夜明けの物干し台から

 ずっとうえは、ニナのかみのいろ。

 ほしと、そらのいろ。

 とおくはうみ。

 ここからは、ちょっとだけ、みえる。

 うみとそらのさかいめは、あきのおさかなのいろ。

 うみには、たくさんみずがあって、たくさんのきらきらがならんでる。

 にんげんのいえも、うみとおなじ。

 おおきな、おおきな、きらきらのみち。







「イルさん、ここにいたんだ。もしかして、ずっと起きてた?」


「ああ。少しは寝たが、あまり眠れなくてな。どうせだから、フェムに日の出を見せようと。今は――」


「まだ四時ちょっと! そういう僕も気が気じゃなくて起きてしまったんだ。裏口の鍵はすぐわかった?」


 答えて、鍵を返す。帰りが遅くなるのを見越して、セミルは裏口の鍵を俺に預けていた。ほんの数日だというのに、大した信用ぶりだ。

 まぁ、村では鍵の扱いなどもっといい加減で、物置に鍵が隠してあって、知っている人はご自由にお使いくださいなんてのも珍しくなかったが。


 ここは、物干し台というのだろうか。屋根の上に半分乗りかかっており、外を眺めるのにはちょうどいい。街中とはいえ、少しの高さがあるだけで遠くまで――



「……最近、遠いということが、こうして見ていても少しわかってきた気がする」


「遠近感のこと?」


 セミルは隣で身を乗り出した。遠くを眺めているだろうセミルを見て、言い表す方法に思い悩む。


「どうだろうな。魔素は、近くや見慣れたものなら多少の距離はわかる。だが、フェムとの繋がりで得られる像は、未だに距離感が曖昧だ」


 ここから見えるのは、街なのだと理屈でわかっている。だから、広がりという意味をそこに感じるのだろうか。知識や経験、推測が視覚を裏付けている――いや、音も、肌触りも何もかも。同じかも知れない。


「そもそも、見えていても何なのかわからないこともある。昨日、アレイナが見取り図を書いていただろう?」


「イルさんの万年筆で書いていたやつだよね。あれはイルさんにも見えるから」


「見えるが……見えるものが、全てわかるわけではない。明暗が線に、線が輪郭に、輪郭が形に、形が意味になるには認知の働きが必要だ」


 フェムの見せる、薄ぼんやりとした空の明暗の境目が、地平線なのだと、今の俺は知っている。

 それに比べれば、セミルの魔素の存在感はずっと確かだ。本当に? それも思い込みではないとどうしてわかる?

 俺たちは、如何なる知覚をもってしても、間接的にしか世界を観測できないのではないか。


 一瞬、考えが逸れたが、俺に哲学の素養はない。あくまで知り得る現実を現実とした話をする。



「迷宮を出て少しずつ慣れたが、地図などは今でも見ながら指でなぞった方が理解が容易い。むしろ、文字の習得に問題がなかったのが不思議なくらいだ」


 この感覚も、セミルにどれほど伝わっているのか不確かだ。言葉も、どこか間接的で。けれど、無意味ではないと経験的に知っている。


 欄干に立てかけていたフェムを手元に戻す。フェムにはこの景色がどう見えているのだろうか。

 登りかけた日差しが浅く広く降り注いでいる。この感じなら、昼になれば暑いくらいになるだろう。



「もしかしてさ、管理者としての都合じゃないかな」


「都合?」


「うん。僕が思うに、イルさんは管理者になるだけの能力はあるけど、何ていうんだろう……教育されなかった感じ? 勝てるわけないって言ってたけど、なんとかなったわけだよね」


 あり得るかもな。文字に関しては。戦闘に関しては――正直ダメだろう。セミルの持つ管理者のイメージはやたら武闘派らしいが大方、迷宮譚の影響だ。物語のチート野郎とは異なり、俺には戦闘向けの能力もなければ、鍛えることにもあまり興味がない。


 ――そんな、肉食獣みたいな牙をして、肉を食べるのが苦手なのかい? 猟師にそう問われたのが思い起こされる。


 迷宮譚のかの有名な管理者は、枝以外は殆ど人間と変わらない見た目だったと伝わっている。一方で俺は、甲殻もツノもどう見ても魔物だ。戦える身体だとは思うのだが、身体と心は必ずしも一致しないし、させる必要もない。



 ゴリラと交差した、あの一瞬。

 俺は泥臭く、必死だった。


 考えれば考えるほど、ゴリラはアレイナを守るために動いたとしか思えない。アレイナがいたから、ゴリラは俺の攻撃を逸らさずに受けるほかなかった。


 それを負けた理由にせず、俺を認めたゴリラの性格に救われただけだ。



「なんとかなったが、二度目はないな……」



 地平線、いや水平線だろうか。境界を超えて登ってゆく陽は、ほんの数分の間にも位置を変えている。


 何よりも強大な力を放つこの存在は、空に無数にある星と同じ特性を持つ。こんなにもこの理は宇宙にありふれているのに、天の星の魔素を持つ生物には、まだ出会ったことがない。


 俺の見る景色の中では、太陽の光は世界を照らしはしない。星は時を問わず輝き、朝日と共に昇る。これも全て、地上に出て知ったことだ。


 眩しさはない。だが、照らされる感覚はわかる。欄干に身体を預け、温かさと心地よさに俺は目を閉じた。


 すぐ横で、セミルの明瞭な声が響く。



「詳しくはアレイナさんが来たら聞くだろうけど、イルさんを見てれば上手くいったんだなって聞かなくてもわかるな。繋がるってどういう感じ?」


「ああ。説明は難しいが、悪くない。自分に関わるものが増えるのは面倒だと思っていたし、今でも思っているが……何か、そうではなかった。不思議だ」


 フェムの見せる、明暗に意識を傾ける。距離感と言われると怪しいが、重なり広がり感じられるものが少しずつ変わりつつある。それは確かだ。


「遠いということがわかった気がした、この感覚に、少し似ているかもしれない。繋がりというよりは、広がり、だろうか」


「わかったような、わからないような。でも、確かに、悪くはなさそう。んっ? 何かあった?」



 急に向こうに注意を向けた俺に、セミルが目ざとく気づいて問う。なんだアレは。ああ、フェムが光らせているのか。唐突すぎて驚いた。フェムが自発的に視界に干渉することは滅多にない。一体、何があるのか俺が聞きたい。


 欄干の向こうに腕を伸ばし、輝くそれを指差した。


「フェムが、あの辺を光らせている。何があるんだ?」


「何って、カラフの街……あっ、海か。夏だもんなぁ。フェムちゃん、海に行きたいんじゃ」


 海? セミルは昨日も海に行った方がいいとかなんとか言っていたか。海……海か。



「フェム、海に行きたいのか?」



 ん……肯定というかこれは、浮かれた感じだ。すでに行ったつもりなのではないか。


 釣りならともかく、海で遊ぶなら水着を着ると聞いた。それが不安なのだ。裸は楽だが、人前で脱ぐのは気が引ける。



「短い夏なんだ。悩んでいると冬になる。落ち着いたら行こうよ。アレイナさんとゴリラさんも誘ってさ。……イルさんって水に浮く? ま、浮かなくても問題ないか」


 無責任に言いながらセミルは軽快に物干し台を降りて行った。随分と乗り気に見える。


 全く。俺をなんだと思っているんだ。俺だって水に浮くくらいはできる。村の温泉で、人のいない時を狙って泳いでみたら浮いたから間違いない。


 海か。まぁ、フェムが望むなら行ってみてもいいかもしれない。








 まだ何かするには早すぎる時間。俺は宿の周りを少し散歩することにした。


 ばら亭の周囲は昼でもさほど騒がしくはない。早朝ともなれば、なおのことだ。すれ違う人間の一人もなく、静けさの中を歩いていると、止まった街の特別な空間を占有しているような奇妙な充実感さえある。


 元々誰もいない、山や野とは別の感触だ。


 二区画ほど歩くと、景気の良い声が響いてきた。独特の匂いが漂っている。近づけば、魔素の残る活きの良い生き物がごろごろと並べられていた。魚屋じゃないか。こんな時間からやっているのか。


 魚は好きだが、魚屋は俺の天敵だ。いや、魚屋が俺の魔枝を狙っているわけではないのだが……


 魚屋を遠目に観察していると、ガラガラと音を立てて後ろから何かが近づいてきた。引き返すかと振り返った途端、フェムがそれに当たり、金属質な音を立てる。



「おおっと、わり。おはようさん」


 当然、知らない人間の声だ。台車の上にはよくわからない生き物が積まれている。魚ではない。魔臓があるし、微妙に動いているので植物ではなく動物のようだ。


「こいつはナマコ。んん? おめさ――」


 ナマコ――これまでに見たことのない類いの生物だ。海にはこんなのがわんさかいるのだろうか。興味が湧いたが魚屋とはあまり関わりたくない。何かを言いかけた相手に会釈だけして、通り過ぎようとする。



「待で。なして逃げる。従魔の兄ちゃん、ばら亭の客だべ?」


 馴染みのある響き、浜訛りだ。村は山の中にあったが、浜訛りの人間はそこそこ出入りしていた。自分で浜訛りを話すことはないが、理解に問題はない。


 それにしても、なぜ知られているんだ。目立つのはぶっちゃけもう仕方ないが、殆ど出歩いてはいないのに。かといって、無視するのも面倒な噂になりそうだし、クソッ、面倒だな。



「……だとして、何か?」


「この魔枝だ。見間違いねェ。たんだでも従魔なんて珍しンだ。あー、礼がしたくてな」


 やっぱり魔枝絡みか。


「礼だと? 何の話だ」


「ばら亭のばあさんが季節外れの魔枝ばウチにお裾分けつって持ってきたっけさぁ、あったら立派な枝は魚屋の俺でも初めて見たべ。ヨシ、こごさ待ってれ!」



 返事をするまでもなく、魚屋の男はガラガラと台車を押して店内に入って行った。何なんだ一体。


 まぁ、話は見えた。この調子では、この辺りでの俺は美味しい魔枝をくれた兄ちゃん扱いかもしれん。何か、納得がいかない。怖がられるよりはマシだが……


 男はすぐに戻ってきた。



「ほい! イシュミルで揚がったばっかの最高のイカだ。持って帰って朝飯にしてもらえばよかべ。ばあさんにも宜しくな!」


「……ああ。ありがとう?」



 戸惑う俺の手の中には、結構な重みのある包みが残されていた。








「と、いうわけで、イカをもらったのだ」



 散歩から戻った俺は、水撒きをしていたセミルにイカの包みを渡し、顛末を話した。セミルはあの後も変わらず、植物に声をかけているようだ。少し安心する。


「ごめん。ばぁちゃんには、後で一言いっとく。もう遅いかもしれないけど。刺身でいいよね」


「あー、いや……なんかもう別にいいかなとなった。迷惑もしていない。イカ貰ったし。刺身以外はないな。イカ刺しなら毎日でも食いたい」


 あの後、別の人間にも声をかけられたのだが、何というか思っていたよりもずっと、どうということもない反応なのだ。セミルの祖母が何を言ったのかは知らないが、少なくとも俺にとって悪いことではないだろう。


 アレだ。ポジティブシンキング。ハルディア語で言えば、楽観的思考だ。イカ貰ったし。



 飯までまだ時間がある。客とは言え、何もしないのも気まずいものだ。


「何か手伝おう。氷でも作るか?」


「助かるよ。というか、頼もうと思ってた。冷凍庫があっても、氷はなかなか時間がかかるんだ」


 冷凍庫は元々、氷で冷やしていたものだ。最新の冷凍庫は電気でも冷やされてはいるが、基本は変わらない。隙間があるなら、氷をぶち込んでおいた方が効率がいい。


 水道を捻り、氷を作る器に水を注ぐ。そこに何回か術をかけて、完全に凍らせてから器にあける。何度も繰り返すと、冷凍箱を埋めるくらいの氷ができた。


 術は苦手だが、魔力は腐るほどある。瞬発性を求められない用途であれば、回数をかければどうとでもなる。


 山盛りの氷を前に、満足感に浸る。



「イルさん、魚屋に就職したら? 魚屋は常に氷属性を募集してるよ。あそこ、死ぬほど氷使うから」


「……どうしても、就職できなければ考えてみる」


「えーー。適職だと思うんだけどなぁ。魚の活きなら魔眼でもわかりそうだし、イルさん魚好きだし」



 セミルは本当に惜しそうに言う。いや、ダメだろ。魚を食べるのは好きだが売るのは関係ない。それに、春になったら自分の魔枝を売るのか? 自分のものでなくても遠慮したい。大体、俺に客商売は務まる気がしない。


 就職の事を考えると面倒この上ないが、飯を食いながらセミルとクソみたいな言い合いをしていると、次第に気も紛れてゆくのだった。








 セミルが片付けに忙しくなったタイミングを見計らって、部屋に戻り作業を始める。



「……っ」



 注意深く、包帯を剥がす。痛みにはかなり強いつもりだったが、声が漏れる。


 癒着を防ぎ組織の再生を早めるために、湿潤状態を保つ被覆剤を使っていたにも関わらず、死んだ塊がそれに引っ張られて剥がれ落ちた。


 独特の、不快な匂いが立ちこめる。


 薬剤は、図書館に行った帰りに買ったものだ。傷の手当てなど、今までしたこともない。放っておけば治ったからだ。地上に出たあの日、村人と衝突して俺は少なくない怪我を負ったが、それでさえこれ程にはかからなかった。


 肘の関節はかなり動くようになったが、まだ指は難しい。感覚は薄らと戻ってきている。それを確かめるよう、左手でいくぶんか負傷の浅い辺りを慎重に触れてみる。


 引きつれた皮膚の一部が硬い。


 何もかも初めてで、不安よりも驚きの方が大きい。完全に元通りに戻るわけではなさそうだ。まぁ、なるようになるか。


 洗浄し、再び被覆剤と包帯で覆う。セミルには二日もあればと言ったが、すでに二日経っている。完治まで、あと数日か。正直、わからなくなってきた。



(……完治?)



 完治とはどの状態を言うのか。俺はこれまで百年以上、これといって肉体に変化がなかった。完治というのは元通りになることで、それ以上は考えたこともない。


 改めて考えてみると、変化が安定したなら完治な気がする。必ずしも、元通りになることではないだろう。



「……傷が、残りそうだ」



 未知の確信を声に出してみると、俺の中で生まれていた感情がよりはっきりとした。



 ――どうやら俺は、傷が残ることが嬉しいらしい。



 セミルに伝えたら、どんな顔をされるのだろうな。まぁ、俺に他人の顔は見えないのだが。言葉の綾というやつだ。


 手当を終えた俺は自嘲しつつ、窓の外を眺めた。そろそろ、アレイナが来てもおかしくない。


 傷も、アレイナの件も、面倒ではあるが――嫌ではない。それ以上に日々の変化に期待を抱かせる。リスクよりも面白さが上回る。


 予測どおり、通りの向こうに見えたアレイナに気づいて、俺はその期待をより確かなものにした。

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