対ゴリラ対策会議

 アレイナが先輩と呼ぶ――名前、忘れたな。後でもう一度聞くとする。とりあえずは、ゴリラでいいか。ゴリラはカラフィサール騎士団に所属する、28歳の男性だ。


 いわゆる、魔物混ざりだ。


 アレイナにとっては、慣れない土地に越して来た時の、近所のお兄さんだったようだ。高校生らしい一時の恋の病で、よくよく先輩を観察していたら、その異常性に気づいたという。恋の病は俺にはわからんが、こそこそと男の家を覗いたり、後をつけるアレイナが何故か容易に想像できてしまった。


 騎士団は簡単に入隊できるものではない。アレイナがどのような動機で騎士団を志したのかは、まぁ、わからんな。恋とかなんとか――そういうもので目指せるものではない気がする。


 使える術は、人間風に言えば強化属性。魔素が干渉できる範囲は自分の体内に限られるが、通常の身体強化と重ねがけして肉体を強化できる。身体強化では大きな変化がない、回復力や感染症への抵抗力、反射速度を高められる者もいる。


 見た目の派手さは全く無いが、外部の環境に影響されないという意味で手堅く、極めて戦闘向きの特性だ。術の使い方も生得的に知っている傾向が強く、人間よりも魔物や魔獣に多い特性でもある。


 正直、俺と特性が逆であったなら、楽だっただろうに。世の中は上手く噛み合わない。



 俺の万年筆を使ってアレイナが描いた間取り図を再確認する。線を指でなぞりながら空間を思い描いた。間取りといっても一部屋で、家具もベッドと机くらいしかない。最小限の持ち物しかない生活様式に親近感が湧く。部屋は一階建ての長屋の一室、この季節なら窓を開けている可能性も高い。


 アレイナはセミルから借りた潮汐表を見ている。潮汐表とは潮の満ち引きの時間と月齢などが書かれた小冊子だ。このあたりの人間は釣りをよくするので、大抵の一般家庭にはあるらしい。



「夜を待ちましょう。今夜は新月、加えて先輩は、家は帰って寝るだけなので電気を取っていません。カーテンを引き、灯りになるものがあれば私が消します。暗闇になれば、視覚の面ではイルさんが有利です。私の術についても、情報を共有します」


 アレイナの彼女の指先がテーブルに触れ、術を行使した。俺の特性と若干似ているが、もっとマクロな作用を及ぼすものに見える。



「私の術は……、イルさん、テーブルを叩いてみてください」


 言われてテーブルを叩いてみるも、音がしない。なるほど。


「大体わかった。触れている物体の振動や伝播の抑制か」


「そうです。対象は固体で、身体のどこかが触れている必要がありますし、範囲もそこまで広くはありません。幼い頃は氷属性のなりそこないだと思っていたのですが、これはこれで使いようがあります。お米に絵を描いたり、スピードソーイングや射撃が得意です」



 頷いて理解を示す。アレイナは、属性の弊害に影響されず、運良く自分の特性を活かせたのだろう。音の発生を潰せるのは地味に使い所が多そうだ。あまり表向きではない仕事で役立ちそうでもあるが。


「銃については詳しくないが……連射をしても精度を維持しやすく、音も小さくできる、という感じか」


「はい。ですが、ハルディアでは銃器の扱いが非常に厳しく、騎士団でも平時であれば訓練や任務でしか所持できません。魔獣との戦闘でも、本人の術によっては近接戦闘を選択する者もいます。先輩もそうです。当然、今回の私たちも銃は使用できません」


 ハルディアは、諸外国よりも銃器の扱いが厳しいとは聞く。反面、身体強化は程度の差はあれ、使えない者を探すほうが難しい。子供でも魔力比べをするような、魔国の中でも特に術寄りの国なのだ。身体強化に優れていれば、実質的な近接戦闘の間合いは広がる。つまり、銃が有利になるには、より距離が必要になる。


 行使者から遠距離に影響を及ぼせる魔素の特性は珍しく、狙撃であれば銃の優位性は揺るがない。同時にそれは、発射された弾に術を維持するのは難しいということでもある。猟師にも銃を扱う免許を持つ者は多いが、この土地の熊を倒すには、極めて強力な弾丸が必要だ。


 いずれにせよ、この国では、銃は一般人には縁遠いものだ。あまり触れることのない銃器の話題に真剣に耳を傾けていたセミルが、もう一つの謎について尋ねる。



「お米に絵……は置いといて、スピードソーイングって?」


「ハルディア語で言えば、高速裁縫です」


「高速裁縫とは?」



 思わず、解答に疑問で返してしまう。ガサガサと例の袋を開く音がして、アレイナが何かを取り出した。


 後から聞いたが、カナリー屋というのはここから近くにある、4階建てにみっちり手芸用品が並んでいる専門店らしい。



「これは、普通の布と針と糸です。身体強化と術を使うので、イルさんにも見えると思います。では、いきます」


 アレイナの両手に小麦色の魔素が走る。ところどころ、色を変えるそれは、手の形をよく伝えている。アレイナがふっと息を吐くなり、目で捉えるのもやっとの速さで、指先が寸分の狂いもなく、同じ軌跡を繰り返し描いた。全く、生物らしくない動きだ。彼女の体幹、腕、全てが一体となって精密な機械に思えた。


 その間、ほんの10秒だろうか。アレイナが手を止めて、布を手渡してくる。



「どうでしょうか?」


「ヤバすぎ! やべーー。イルさんの魔素制御もヤバいと思ったけど、こっちはこっちでヤバい。人間の動きじゃない!」


 指先で縫い目を辿ると、緻密な繰り返しが30センチ以上は続いている。これは……


「魔素制御の訓練が足りないという発言は撤回しよう。……人間にしてはやるな」


「ありがとうございます。イルさんに認められるのは、かなり自慢ができますね」


 アレイナの声に嬉しさが滲んでいる。こんな時だが、彼女の自信に繋がる機会を無駄にすることもあるまい。たかが裁縫とは、とてもではないが言えん。これは、相当の修練がなければ不可能な技術だ。しかも、アレイナはまだ若い。伸びるのはこれからなのだ。



「イルさんのその、人間にしてはやるなって、悔し紛れ? 魔物ジョーク?」


「……悔し紛れ3、魔物ジョーク3、本音4くらいか」


 俺とセミルのやりとりを聞いて、アレイナが小さく笑う。多少の悔しさがあったのは認めざるを得ない。

 正直、俺には技術らしい技術がない。俺にあるのは、目で見ての魔素制御と、魔力の多さによるゴリ押しだけだ。面倒だが、俺もなにか修練するべきか。



「銃を使えないのであれば、私の術は戦闘向きではありません。私にできるのは、侵入時の消音と、灯りを消して回るくらいでしょう」


 見取り図に、アレイナが周囲の家を描き加えた。その一箇所をぐるぐると指で示す。


「縁側は隣の家の庭に向いており、周囲は家や木々に遮られ、街灯からは死角です。この家はお年寄りの一人暮らし、長屋の土地との境界は曖昧で、草木が生い茂っています。途中まである塀も、鉄線花の蔓で覆われています。長屋の正面側とは異なり、ここには砂利が敷かれていません。砂利ですと、イルさんの足音を消すのが難しくなります。ですので、正面ではなく、隣の家の裏庭から入るのが最善かと」


「そうだな。その感じなら、アレイナより俺の方が視界を確保できそうだ。俺に灯りは必要ない。というより、照らしても見えないものは見えないのだが……」


「道路までは私がイルさんを誘導して、ここからはイルさんが私を誘導するのが良さそうです。消音のためには触れている必要がありますし。生物には干渉できませんので、衣服のたてる音を消すくらいですけども。草を踏む音は、ある程度は自然音に紛れます。重要なのは、自然にない音をたてないことです」


 魔枝が鳴る音を出さないように、庭を通る間は畳んでおくか。そもそも、枝を畳めるのは、服を着るためではなく不意打ちのためだ。多分。

 アレイナとは能力的に、二人三脚というわけだ。それなら、こちらから灯りで照らす必要はない。一つ疑問が湧いたので聞いてみる。



「床の方に術をかければ、俺の足音もかなり消せるのではないか?」


「そうですね。靴を履いている状態では自分ひとりが精一杯ですが、室内で裸足であれば周囲二メートル程なら。なので、私は靴を脱いで先輩の部屋に入ります。位置関係によっては先輩の足音も消えてしまいますが、問題ありませんか?」


「強化ゴリラが、身体強化も術も無しで戦うとは思えん。問題ない。最悪でも魔臓は見えるしな」


「強化ゴリラ……言い得て妙です。肝試しに行った時の反応からすると、先輩は暗視は得意ではなさそうでした。ゴリラは夜行性ではなかったはずです。暗くなるまでまだ時間がありますから、先程のイルさんの服のことでも」



 手持ち無沙汰なのも辛いのだろう。アレイナはすぐに作業を始めた。手を動かしながら、とつとつと語る。


「……イシュミルの駅でイルさんを見かけた時から、先輩の言動に強い違和感を覚えました。イルさんを見て、残念だ、と。イルさんのことを枝無しだと誤解していたので、だからでしょう。自由意志がある強い魔物と殺し合いがしたい、そう口走っていましたし。先輩が魔物混ざりであることに気づいているのを匂わせるのに、それとなくカマをかけてみましたが、普通に流されて」



 俺を見た時からだと?

 俺に自由意志はあるが、強くはない……ああだから、残念だと。



「今朝、様子を見に行くと、鍵も開けてもらえず、郵便受けに耳をつけると、唸るような声だけがして……

 あろうことか、私はその場から逃げ出してしまったのです。その足で、私は気がついた時にはカナリー屋にいました。カナリー屋に用事があった。そういうことにすれば、ここに来る言い訳ができる。今考えれば、支離滅裂ですが、そんな思考回路だったように思います」


「あーー。わかる。そういうの。行きにくくて、何か別の理由をこじつけてしまうんだ。やらないといけないことがある時に、他のことをしたり。もしかして、駅でイルさんを追いかけたときから、そうだったんじゃない?」


 アレイナの事情を知ってからも、俺にその視点はなかった。この手の、心理に関する話は俺の苦手分野だ。利き手に徹する。アレイナの手元で、布を切る鋏が、しゃりしゃりと独特の音をたてた。


「……そうかも、しれません。イルさんが困っていたら助けようという気持ちは当然ありました。ですが、もっと根本的なところで、この機会を逃してはならない、そんな衝動があったことを否定はできません。イルさんのことを枝無しだと思っていましたから、ただ話を聞くだけでもと」


「それで、ここに来たら、イルさんは六本枝を氷を浮かべたタライの中に入れて、ぐるぐるとかき回してる。アレイナさん、タライをめっちゃガン見してたからね……」



 アレイナは、今日ここで会った時点では口にしなかったが、俺が管理者かもしれないという算段はあったのだろうな。まぁ、そのくらいのしたたかさは欲しいところだ。結局、管理者かどうかは今回の手段に関係ないが。

 もし、初めから俺を管理者と見て、取引ではなく懇願をされていたら、俺は全く取り合わなかっただろう。


 フェムを個として扱ったのもかなり点数が高い。あの無駄な時間があったから、今、この縁に及んでいる。


 全ては階段を飛び降りた時からか。

 不思議なものだ。

 炭酸水を少し凍らせ、口に含む。

 二人の会話が途切れたのを見計らい、話すべきことを切り出した。



「状態を聞くに、戦闘になる可能性は高い。仮に向こうに戦闘の意思がなくとも、こちらから仕掛けるつもりだ。殺し合いは勘弁したいが、やる気があるのは枝を喰わせるのに都合がいい」


 薄く笑いを浮かべつつ皮肉混じりに言えば、そんな俺を好戦的と受け取ったのか、不安げにアレイナが返す。


「都合がいい、のですか? 難しいでしょうけれど、穏便に食べさせられるなら、その方がよさそうですが……」


「食事にこっそり混ぜるとか? でも、それだと効果がないんじゃないかな。魔獣を制御しようとして失敗した事故が海外であったよね」



 あれか……セミルのいう事故に俺も覚えがあった。五年ほど前か。色を変えた枝を作らせる方法が、枝持ちの俺にはかなりぞっとしないやり方で、この話を聞いた夜には想像力が暴走して眠れなかったものだ。


 思い出して身震いしそうになる。気を紛らわせようと、セミルがパリパリと菓子を口に入れるのに釣られ、芋をくるくると薄くして揚げたものを摘んだ。特に好みというほどでもないが、炭酸水に合う。食べて飲んでと交互に繰り返すと、結構いける気がしてきた。



「イルさん、それ美味しい?」


「まあまあ。炭酸水があると旨く感じる。アレイナの言う通り、戦わないで済むのが最善だ。だが、それでは枝の繋がりは得られない。魔枝工場は……この話はやめよう。ま、まぁ、そういうことだな」


 手が止まらず、もう一枚と菓子に手を伸ばした。セミルの指先と衝突する。取らせん。


「何がまあまあ、だよ。めちゃくちゃ食い意地張ってるし」


「……とにかく、枝を最高の条件で喰わせるには、力で圧倒し、わからせる必要がある。その上で認められなければ、繋がりは得られない」


 俺たちが毎度のノリになりかけても、アレイナはじっと考え込んでいるように見えた。余裕の無さにも感じられるのは、魔素の巡りのせいか。小麦色の流れを眺めつつ、アレイナの言葉を待つ。



「同意が必要ということでしょうか。同意というか、納得? 先輩がイルさんと戦いたがっていたのは確かです。嫌々戦うより納得もしやすい。そういう話ならわかります」



 そう、納得だ。


 魔獣を納得させるには力が最も手っ取り早く有効だ。ゴリラが戦闘を望んでいるのに加え、その状態を考えると、他の手段で納得を引き出せるか自信がない。


 俺は頷いて続けた。


「理性では戦わずして納得させる方向を模索すべきと思うが、本能的には一戦交えるのが最適解だという感覚がある。

 だが、俺は……喧嘩はからっきしだ。殴り合いの一つさえしたことがない。管理者ってのはインドア派なんだ」


「そこは管理者を名乗るんだ……迷宮譚に出てくる管理者はめちゃくちゃ強かったけど?」


「百年迷宮跡で食っちゃ寝していたからな。その間に大戦は終わっていたし、その後も平和な世だ、いつ戦闘訓練なんてするんだ。それに、セミルの言うそれは、どうせ十一本枝とかいうチート野郎だろうが。ともかく、相手はその平和な時代に戦闘訓練を積んでいる専門家だ。しかも、術は自己強化のガチガチのゴリラだ。加えて、今の俺は利き腕が殆ど使えん。まともにやって、勝てる見込みはない」



 自分で言っていて辛くなってくるが、全て事実なので仕方がない。いくらでも勝てない理由が出てきてしまう。相手が悪すぎる、相手が。


 脚を組み換え、ため息を一つつく。



「……唯一の勝ち筋は、威圧だ。何か隙を作れるのなら、魔力差でごり押せる。俺の本気の威圧に耐えられるほど精神的に強靭だと、成す術がないが……アレイナ、先輩の恥ずかしい過去話や、苦手なものを知らないか?」


「えっ? そういう、方向性ですか? 先輩の苦手なもの……思いつくのは、きゅうりくらいしか。きゅうりでは戦えませんよね」


 アレイナは意表を突かれていたが、俺は大真面目だ。心底呆れたというふうにセミルが言う。


「恥ずかしい過去話で煽って、力で圧倒判定になるわけ?」


「言葉で煽れるなら、威圧を通す隙を作るのにちょうどいい。不意打ちも上等だ。これは、試合や決闘ではない。魔獣同士の力比べだ」


 ふざけているわけではない。イルカイは恥ずかしい過去話で相手を攻撃しないが、唸りあったり、有利な地形に陣取ったり、新月の夜に仕掛けたではないか。そもそも、イルカイというのは古い言葉で新月のことだ。


「あー。魔力比べで、なんか言い合いながらやるのがお約束になってるのと同じか。あれも威圧だしね」


「そういうことだな」


「僕、語彙がなくてさ、小学校の時。うんこ! ちんちん! 言いながら魔力比べしてたな……」


「ガキなんて大体そんなものだろう。大人同士の魔力比べだと、下手に人格否定や差別発言をするわけにもいかん。言葉遊びのセンスが問われるというか」


 それで思いつくのが、恥ずかしい過去話になったのは仕方ない。俺は魔力比べ自体、あまりした事がないが、あの手の舌戦は苦手だ。


 俺とセミルのやりとりに、針を進めていたアレイナの手が止まる。



「私もなにか、戦力になれれば良いのですが……」


「アレイナには先行して侵入してもらうが、直接戦闘に加わらせるつもりはない。どうあっても威圧に巻き込むし、他者に頼った手段が有効か判断が難しい。ゴリラがリアリストならばあらゆる手段を使うべきだが、一方で魔獣の本能に訴えるには逆効果だ」


 気の抜けかけた炭酸水を凍らせながら、これまでに考えた手段を列挙する。


「例えば、アレイナが色仕掛けで誘うだとか、床にマキビシを敷き詰めるだとか、熊用の唐辛子液を大量噴射するとか、フェムを矢にして外から狙撃するというのも思いついたのだが、こういうのは多分、魔獣的感覚ではダメだ」


「はぁーーー。色仕掛けて。それは、人間的感覚でもどうなんだよ。地下室であのとき、一瞬でもイルさんをイルカイに重ねた僕を殴りたい。あー、イルさんこれ使いなよ、氷」


 セミルが俺に見えるよう、軽く身体強化をかけて、何かを差し出してきた。受け取ってみると長めのスプーンだ。気が利くな。


 スプーンで炭酸水だったものをグサグサする。これをやりながら凍らせるといい感じのかき氷になるのだ。



「……先輩に色仕掛けは通用しないと思います。攻撃手段については、多少の怪我をさせるのは仕方がありません。ですが、私たちは仕事柄、怪我を隠し通すのが困難です。医師が見て、刃物や銃器による傷害……元を辿られる傷を残すと、面倒なことになります。たとえ、善意からの戦闘であってもです」


 俺に人の表情は見えないが、アレイナの声が心なしか厳しい。かき氷を作るのを一旦やめ、アレイナに目を合わせて頷いた。当然だ。警察沙汰はまずい。武器……武器か。


 武器を使うのは、生理的に苦手だ。身体の動きが制限されるような違和感がつきまとう。フェムは俺と繋がっているので例外だが、聖剣であっても剣ではない。迷宮譚に出てくる魔物も滅多に武器を使わない。


「俺には武器の心得がない。下手に武器を使うなら、身体強化を活かして素手で戦った方がマシだ。魔物は大体そんなものだ。まぁ、殴り合いさえしたことがないのだがな」


「ダメすぎる。なんかもう、何やっても勝てそうになくない?」


「うむ……まぁ、俺は身体だけは頑丈だ。勝てなくとも、瞬殺されることはまずないのが一縷の望みか」



 会話が途切れ、アレイナが鋏を動かす音が室内に響いた。

 気まずい。



 ……正直、正解はわからない。


 ゴリラの中で、魔物の習性がどれほど残されていて、どのような作用を及ぼしているのか。そもそも、魔物混ざりに魔獣の理屈や枝の効果が通じるのか。


 枝を受け入れる納得が、何に依存するかだ。


 ゴリラの戦闘スタイルはかなりの近接寄りだ。ゴリラがロマンチストであるなら、格闘で負かすことはプラスになる。


 ゴリラがリアリストの視点で俺の仕事ぶりを判断するのなら、罠だろうがなんだろうが全てを使って最善を尽くすべきだ。下手に甘えた手段を取れば、俺の評価は地に落ちるだろう。


 魔獣の本能的な部分が納得に関わるならどうか。


 射撃や罠で倒されたとしても、魔獣は枝を受け入れないだろう。魔獣がロマンチストだからではない。魔獣にとって理解が難しい手段で力をふるう敵は、恐るべき上位者であっても、枝で繋がる仲間ではないからだ。

 枝は、恐怖や畏怖の対象ではなく、群れとなる同族を繋げるものだ。


 魔獣の習性と生き方にあやかるのならば。魔獣が取り得ない手段は使わないという選択は、一見非合理に見えて、最高の状態で枝を喰わせるという目的の為には有効に思える。

 それも、人間としての知識や知恵がでしゃばってくると逆効果になるのだが。


 ここからさらに条件がある。目的はゴリラへの迷宮の支配を断ち切ること。ゴリラの殺傷ではない。当然、警察沙汰もナシだ。


 幸い、殺すギリギリまでやらなければ枝の効果が出ない、という可能性は低い。


 枝を食わせるのは迷宮の支配に抵抗し、群れを作るため。その為の力比べで無秩序に死ぬようでは、群れの維持に影響が出る。力のある同族を殺さないのは、外敵が強い環境では合理性がある。


 もちろん、群れの負担になる個体を間引いたり血統の異なる子を殺したりすることは、新たな繁殖行為を推し進め群れの主の血統を維持するにおいて合理性がある。同族殺しは様々な生物で行われる。魔獣もそこは同じかもしれないが、俺とゴリラの間にそのような利害関係はない。


 群れの主を殺すことはどうか。


 これは通常の生物と魔獣とで異なるのではないか。通常の生物であれば、群れの主を殺せば成り代われる。


 魔獣の場合、主を殺しても成り代われるわけではない。ゼロから枝の繋がりを構築し直せば理屈の上では可能ではあるが、そんなことをしているうちに主を失った群れが迷宮の支配で荒ぶる危険性が高まってゆく。そうなれば、主殺しを行った魔獣も無事でいられるかはわからない。


 魔獣は群れに強い個体が複数いる場合、殺すよりは枝を与えて群れを分ける。魔獣にとって枝は血縁と同じかそれ以上につながりを持つものだから、自分の枝を与えた個体が別の群れを持って繁栄するのはリスク分散の上でも合理的なのだろう。


 生死をかけた戦闘を行う必要はないはずだ。ただ、それは俺がゴリラを殺さなくてよいという意味であって、俺の身の安全は最大限に考えなければならない。まぁ、そこは俺が魔物であることで、かなり担保されているのが救いだ。


 正解はわからない。


 そもそも徹底したリアリストなら、こんな不利な条件で戦闘を仕掛ける、判断力皆無な奴の枝は喰いたくないだろう。将来をドブに捨てるようなものだ。


 なら、ゴリラの家で煉炭でも炊くか、毒や罠にハメるか? と問われれば、これも難しい。魔獣の本能の影響やゴリラの性格によっては逆効果。手段によっては後遺症が残ったり、警察沙汰になる可能性も高くなる。アレイナへの心象もある。アレイナがそういう方向で面倒な人間だとは、あまり感じてはいないが。


 何も、今日やる必要はないのではないか。


 迷宮の支配が深まるリスクを天秤にかけながら、虎視眈々とゴリラが隙を見せる機会を狙うか? 俺の右腕が癒えるのを待つか?


 時間は無限ではない。俺も他にやりたいことがある。アレイナが切羽詰まっていた理由を考えろ。週が明けて月曜になれば、ゴリラが仮病を使うにも限度がある。それに、狂化したゴリラが事件でも起こせば、これはもう俺の腕の長さでは届かない問題になるのだ。


 だが……ダメだ。同じ考えを繰り返している。


 そもそも、そもそもだ。リアリストならアレイナの頼みを受けていない。ゴリラは他人だし、アレイナも全く知り合ったばかり。そんな条件で人助けなど、どんなお人好しでもそうそう受けるまい。ましてや俺が――


 俺は何と言った? そう、面白いと言った。それも何度も。どうにもならんバカだ。


 どうしようもない思考の円環に陥っていると、アレイナの呼びかけが聞こえ我に返った。



「とりあえず、一着できました」


「流石に早いな。見ても?」


「ええ、どうぞ。初めはスリットを入れようと考えたのですが、それだと着るのが大変そうですし、魔枝の付け根の鞘に高さがあるので。女性が着る、ホルターネックやオープンバックの形が理想だと思います。今回は既製品の改造で急ぎなので、こんな感じで……」



 引っ掛けるようにして着ていたシャツを脱いで、渡された方に着替える。女性の前で着替えるのはどうかと後から気づいたが、魔物である俺はその辺の色々がちょっと雑だ。アレイナも何も言って来ないので、問題ないだろう。


 ああ、これはいいな。



「……いい。天才か。ちゃんとした服が着れて、魔枝も出せる。すごい安心感だ」


 アレイナが俺の後ろにまわり、出来上がりを確認する。


「やっつけでしたが、問題なさそうです。前ではなく後ろで止める構造だともっと着やすいでしょうか。さっきまで着てらしたシャツのように、抜き襟で引っ掛けてるだけというのも、なかなか色気がありましたけど」


「あれは、ああでもしないと枝が出せないから仕方なく。本当はあまり肌……というか甲殻を人前で出したくない」


「背中は出していいわけ?」


「俺の感覚では魔枝は、きちっとしてる扱いだから、背中は出しているうちに入らない。むしろ、出している方が着込んでいる」


「意味わからねーー」



 まぁ、人間にはわかりにくい感覚だろう。だから服を買う時にも面倒で伝えなかったのだ。まさか暑さで倒れるとは思ってもいなかったが。しかし、これは落ち着くな。ああ。すごく、いい。


 アレイナが俺のまわりを一周する。



「私は、わかる気がします。枝持ちの魔物にとって、魔枝を出さないのは心もとなさを感じるのではと。初めに駅でお会いした時、お疲れだったのもあると思うのですが……今日はもっと、自信に満ちているといいましょうか。さきほどの色仕掛け云々はちょっとアレでしたが。


 ――地下室でのあの瞬間、私は本当にイルさんのことを高貴なお方だと思ったのです」



 その言葉に、苦笑が漏れた。

 だが、悪い気分ではない。


 何も端的な手段を取ることもないか。これは、魔獣のコミュニケーションだ。本気でやる遊びともいえる。


 並の人間なら、リスクを考えればあり得ない選択かもしれないが、俺はどんなに理性的であったとしても魔物だ。物理ゴリラ相手でも、数秒耐えるくらいはできる。遊ぶには丁度いい。ヤバくなったら逃げるが。


 そうだ、俺はバカでいい。ただし、死なない範囲で。案外、ゴリラの望みも遊ぶことなのかもしれん。



 それに、ようやく気づいたのだ。俺を突き動かす高鳴りの、この奥底にあるものは、アレイナやゴリラを助けたいという感情などではない。そんな親切心など、欠片もない。


 俺は、迷宮の支配というやつが心底気に食わない。支配に抗う者がいるのなら、俺はその者の意思を尊重する。

 何よりも、本能が疼くのだ。相応しい者に枝を与えたいと。


 本能を満たして、迷宮の邪魔もできる。こんなに楽しいことがあるだろうか。ああ、すごくいい。



「そうだな……自信が少し満ちて考えが変わった。部屋を暗くする以外の小細工はやめだ」

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