迷宮を出る、人の街で暮らす

八軒

一章 一人じゃない

*百年の過去より

 夏至の頃。


 ひこばえの桂の巨木が、幹を天に向かって吹き上げる。日盛りを過ぎてもまだ陽は高く、林冠から差し込む光は山道にまだらの明暗を落としては揺らす。風が梢をふるわせて、幾重にも広がる春蝉の声に、青葉の騒めきを溶かしてゆく。


 緑に染められた小径に、黒い人影が一つ。全身を覆い隠す外套は、ここ十年余りで出回り始めた合成繊維で織られ、機能的かつ軽い。事実、その歩みには僅かな気怠さも無かったが、この季節には少しばかりか異様であった。森の底の薄暗さと目深に被ったフードに遮られて、人相も定かではない。


 鉱山が閉鎖されて久しく、通る者も少なくなった山道は辛うじて道としての機能を留めている。尾根の側をつづらに辿り急峻さを増す小径は、桂の巨木をぐるりと回り込み坂上へと続く。その上を太くうねった根がいくつも横切り、人が登るには些か乱暴過ぎる天然の階段を作り上げていた。


 一段の高さは腰ほどか。外套の人影は二本の蹄で地をしかと捉え、一息に巨木の根本まで駆け上がった。


 まだ背の低い木々の緑が垂れ込める先、山肌に覗く坑口は一面の蔦に覆われている。蔦を掻き分けた向こうには、周囲の荒廃に比べれば整った坑道が続いていた。

 荒い岩肌には落盤を防ぐ支保もなく、坑内通気がなければ濁るはずの空気も、奥に進むにつれ静謐ささえ湛えている。



 ――この坑道はかつては迷宮だった。


 中世とも呼ばれる大迷宮時代。人類は数々の迷宮を踏破した。迷宮攻略を契機として発展した技術が攻略をより効率的にする、その勢いは留まることを知らなかった。


 迷宮の誕生と死は、大海に島が生まれるよりも穏やかな時の流れにある。この星の年齢に比べれば人類の歴史などいかほどか。結果、無限の資源とも思われた迷宮が死に尽くすまでに、人類は五百年も要しなかった。


 死んだ迷宮は鉱脈となる――

 ここはそんなありふれた迷宮跡の一つである。



 曲がり角の先から、ノミを打ち付ける音が響き、外套の人影は足を止めた。余程の物好きだろうか。この坑道で人と遭遇するのは暫くぶりになる。


 外套には魔素の拡散を防ぐ認識阻害の効果があるが、良くて暗闇に紛れるのを多少手助けする程度。相手が灯りを持っているのならあまり意味はない。

 何もしないよりはマシか。そう考えて、魔素操作でさらに気配を希薄にし、可能な限り蹄の音を立てぬよう角の奥を覗いた。見えたのは知っている人間だ。


 警戒を解き道を進むと、ノミを打つ男に声をかける。



「なんだ、カリルか。珍しい。輝石目当てか?」


「っうあ、驚かすなや。足音でイルだろうとは思っていたけどさ。そうそう、これ見な」


 カリルと呼ばれた男は、親指の先ほどの小さな輝石をつまみ、カンテラの光で透かしてみせた。まぶゆきに目を細め、満足げに口角を上げる。


 石を傾けると飴色の光の中、複雑なファイアが気まぐれに踊った。屈折率と分散度だけでは説明できないその光の振る舞いは、良質な迷宮産の輝石に見られる特徴だ。



「……綺麗だろ。そろそろ下の子が生まれるんだ。この山の石で御守りを作ってやりたい」


「ああ。確かに、ここの色だ。質もいい。まだ、あるものだな」


 そう答えたイルに、輝石の中で踊る光は見えてはいない。イルが捉えているのは、淡く瑠璃色に輝く魔素だ。けれど、そこに宿る美しさを二人で共有できたことは、カンテラに照らされたイルの口元からも確かだった。



「もう一つか二つ、もらっていっていいかい? 見つかったらだけどさ」


「別に三つでも四つでも。俺に許可を取る必要はない。ここも何れ迷宮連の管理になる。採るなら今のうちだ」


「ホントの意味での迷宮の管理者が、それを言うのかよ。イルに思う所はねぇの?」



 村の人間は、イルをこの迷宮の管理者だと言う。既に死んだ迷宮は、今はもうイルを縛ることはないとしても。


 近世では戦争の火種ともなった迷宮。僅かに残る迷宮は、大戦後に設立された迷宮連――国際迷宮連合により厳格に管理されている。近代化の波の中にあっては、迷宮跡にさえ国や迷宮連の手は及んでゆく。


 思う所はないのか。若干の苛立ちさえ含んだカリルの問いに、イルは平静に答えた。



「無いと言えば嘘になるが、俺が望んだことだ。企業に買われて、跡形も無くなるよりはずっといい。迷宮連の管理は、俺も安易には立ち入れないほど厳重になるはずだ」


「そりゃ、誰も入れねぇよ……」



 カリルはもう一度カンテラを持ち上げて、輝石を灯りで透かした。

 瞬間、イルのフードの奥まで光が届く。暗い灰色の肌、首までを覆う黒く滑らかな甲殻。琥珀の瞳に僅かに伏せられた銀の睫毛。浮かぶ表情は、冷然さと穏やかさの隙間で揺れている。


 訪れた無言の間が煩わしくなり、ほとんど呟きのままカリルは溢した。



「そっか。ふるさとがダムの下に沈む、みてぇな結末よりは。そうだよな」


「それに、人もふるさとを出るものだろう? 未登録の魔物である俺が、この辺境の村を出ることができるのなら、だが」


「……それはさぁ。イルの魔物ジョークはタチが悪りぃ」

 


 苦笑いするカリルに軽く手を振り、イルは坑道の更に奥へと向かった。






 鍵を差し込み、立ち入り禁止区域へのゲートを開ける。通い慣れた道だ。灯りは必要なかった。もっとも、イルにとって灯りはあっても無くても同じだった。


 幾つかのゲートを通り、更に先へ。決して人が訪れることのない暗闇は、ただ二人だけの帰還を待っていた。



「フェム――」



 その名を呼ぶと、手の中に細く長い杖が顕現する。


 イルはフェムを片手に最後の段差を軽く飛び降りた。長い外套が空気をはらんでふわりと舞う。フードの端がたなびき金属質な髪が覗くが、それを照らすものはここには無い。蹄の先が地に触れ、広い空間に一度だけ音が響く。


 迷宮跡の最奥。

 行き止まりの壁に、イルはそっと触れた。


 他の壁よりもずっと滑らかなそこには、幾つもの短い横線が繰り返している。十本ずつの塊が十二回。

 最後の列がきっちり十本で埋まっているのを確かめると、指先に魔素を集め迷いなく岩壁を抉った。強化された爪と壁面の間で火花が散り、百二十一本目の横線が壁面に刻まれる。


 目を閉じて、幾許か。記憶を呼び覚ます。精霊たちから言葉を、色を知り。夏至が来るたび、しるしを刻んだ。


 声にせず呼びかけた者たちは、もうここにはいない。



「――俺もフェムも、このとおり元気だ」



 見上げれば、薄青に光る粒子がそこかしこから漏れ出ている。迷宮が生きていた頃の残滓。無秩序にも見える光の海から、いくつかの流れを見い出して追ってゆく。


 光を辿り、流れの源流を掘り起こせば、青白く光る魔石がイルの掌に転がり落ちた。



 ああ、これだけは変わらない――



 我慢ならず、採れたての魔石に歯をたてる。

 身体強化をかけた牙が魔石を噛み砕くと、程よい旨味が口の中に溢れ出し、濃厚な充足感が体内を満たしていった。








 腹を満たしたイルが坑道を出れば、空ではねぐらへと帰る烏が声を交わし合っていた。時間をかけ過ぎたことを知り、道を急ぐ。


 村の外れ、鍵を戻すべく管理小屋に辿り着くと、何かが隣の家の庭先にいるのが見えた。警戒するものの、すぐに良く知る光の色だと気づく。村の女、ニナだ。



「イルさん、こんばんは。先生がお呼びですよ」



 ニナの明るい声にイルは一瞬足を止めた。ニナは週に一度、この家に来て掃除や買い出しの手伝いをしている。ちょうど仕事を終え、戻るところだったのだろう。


 イルは無言で頷き、そのまま女とすれ違う。玄関をくぐり、先へと急いだ。

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