転機

「一ヶ月後、か……」



 ようやく言葉に出来たのは、それだけだった。


 机を挟んで向かい合う老人は、古びた椅子に重々しく腰を下ろし、暫し無言になった。茶で喉を潤すと一つ長く息を吐く。


 硬い音を立ててカップが置かれ、芳香が部屋に立ち込めた。この部屋で共に幾度も味わったハーブティーの馴染みの香りも、今だけは気持ちを落ち着かせるのに大して役立ちそうもない。



「そうだ。昼に調査員から報告があった。引き渡しは一ヶ月後。住民が使う輝石や魔石の採掘場所を残してほしいという要望も、多少は飲んでくれるそうだ」


 それなら、カリルに三人目の子が生まれても、御守りを作ることができる。浅い階層でもまだまだ輝石が残るのは、辺境の迷宮跡ゆえの幸運だ。


 だが、迷宮連の管理ともなれば。俺でさえ今のように立ち入ることは出来なくなる――あの奥底には。わかっていたはずだ。



「村の皆と今日この日まで、見守ってきたのだ。ずっと、このままならと願ったこともある。だが、私の役目も、もう終わりだろう」


 今日まで続いた日々の終わり。その意味とは裏腹に、先生の声はどこか明るく晴れやかだ。


 薄々、いつかこの日が来ると気づいてはいた。それでも、このまま何となくこうして日々が続くものだと思っていた。きっと、俺はそれ以外の選択をろくに知らない故に。


 静寂が時間を水飴のように粘着かせて、ほんの少しの間を引き伸ばしてゆく。

 うつむき、目を逸らせば。伝えるべき言葉を押しやって、澱んだ思いが溢れ出る。



「俺がいなければ、もっと……」



 カリルに冗談を言えたくらいには、覚悟ができているつもりだった。それに迷宮跡が無くなる訳ではないのだ。自分が望んだことだ。なのにこの有様はどうだろう。いざその日が訪れると知って、これほど言いようのない不安に駆られるとは。


 迷いを散らすように、揺れる意思を支えるように、机の天板に触れる。馴染んだ感触。使い込まれた一枚板のその縁の丸みに指を添え、がっしりとした厚みを確かめると、寄り添うものを失いつつある心に少しだけ冷静さが戻ってくる。


 恐る恐る顔を上げると、見慣れた暖かい色の光は、俺の言葉を否定してふるふると揺れていた。



「そうではない、イル。なにより私が、望んだのだ。やっと、おまえにこれを――」



 軽く金属が触れ合う音がして、天板に何かが置かれた。それは僅かに魔素を放ち、薄靄の中でぼんやりとその形を示している。


 手に取れば、鎖で繋がれた二枚の金属板だとわかった。表面に刻まれているのは文字だろうか。指先に魔素を集め、軽く集中する。金属板の表面をなぞると、強化された感覚がそこにある文字を読み取った。



「……従魔登録、2970、10966、号」



 従魔登録標。人に使役されている魔物であることを証明するタグだ。


 初めの四桁は新歴2970年、今年だ。次の五桁は通し番号に思える。一年分の、ではない。迷宮連ができた戦後からか。一万と少し。多いようで世界中に散らばっていると思えば少ないのか。このうちどれだけ今の世に生きているのか。たった五つの数字に幾つもの疑問が巡る。

 下の行には小さな文字が刻まれているが、自分の感覚では読み取ることができない。地域か何か、そんな所だろう。


 二枚目のタグには少し大きめの文字。内容は短い。



「特別許可 二種 特級……」


「おまえと出会って十五年だ。十五年、かかったのだ。それは紛れもなく、イル、おまえの行いと在り方が認められた証だよ」



 何度も確かめる。

 間違いない。確かにそこには特級とある。


 現実になるとは、信じてもいなかった。

 心の奥底では、望んでいたとしても。


 二種特級。

 二種。人間と変わらない知性があると認められた従魔の区分。

 特級。それは、人間と同等の権利があることを示している。



「そんな、ことが。いや……」


「有り得るんだよ。イル。私はね、おまえの見つけてくる石が好きだった。好きになってしまったんだ。


 白状しなければならない。おまえを見つけたあの日、これは金になる、そんな算段さえ私にはあった。そうしないでおまえを隠し、ここに留めたのは、研究者としての興味でしかなかった。


 だがな、すぐに気づいたのだ――」



 机の上で透き通った青白い輝きが覆い隠されるたび、そこから漏れ出る光が揺れる。光の輪郭を繋ぎ合わせれば、老人の太く骨張った指の形が浮かび上がった。二枚貝のように合わせた手の中で、優しく石を撫でているのだと光は伝えてくる。



「本物だった。おまえの見つけた石も、イル、おまえ自身もだ。下手な嘘はつけないなと、見守るうちにどうしてか、そんな思いばかり重ねられるのだ」


 老人の声は低く、柔らかく続く。


「私は、取り返したかった。後悔に追われるように、文字を教え知識を与え、仕事に対して正しい評価をして、おまえを一人の人間として……

 罪悪感を覚える程度に私が汚い人間だからだ。私は自分を正当化するために、おまえの立場の弱さを利用した、そう思ってくれてもかまわない」



 初めて聞く吐露だった。


 俺にとって先生は、いつも厳しく少し不器用な老人だった。不器用なのは自分も言えたものではないが。


 一気に吐き出されたものを落ち着かせるように、再び静寂が空間を埋めてゆく。


 俺には人の表情が見えない。声色からそれを読み取れるほど人の機微に敏感で詳しいわけでもない。故に人間には敵意があると構えてしまう認知の歪みがあるのを自覚している。

 けれど、今伝えられた思いは歪なようで真っ直ぐで、可哀想だからという傲慢さは僅かにも感じられなかった。


 おそらくそれが、十五年かけて先生から与えられたものなのだろう。それがあるから、俺は。ああ、そうか。



「管理人、いえ……ウルザ先生、俺はあなたを信頼、しているから。先生に裏表があっても、汚い所があっても。それでいい。それに俺も汚い。

 とっくに、出会った頃から気づいていたはずです。俺は先生の優しさを、自分の弱さと無知を利用していた……その日、その日を生きるために」



 肩に触れた指先から、微かな震えが伝わってくる。続く言葉は、自分でも信じられないほど自然に溢れた。



「先生、ありがとうございました」



 ただ、深く頭を下げた。それ以上は声にならなかった。



「私からも礼を言おう。ありがとう、イル。本当ならそんなものが無くともおまえが自由に生きられたらどれだけ良いか……イルと出会えてこの十五年、穏やかで素晴らしい日々だった。学ばされていたのは私の方かも知れん」


 先生の声はひたすらに優しい。過去を懐かしんでいるのだろうか。これからを願っているのだろうか。



「さぁ、血脈登録しておきなさい。それはもうおまえのものなのだから」


 右手の指から爪に魔素を満たし、身体強化をかける。続けて、手首を掻き切った。どくどくと滲んだ血が雫となる。


「ず、随分豪快にいくな。一滴で良いのだよ」


「すぐに塞がりますから」



 二枚の金属板に血が落ちる。そこから表面を走査するように青白い線がちりちりと音をたてながら走ってゆく。板の全体に光が行き渡ると、最後に大きく輝いた。手に取って触れてみれば、最早僅かな濡れも感じられない。


 そのまま少し舐めてみる。鎖はミスリル、特別許可証の方には驚いたことにアダマンタイトが含まれているようだ。今が満腹でなければ噛んでしまったかもしれない。


 アダマンタイトは希少な金属だ。偽造を防ぐためだろうが、これ自体を鋳つぶされたり盗まれたらどうするのだろう。まぁ、そうならないための血脈登録か。舌の上で何度も味わいながらそう納得する。


 まさかのアダマンタイトに驚きを通り越して、若干の呆れを浮かべている俺を先生が嗜めた。



「イル、あまり人前でそういうことをするものではないよ……」


「ここには、先生と俺しかいないからな」



 しばらくぶりに、俺たちは笑いあった。

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