から、昼にも見えるとは聞きますけど」
「太陽の光は世界を照らさない。俺の視界では。つまり、昼も夜も星の見え方は変わらない。月は太陽の光ではなく、月自身の星の魔素で薄らと見える。まぁ、だから常に満月だ」
「昼も夜も……想像が難しいですけど、それもなんだか素敵な気がします」
縁側から空を見上げてアレイナが言う。その後ろ、ゴリラがふむ、と頷いた。
「なるほどな。色々と納得がいった。あんな暗闇で俺の目を見ろと言うから、てっきり特殊な魔眼で目が光るんじゃねぇかと」
おい、その話はやめろ。ジタバタしたくなるのを堪えてゴリラに反論する。
「……ご、語彙がなくて、咄嗟に台詞が出てこなかっただけだ」
「俺を無駄に身構えさせるには役に立ったじゃねぇか。ところでイル、白狼星もいいが――」
それから、暫く星座談義になった。ゴリラが星に詳しいのが少し意外に感じたが。そうか。ゴリラにも宇宙に興味を持つような少年時代があったのだよな。
夏の昼に、冬の星座を語り合う。
俺が星を辿り。アレイナがまつわる物語を、ゴリラが知識を、セミルが村での体験を。時折そこにデフネが混ざり、インサナディアより更に北の国での星の名を教えてくれる。
俺たちは何光年か遥か遠くの星を標に、彼方の土地に想いを馳せる。
昼下がりの日差しに共に照らされて、縁側でゆったりと過ごしていると、新入りの猫とも多少馴染めた気がしたのだった。
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