カラフィサールへ

 ニナとたわいもない話を交わしていると、プラットフォームに響く鐘が発車を告げた。出立の時間だ。



「じゃ、行くか」



 村には数年は戻らないだろう。二度と戻らないかもしれない。この一日は長かったが、ニナと俺は今日だけの付き合いだ。彼女にとっては単なる仕事なのだから。


 だから、別れは軽く。


 ――ずっと昔からニナは俺を見ていたし、仕事以上の言葉をもらった。


 けれど、別れは軽く。


 列車に乗り込み振り返ると、手を振っているのだろうニナが見えて。

 フェムの見せるものに慣れるのも、そう悪くはないと思う。



 汽笛が響き、ゆっくりと汽車は加速してゆく。

 そうして俺は、この地を離れた。








 線路は海沿いをなぞるように続く。初めて見る海は、ただひたすらに滑らかで広かった。

 海と陸の境界には様々な色の煌めきが複雑な曲線を描き、水のたてる音と共に揺らめいている。進行方向の彼方まで続くそれが、波なのだと気づくまでに少しの時間が必要だった。


 無数の生き物たちがいるのだろう。煌めきの複雑さに想像を巡らせる。

 波打ち際から離れるほど魔素の輝きは疎らになってゆくが、魔素が水の厚さに遮られているのだと、そう物理と認知がひとたび繋がれば、そこには水の存在と透明感を認識できる。


 そうして再び海を見れば、それは初めに見た時よりも存在感を持って、鮮やかに広がっていた。


 フェムを呼べば、今まで見えていたものに加えて、薄らと明暗が重ねられる。未だ慣れない情報に重さを感じて、俺は目を細めた。



「お隣、宜しいかしら」



 通路側から、艶かしい声がした。チラリと見て花のようだと感じた。可愛らしさはカケラもなく、妖艶で香り高い花だ。


 特に断る理由もない。どうぞ、とだけ答える。


 花の女はふわりと隣に座った。気づけば駅をいくつか過ぎ、席も混み合っている。なるほど、そうでもなければ俺の隣などわざわざ選ばないだろう。


 窓の外を見て、彼女とは視線を合わせないように努める。話すこともない。相手も無言だ。このまま何もなく終点までやり過ごす。


 そう思い立ったものの、香水なのだろうか、花の香りはどうにも落ち着かない。軽い頭痛さえ感じる。視界の縁で、紫色の魔素が螺旋を巻いてはらりはらりと舞うのが見える。


 何か、不自然だ。

 まずい。


 紫の光跡がすうっと女の腕を走った。



「……フェム!」



 フェムを媒介にして、座席の間にごく薄い氷を貼る。瞬間、パン!と弾ける音がした。女が触れたのだ。やはりか、この女、スリか何かか。



「あら……」


 花の女は、ただ軽く驚いたように声を漏らす。それも演技だろう。


 砕けた氷は薄く、溶けて跡も残らない。驚く女に向き直り、全身に魔素を巡らせて睨んだ。ほんの秒の間。女の魔素の巡りが乱れ、震え、萎縮する。恐怖の感情が及ぼす身体反応だ。

 もう興味はない。そのまま何も無かったように女から顔を背け、流れる風景を再び眺めた。




 全てハッタリだった。


 術は――苦手だ。水は汽車に乗り込む前に売店で買った、瓶入りの鉱泉水だ。まぁまぁ旨い。混じり気のない物質は扱いやすく、その中でも特に水はマシな方だ。それでも空気中の水分を集めて氷にするなんていうのは俺には不可能だ。


 素の発動では、瓶の中で水をそのまま凍らせるだけだ。空中に水を広げるためにフェムの助けを借りた。フェムは俺のやりたいことを多少汲み取ってくれる。そこまでやって、あの薄さだ。


 魔素を巡らせて睨んだのもそうだ。要するに身体強化をかけてガンをつけると威圧の効果がある。

 もっとも、相手の魔力が強過ぎたり、慣れている相手にはそこまでは効かない。まぁ、俺は魔力だけは多い。大抵の人間に威圧が通じるが、例外もある。女がそういう手合いでなくて助かった。


 疲れた。ひたすら窓の外を見て知らないふりだ。どうせ終点までいく、最悪でも一緒に降りる。疲れる。早く着いてくれ。頼む。あと何駅だ。








 あれから、花の女は大人しくしていた。


 冷静になると色々とおかしい。従魔にスリを働くのはリスキーだし、スリをやるなら人混みなど、もっと適した機会があったはずだ。


 氷が割れたのも、網棚の上の荷物を取ろうとしただけとか、ニナのように俺のツノが気になって気になって仕方ないので触ろうとしたとか、そういう可能性もあると気づいたが、深く考えないことにした。


 俺の心は勝手に乱れっぱなしだったが、特に何も起きずに汽車は目的地であるカラフィサールに到着する。親しみを込めてカラフとも呼ばれるとか。名前は忘れたが、二つの大きな川がもたらした肥沃な扇状地に発展した街だ。


 人口五十万人。先日まで人口五百人の村に住んでいた俺にとっては一気に千倍だ。正直想像もつかない。


 駅というものについては先生とニナのお陰で予習できている。人々の光と足音に揉まれるように歩いていれば、改札までは迷うことが無さそうだ。


 不気味なほど、特に何も起きていない。からかわれたり、絡まれたりもしない。無言で指を指されている可能性はあるが、想像しても過剰に卑屈になるだけだ。


 従魔の認知度が高いのか、これだけ人がうじゃうじゃいれば単に目立たないのか、都会の人間の距離感やことなかれ主義というやつなのか、ニナと話したように人間は魔物に対して思いの外おおらかなのか。多分、全てだろう。


 俺だって、特に理由もなく知らない奴に絡みたくない。人の光の波に揺すられて、かつての記憶が水底へ影を映す。


 もういい。今の俺は、現実を満喫している。邪魔をするな。俺は壊れた記憶を押しやって、ニナとの会話を思い起こした。



 ――多分難しく考えすぎですね。



 同感だ。だが、百年と少し引きこもりをやっていたので、拗らせ気味なのは許して欲しい。

 人の群れに混ざっていると、どうにも悪い方に思考が走りがちで良くない。








 そして今、俺は階段ではまっていた。慣れない人混み、初めて歩く場所。フェムの見せる像に集中しすぎて悪酔いしてしまったのだ。


 一旦フェムを消し、眉間に手を当てて、壁に背を任せる。ふう、と深呼吸して周囲の音に耳を澄ませた。



 見えることと分かることは異なる。


 物理的な振る舞いによって、刺激は感覚器に投射される。その時点では刺激に意味はない。音であれば媒体の粗密がなす波であり、視覚であれば様々な波長の光だ。俺の場合は魔素だが。


 物理的な刺激を意味あるものにしている認知は、脳の働きだ。


 俺たちは、外界の構造や物理法則について、いくつもの前提を体得している。例えば、手前にあるもので遮られれば後ろにあるものは見えなくなるだとか、遠くにあるものは小さい刺激になるだとか、自分が動けば網膜上の像も動くだとか、そういうことだ。

 そのような様々な仮定に頼りながら、認知のシステムは得られた刺激を意味あるものにする。


 もし、物理的な法則が全く異なる外界に置かれたならば、俺たち――この世界の知覚ある生物の認知は、まともに使えるものにならないだろう。暫くそこで暮らせば、新たな法則を得て脳が慣れるかもしれないが。



 ――脳が慣れる。認知をより外界に即したシステムとして仕上げる。


 まさに、いま俺はその過程にある。


 フェムはそこにあるものを俺に伝えてくるが、あくまで刺激であり、認知レベルに介入してくるわけではない。そして、フェムによる刺激の処理は、俺の中で洗練された認知にまで仕上がっていない。


 俺には既に魔素が見えているので、そっちの方の処理系でフェムの刺激も処理すれば、すぐに完成度の高い認知となるような気がするのだが、そう上手くはいかないらしい。


 フェムが伝えてくる刺激は、ぼんやりとした明暗だ。距離感はあまりなく全てが漠然と離れて感じる。細かいものは見えない。初めは何かがあるとも感じられず、目の前が暗いか明るいかだけだったから、十五年かけてこれでもかなりマシになった。


 認知と外界とが十分に噛み合っていない、とでも言えばいいのか。フェムはとても頼れるが、一方でこのチグハグさは俺を疲れさせる。ニナには安心させるために奥の手なんて言ったがこのザマだ。



 階下を行き交う人々は魔素の光をこぼしている。その距離感は手の届く範囲から先はかなり大雑把だ。一応の大きさの恒常性はあり、魔素の発生源が人など見慣れたものであれば、遠いか近いかは判断できる。当然、階段を上り下りする人々がいれば、魔素も見えるので大凡の空間は認識できる。階段の形状は足裏や杖で触れれば感じ取れる。


 ぶっちゃけ、フェムをただの杖として使うなら何の迷いも無く降りられる。だが――



 フェムが杖になって十五年。彼女が俺に見せたいものがやっと見えかけている。それに、このカラフィサールの街で一人で生きて行くのなら、フェムの力は必要だ。


 何より、フェムが俺に世界を見せることを望んでいる。フェムに世界を見せられるのは俺だけなのだ。



 ……というかそもそも、だ。

 情報は使い方だ。



「……フェム」



 小声でフェムを呼び戻す。足元にフェムの先で触れる。一段の幅は30センチ、高さは15センチ程度。そして先を見る。

 フェムの見せる像は、認識がグダグダだが段数の予測はつく。しゃがみ込んで、慎重に階段と思われる明暗の数を追う。かなり怪しいが14段。次に踊り場だろう隙間があり、そこからは判然としない。人の動きや足音から見るに、恐らく同じパターンが3セットあり、中間に踊り場があるという形だ。踊り場の幅は適当に1メートルとする。


 計算が合っているなら、奥行き15メートル近くで高低差は6.3メートル。


 いちど目を閉じて、その空間を想像する。そうして再び目を開ければ、元々見えていた階下を行き交う人々の光も、確かにそのくらいの距離に思えた。視覚と体性感覚と空間の結びつきが強化され軽い酔いをもたらすが、同時に見えるものがより確かな実感を伴う。気がした。多分。


 あとは簡単だ。身体強化をかけて、奥行き15メートル高低差6.3メートルを飛び降りる。


 風が通り過ぎ、一瞬のうちに足は地に届いた。



(……これでよし)



 改札まで人の流れに紛れる。


 別に計算しなくても光を頼りに飛び降りれた気がするし、飛び降りなくても歩いて降りれたし、奥行き15メートル高低差6.3メートルを正確に想像できる距離感覚が俺にあるとは限らないし、飛び降りたらそれこそ目立ってしまったのではないかと今更気づいたし、そもそも駅の階段を飛び降りてはいけない気がするが。


 まぁ、細かいことはどうでもいい。


 無力感から、いつもと違うことができる気になってみたかった、早くここを通り過ぎたかった、それだけだ。

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