芋、炭酸、芋、炭酸

 ばら亭は南向きの通りに面した角地にある。一階のラウンジは南側と西側の二面を窓に囲まれ、採り入れた光はこの宿の主が愛でる植物たちへと十分に降り注ぐ。彼らは森林の空気で室内を満たして、数日ですっかりここに馴染んだ俺を、今も穏やかに囲んでいる。


 七月上旬。夏至ほどではないにしろ未だ陽は長い。完全に日が沈むのは二十時を過ぎる。


 まだ、十八時を迎えた頃か。漸く低くなり始めた陽が西側の窓から差し込んで、午前中は日陰となる、この奥のテーブルまで隈なく照らしていた。

 時計も陽の光も、俺には見えない。けれど、星の特性を持つ天体と肌に当たる熱の柔らかさが、時間の経過とこの空間に踊る光を教えてくれる。


 先程まで降っていた夕立も、まるで幻だったかのようだ。降るのが突然なら、去るのも早い。十分にも満たない間だった。それでも、外を覗けば雨に濡れた独特の香りが立ち込めて、西側から入り込む風を幾分か冷やしている。

 窓から見上げれば、弧を描いて空を横切る鳥の群れ。あの雑然とした感じは、おそらく鳩か。


 撮影した写真が出来上がるのは昼過ぎだった。乾燥やら何やらで時間がかかるらしい。

 時間を潰す術も思い付かず、以前セミルと訪れた公園――というより街の真ん中の通りが広場や庭園となっているそこに俺は赴いた。

 屋台で買ったポップコーンの魅力と俺の魔力の強さ、それに鳩の警戒心と食欲。それらが絡み合う微妙な力学の影響下で、鳩と俺の距離は絶え間なく変化する。そんな風に無為に過ごしていれば、思いの外時間は早く過ぎ去るものだ。


 職安に向かったのはそれからだ。だからして、旧ゴリラ宅に行くのは今日は諦め、ばら亭に戻って来たのもこんな時間だったのである。


 出窓から降りてテーブルにつき、手帳を広げる。二日目に書いた頁だ。



 ・市役所に行く

 ・転居届? 戸籍がどうなるか確認する

 ・住民台帳カードを手に入れる←重要

 ・口座を作る←住民台帳カードがあれば作れるはず

 ・住む場所を見つける←上に書いたものが必要

 ・仕事を見つける←上に(同上



 なんだかんだで、順調かもしれない。万年筆を走らせ上から順に横線で潰すと、一番下の行だけが残った。職安で登録はしたが、就職に繋がるかは今はなんとも言えない。

 それから、一行下に書き加える。



 ・生活に必要なものを買う



 明日は買い物だな。不安と期待に揺れる俺に、横からセミルの声がかかる。


「んー、疑ってるワケじゃないけどさ、本当に職安行ってきた?」


「……ああ」


 はなから疑ってるじゃないか。やましいことは何もない。何なんだ。セミルのじっとりとした視線を感じる。


「ちゃんと、人に聞いて出来た?」


「当然。窓口で履歴書を出して登録を頼むだけだ。何の問題がある」


「問題ありそうだから、聞いてるの。イルさん、人に話しかけるのにめちゃくちゃキョドってるの想像できまくりだし」


 くっ、それは、あまり否定できない。圧迫感に視線を逸らす。


「その反応。図星じゃないか」


「……ぅ」



 空気が張り詰める。瞬間、ほどけるようにセミルが笑った。続けて、テーブルにドンと皿が置かれる。立ち昇る熱気に空気が塊をなして動いて、ふわりとスパイスと油の香ばしさが流れてくる。


 俺は人間ほど頻繁に空腹を感じるわけではない。だが、その香りが潤滑油となる気がして、皿へと真っ先に手を伸ばした。



「ひとまず、お疲れ。芋のくるくる揚げと、紅茶の炭酸割り。イルさん、気に入ってたっしょ。って、もう食べてるし」


 強すぎない炭酸が、喉から体内へと流れ落ちて、澱みを洗い流してゆく。爽快感に身を任せ、大きく息を吐く。確かに、疲れたな。


 明日の事を考えつつ、俺は手帳を閉じた。

 芋と炭酸が口の滑りを良くする。今日一日を思い起こし、一つ話題を選んだ。



「大判の写真撮影に、5000グランもかかって若干驚いたのだが…… ああ、いや、仕事に払う対価としては納得している。ただ、どれだけの意味があるのかと疑問だった。初めは」


「……うん。初めは?」



 芋を掴んだ手をおしぼりでよくよく拭いてから、件の写真を取り出した。ディーは大判で撮影したあの写真を数枚余分に焼いてくれたのだ。


 印画紙も現像料もタダではない。店に展示するのは断ったが、自分の作品として手元に置きたいとベルに熱心に頼まれて、流石に俺も折れた。その礼という意味もあったのだろう。

 客に黙って取っておくこともできるだろうに、そうしないのは彼らの仕事人としての矜持か。信用の為か。


 いずれにせよ、あの店での短い時間で、彼らが個人的に所持する分には俺の写真を悪いようにはしないと――

 いや、少し違うな。信用と言うよりは、写真文化への理解か。彼らは技術者であり表現者だ。撮影を通じて、俺はそれを身体で感じた。そんな彼らの作品であるならと俺も納得したのだ。



「初めは正直、セミルに言われたからと渋々行った。写真など、どうせ俺には見えないしな」


 どうせ見えない――ともすれば、当てつけにも聞こえるだろう言葉を軽く放り投げれば、セミルも気にした様子もなく返す。


「イルさんなら、わざわざ嫌味には取らないだろうし、ディーとベルも上手くやってくれると思ってたからさ。どうだった? 実際は」


「実際は――」



 なかなか、難しい。どう、伝えたものか。


 テーブルに置かれた一枚を見る。印画紙は魔素を発さない。感触からしてパルプや樹脂で作られているのだろうが、数多くの薬品に晒されるせいか。原料の魔素はとっくに抜けている。



「不思議な、だがよくよく考えれば当たり前のことだ。写真を味わうのに、俺がそれを見える必要はない。写真に限らず言えることだが――」


 触れることでしか存在を確かめられないその縁を、指先で形取るようになぞった。紙が切られた時に生ずる僅かな凹凸と印画面の平滑さから表裏を確かめる。


「これは、記録であり、三人で織りなした表現だ。それを生み出したのが何だったのか。あの時の照明の熱を、張り巡らされたこの身を流れる心地よさを、歌うように響いたベルの声を、ディーが飲み込んだ息を――俺は覚えている」


 写真の表をセミルに向け、摘んで持ち上げる。確かめるように一息置けばセミルが頷き、続く無言は理解と受け止めた。


「表現であるならば、記録されて終わりではない。表現は他者の中に写されて、それぞれの数だけ認識と心象を作る。俺はそれを見て聞いて表現が及ぼしたものを知ることができる。つまり――」


「うん、つまり?」


「セミル、感想を言え。何でもいい。それがどんなものであれ、他者に何かを及ぼしたということ自体が味わい深いのだ」



 表現が何かを及ぼす――


 職安に行った時も同じだ。職員は写真を見てモデルか何かをやるのかと俺に問い、多少の驚きは見せても俺を腫れ物のように扱うことは無かった。

 写真が職員に与えた印象が、そうさせたのだ。俺がその手の仕事をするかは全く別だが。


 俺の手から写真を受け取りながら、セミルが言う。



「仰々しく言ってるけど、何か作ったりしたら反応が楽しいって事だよね」


「悪いか?」


「全然! それに、すげーカッコいい。写真の方」


 写真の方て。そこに映ってるのも俺なんだが? ツッコミを待たず、セミルが続ける。


「まず、白黒なのがいい。白黒の方が粒子がずっと細かいってのもあるんだろうけど、単純に絵として締まってるつーか……あと脚が長げぇーー」


「骨格的に、人間で言えば常につま先立ちしている状態だからな」


「うん。それもある。この下半身のシュッとした感じは足の速い草食獣っぽい。なのに全体の雰囲気は肉食獣ぽい。目を合わせると少しぞっとするけど、餌とさえ見られてないつーか。すごく、とっつきにくい雰囲気でさ」


 あまり、誉めてなくないか? いや、俺は誉められたいわけではなく、反応を味わいたいのだから、全く構わないのだが。


「とっつきにくい……」


「語彙がアレ。アレ……、そう、孤高! 孤高な感じ。近寄りがたい、でも見ていたくなる。魔枝もこんな、磨いた石みたいになるんだ」


「ベルがやたらと気に入って、魔枝を磨いていたな」


「あー、いかにもベルが好きそうだよね。この感じ、地下室でのイルさんを思い出すな。あの、俺がどんな存在かわかったかっ……ん?!、むごっ」


 思わず、言いかけたセミルの口に手刀を軽く当てて黙らせた。

 あれは演出だ。演技だ。改めて他人の口から聞くと、こそばゆいことこの上ない。



「ぶっは。なにすんだよ!」


「すまん、手が勝手に滑った」


「はぁーー。何、もしかして恥ずかしいの? こんなにカッコいいのに。写真の方は」


 セミルが写真を持つ手をひらひらさせると、青緑の魔素が踊るように零れ落ちた。何となく小馬鹿にした雰囲気だ。


 思わず芋をがっつく。塩と油が絡み合い癖になる旨味を、炭酸で流して言い返す。



「写真の方、写真の方て。それも俺だ。地下室での一幕は、半分はアレイナを納得させるための演技だ」


「もう半分は?」


「……枝で繋がると決めた時から、気持ちが昂っていた。少し酔っていたというか、言わせるな」


 あの昂りを人間に説明するのは面倒だ。俺自身不慣れで、あの時は酔っていることに気づいていなかった。

 理解した今でも、本能に抗うのは難しいと思える。


「もう言ってるし。でもさ、そんな演技ができるのもイルさんだからだよ。今ここで恥ずかしがって丸くなってるイルさんも、高貴な魔獣のイルさんも、もちろんこの写真のも。どれが本物とかではなくて……」


「言いたい事は、まぁ、わかる」



 本当の自分、なんていうのは言葉の綾に思える。誰にでも、勿論俺にも多面性は存在するし、そのどれもが自分なのだから。


 芋、炭酸、芋、炭酸。グラスを乱暴に置いて、この口のよく回る人間を見つめる。今朝そうしていたように、セミルは魔素を程よく巡らせている。セミル風に言えば、捗るのが楽しいからやっているのだろう。だから、やめさせる気もない。


 人間の機微に疎い俺が、セミルの裏表など考えても仕方ない。俺の知らないセミルがいたとしても、それも彼自身だ。


 俺に構うのも、親切心だけでなく彼にとって実利もあって当然だし、その方が健全なくらいだ。頼んでもいないのにくるくる揚げを出してきたのも。打算というよりは、もっと大雑把な――


 面と向かっていると言い辛くもあり、夕暮れの風に揺らぐ、草葉が滲ませる魔素の向こう。意識を逸らす。遠くから響くのは帰宅を急ぐ子供の声。すっかり雨の匂いも乾いて、魚を焼く香りに代わっている。近所の夕食を思い浮かべつつ、今は目ぼしいものも見つからない、霞んだ窓の外を眺めた。



「……セミルはさ」


「うん?」


「俺という珍しい生き物に関わって、捗らせるのが楽しいのか?」


 突然変わった話題に、セミルの手が止まる。けれど、答えはさほど待たずに小気味よく返ってきた。


「そうだね。楽しいし刺激がある。でも、積極的に行う人付き合いなんてみんなそんなもんじゃね?」


「……ふむ」


「人間相手でも魔物相手でも、おもしれー奴に関わるのは楽しいっしょ。あっ、この、おもしれー奴ってのは冗談が上手いとかそういう意味じゃなくてさ。ベルもディーも、僕にとってはおもしれー奴」


 俺にとってのセミルは。そう考えると、彼の言いたいことはわからないでもない。気兼ねしない人間というだけで十分に。


「そうか。その写真は、欲しいならやる。まだ、あるしな」


「おぉ、どんな心変わり? 大判で撮ってこの大きさはちょっと勿体無いから、引き伸ばしも作りたいね」


 それをどこにどう飾るつもりなのか、そう問い正そうとした時、扉が開いて来客を告げた。ぴたりと俺たちのしょうもない会話が止まる。


 音はすれども、姿が見えない。

 セミルが立ち上がって客を迎えに行く。



「マヤさん! おかえり〜」

「ただいま、です。イルさんも!」


 ああ、マヤか。まだマヤの魔力は弱く、このラウンジに溢れる植物の魔素に紛れてしまうのだ。こちらに近づいてきて漸く、俺は彼女を見分けることができた。


 魔臓は――問題なさそうだ。



 マヤが写真をめざとく見つけ――セミルが見せたのかもしれないが――わぁと声をあげる。会話を弾ませる二人を横目に、俺は残りの芋をつつく作業に戻った。

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迷宮を出る、人の街で暮らす 八軒 @neko-nyan-nyan

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