それをただ眺めて

「アレイナちゃんとヤウズはこれから部屋を探しにいくのかしら?」


「ええ。不動産屋も何軒か目星をつけてあるので」


「アレイナちゃんはしっかりしてるし、いい部屋を見つけられそうね」



 デフネとアレイナが部屋の選び方と探し方をゴリラにあれこれ確認する。すぐに決めてしまわず、遠慮せずに納得できるまで不動産屋を連れ回して部屋を見せてもらうのが大事らしい。ゴリラは拘りがあまりないようで、しょぼしょぼと返事をしている。


 最後はアレイナがゴリラを引っ張りながら玄関を飛び出して行った。




「そういう俺は、他に何も見ないでゴリラの部屋に住むことを決めたわけだが。あんな風に拘りを持つアレイナが太鼓判を押すのだから、実際いい話なのだろうな」


「実際、かなりの好条件だと僕も思う。何よりこの庭がいいよね。今は一面のタイムだけど、好きにしていいみたいだし、ワクワクするな」


 ここはゴリラ宅の庭。


 セミルが無邪気にタイムの芝生を歩き回る。俺はそれを、昨晩侵入した縁側の崩れかけたデッキに座って眺めていた。


 風鈴が鳴る。窓を開けっぱなしで出かけるとは。流石ゴリラ。まぁ、確かにゴリラの家に盗むものはなさそうだ。


「ワクワクするのはいいが、セミルが住むわけではないだろう」


「庭を! 弄らせてほしい! 大まかな計画はイルさんに従うからさ」


「まぁ、それは構わんが……」



 計画、か。何となく漠然と草木があって、ごちゃごちゃしてるよりは広い感じがいい。キツい香りの花は避けたい。草木に対する知識の解像度が低すぎて言語化に難儀する。


 植物は動物のようにはっきりした魔臓を持たず、薄らと魔素を帯びている。若芽や花、果実の魔素を濃くする草木もある。

 青系のものが多く、一つの植物の中に色の揺れと独特の調和があって、魔素から感じる植物らしさというのだろうか。

 セミルに上手く伝えられないのがもどかしい。


 大きく息を吸えば、地面を埋め尽くすタイムの複雑な芳香。ほんの少しの柑橘系の鋭さと、フルーティな甘さ。それらが樹木を思わせる清涼感に包まれている。

 何年にも渡って放置されて蔓延ったこのタイムは、料理や香油に使われる由緒正しい品種ではないのだろうが、この控えめさはむしろ好ましい。

 僅かに残る花の香りも混ざる。もう少し暑くなる頃には葉だけになるのだろう。


 縁側から離れ、あたりを見て回る。


 向かって正面――南側は大家のデフネの家の裏側との境界。壊れかけたスカスカの木の塀に鉄線花が絡みついている。触れてみれば、もはや塀ではなく蔦を這わせる為の棒というありさまだが、これも悪くない。

 今はまだ花の頃。絡みつく蔓、それに花の数だけ六方に広がる魔素の道筋は空色と瑠璃色の間でゆらめきながら淡く輝いて、かつて過ごしたウサクの迷宮の色に似ている。

 蔓は俺の背丈よりも高く茂る。けれど狭苦しさはない。それも、この色のせいだろうか。


 東側には高く真っ直ぐにそびえる杉の木。下生えを掻き分けると、弾けるように虫が散ってゆく。

 枝で繋がる感覚を待ち続けた、あの時と同じように、俺は幹に背を任せた。

 見上げれば、杉の木の向こうから名も知らぬ大木が枝をうねらせて空に傘をかけ、その周りからも背の低い木々が光を求めて生い茂る。

 おかげで、この長屋の庭を左手に抜ける通路は人一人がやっと通れる有様だが、それがまたいい。決して広くはない。だが、そこには確かに森の空気があって、ほど近い所に街があることを忘れさせてくれる。


 狭い通路を抜けて隣との境界に出れば、グズベリーの生垣。村にもよくあったものだ。背はせいぜい腰に届くかどうか。目隠しにはならないものの密生した棘は鋭い。

 刺々で健気に捕食者を阻んでいるのを、身体強化で無視して実をもぐ。若すぎる実は、つまんだ時の硬さで解る。食べ頃を選んで齧れば――んんっ、この甘酸っぱさ。止まらずもう一つ。爽快さが次々に口の中で弾ける。まぁ、俺の思う食べ頃は人間には早すぎるかもしれない。


 ここから先には石炭小屋。歩けば、フェムの揺らした緑が独特の匂いを舞い上げた。屈んで確かめると、ドクダミと……これはツユクサか。この辺は湿っているのか、この二種に埋め尽くされているようだ。


 フェムの先がカツンと鳴る。何か金属質の、これは――手押しポンプだ。随分と年季が入っている。

 あれば動かしてみたくなるというもの。緩やかなカーブを描くハンドルを掴み、一度引き上げてからぐっと押し込む。心地よい抵抗――



「うおっ」


 思ったより勢いがいい。冷たい水がどばどばと溢れる。

 フェムが魔素を走らせて、水を撒き上げた。全身にしぶきを浴びて何事かと思ったが。


「ああ。俺も、楽しいよ。フェム――」



 風が吹く。少々濡れたが気持ちいい。あの夜と同じように、杉の木と続く木々が呼応し囁き騒めいて、初夏の日差しに熱せられた空気を、洗い流す音の波となって辺りを満たしてゆく。風が収まれば、虫と鳥の声が鮮やかに浮かび上がり、これから訪れる短い真夏を今からかと歌い上げる。


 ここへ来る時に気づいたのだが、杉の木は少し離れた所からでも、家々の影の間に見つけることができた。

 アレイナから聞くに、この長屋やデフネの家を含めた区画は、広い庭を持つ古くからの木造の平屋が多いらしい。地上げ屋の話も出ていたし、この辺りの人間は土地を売りたくないのだろう。


 今、この身を包んでいる穏やかな空間は、デフネや近所の人間が守り残したものなのかも知れない。

 都市の事情や機能性が、人の感情にどれだけ優先されるのか。この光景もいつかは失われて、四角く効率的で暗い建物で埋められるのだろうか。多くの人間には、それが住みやすい街なのだとしても。


 まだ一日もここで過ごしてはいないというのに、聳え立つ杉の木が切り倒される日のことを遠く思い浮かべた。


 俺は、なんだかんだでウサクの迷宮跡を離れるのが惜しかったのではないか。いや、それはないか。迷宮連に任せておけばダムの下に埋められたり掘り尽くされたりはない。その点では彼らは信用できる。


 だが、この杉の木は――



「何してんの?」



 木々の向こうから呼びかけが聞こえ、我に返る。下草を踏みながらセミルが歩いてきた。


「ん、ああ。色々考えてたら、この杉の木が悲劇の主人公になって……」


「意味わからんし。確かにここの雰囲気は良いけど。庭、どうしたい?」


 そう、そうだった。庭の計画の話だった。少し、ぼーっとしすぎたな。


「そうだな……庭の広さは活かしたい。この辺りの、うっそうとした感じはすごくいい」


 自分で言っていて、伝えたいことが何なのかよくわかっていない。相槌を打つセミルに向かって、木のイメージで両手をふわふわとさせる。こう、アレだ。なんか、こう――


「アレだ、こう、もさーっと。みちみちに塀で囲まれるのは最も嫌だが、完全に丸見えも好かん。緑でふわっと自然に囲まれた空間が欲しい。で、中は広い」


「それなら、タイムの芝生はそのまま活かすのがいいかな」


「ああ。香りもいい。それにあれは放置ゴリラでも枯らさないわけだし」


「放置ゴリラて」


 たわいもない言葉を交わしつつ、ゴリラ宅の庭へと戻る。途中、セミルが足を止めた。



「これ、ハリギリだ!」


 杉の木の向こうで、大きく樹冠を広げていた大木だ。太い幹は荒々しい感触。ハリギリ 、なんだったか。ああ、アレだ。


「――たらのめ、ハリギリ、コシアブラ。春の天ぷら御三家か。あいつらには棘があったと思うのだが……」


「そう! 若い幹は刺々だけど、年を経るとこんな風になるんだ。こっちのひこばえには棘がある」


 山菜として採るのは大抵、一番芽に手の届く若い木だ。こんな大木から芽を採ったことはない。木だものな、そりゃ大きくもなるか。

 セミルが、幹の周りをぐるりと回る。ハリギリの木を見上げる俺に向かって、大きく両腕を広げた。


「春に梯子をかければ、採り放題だよ! 木はでかくなっても、先っこの芽はいつものやつだ」


「なに!? それは、ヤバいな……来年が待ち遠しい」


 山盛りの天ぷらを想像して、俺はハリギリの幹に擦り寄った。頼むぞ、俺のために頑張って芽を出してくれ。


「そんなことしてても、春は来ないよ。ま、いかにもイルさんが好きそうな味だよね。デフネさんに頼んで、来年採らせてもらおう」


「ああ、楽しみだ。来年まで頑張って生活する理由ができた」


「何言ってんの。イルさんって、そんな儚げなキャラだっけ……」



 勝手に悲劇の主人公にした杉の木にアテられたのかも知れない。呆れを隠さないセミルと共に、木陰を出てタイムの上へ。こいつらは、こんなふうに踏まれるのにも強そうだ。


 セミルは庭の西側が気になるのか、隅まで行ってしゃがんで何やら見ている。

 落ち着きのないセミルを放っておいて、壊れかけのデッキに再び腰掛けた。西側に傾きかけた午後の日差しが程よくちりちりとして、風が通れば涼しい。この感じが良い。ずっとこのくらいの季節なら――


 現実は非情。インサナディアの一年の半分近くは冬だ。



「この夏が終わっても。冬も明るい庭がいいな。タイムは冬でも葉を落とさないのだったか?」


「うん。どんなに雪が積もっても、下で青々としてる。あ、もしかして、雪は魔素を通す?」


「ああ。雪というか氷はまぁ、そこそこ」


「へえーー。こっちは少しスカスカだし、常緑樹でも植えてみる? 地を這うビャクシンとか良さそう。見た目に変化がつくし、イルさんの好きな香りだと思うんだ」


「任せるし、経費も出す。香りがいいのは良さそうだ」



 ここにいると、いくらでもぼーっとしてしまうな。忙しさに忘れていた。こうして、ぼーっとしているのが、俺の本来の姿だ。無駄に百年も引きこもりをしていない。

 ニナにはもっと会話しろと言われたが、この数日で一年分は会話したかも知れん。



 まだ何もない、芝生を眺める。


 タイムの魔素は、幾重にも重ねられた茎が変化を生み出して、紺色と明るく僅かに緑みを帯びた青の間で揺れている。 この微妙な色の違いを言い表す語彙を俺はあまり知らない。


 ここに何か足すなら。そうだな……座るところがあって。たまにセミルやアレイナ、ゴリラも呼んで、魚や肉を焼いたりできると楽しいかもしれない。


 俺はそれをただ黙って、眺めて。精霊たちが賑やかに戯れ合うのを、眺めて過ごしたあの頃のように。


 そう、か。俺は別にウサクの村が嫌いなわけではなかったな。村の暮らしを、ただ、眺めて。多分、それが嫌いではなかった。個々の人間に興味は薄くても、本当に何の興味もないわけではなかった。


 立ち上がり、セミルに呼びかける。



「ここに、テーブルと椅子を置いて。皆を呼んで魚や肉を焼いたり、どうだろうか」


「いいね。イルさんからそんな陽キャぽい案が出るのが意外だけど」



 この案は思いの外、セミルをわくわくさせたらしい。青緑の魔素がふっと散って同系色の芝生に溶け合う。


 だが、若干の誤解がある。俺は陽キャとやらに混ざる気はない。



「……俺はそれを、ただ黙って眺めていたいんだ」


「くっ、やっぱりイルさんじゃないか!」



 風鈴が高く澄んだ音を奏で、木々が騒めく。セミルが笑い、俺はそれをただ眺めて。穏やかに時は過ぎていった。

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