タライに水

 慣れない街中をあれほど歩いたのだ。知らずに疲れていたのだろう。風呂から上がったあと、フェムにどうにかして東西南北を教えられないか試行錯誤していたら、また知らない間に寝落ちしていた。今度こそ、このふかふかの布団の中で寝ようと思っていたのに。気がつけば朝だ。


 思い出してみれば、今までは迷宮跡で寝ることも多かった。先生の家にも安心はあったが、それでもだ。あの鉱山の奥地が、俺にとっては最も安らぎを得られる場所だった。


 あまり、布団で寝る習慣がないかもしれない。まぁ、これから慣れればいいか。


 それにしても暑い。頭も重い。魔枝が暑さにやられてだらりとしている。服を着るのに枝を畳もうとしたが、全く言うことをきかない。どうしたものか。まだ他の客の気配はないし、多少ラフな格好でもいいか。


 開け放した窓際に立てかけておいたフェムを見れば、数羽のスズメが寄り添っている。全く。俺にはミリも寄ってこない癖に。スズメにフェムが感じ取れるのか、フェムがスズメを懐かせているのか。何れにしても、俺が近寄れば容易く壊れてしまう光景だ。



「……フェム」



 いくばくか眺めた後、フェムを一旦消して手元に呼び戻した。聖剣は、顕現を一度解除すれば、どれだけ離れていても呼び戻すことができる。聖剣を奪ったり盗んだりすることが無意味な理由だ。スズメどもに恨みはないが、フェムは渡さん。


 ……しかし暑い。ダイニングに行って、セミルにタライでも借りるとするか。








「おはよう、イルさ……それ、なに? 裾から引きずってるけど」


「おはよう、セミル。何って何だ」


「その、裾から出てるやつ! アホみたいに伸びてるけど、これ、魔枝か。なんかすげーダルそうにしてるし、合わないものでも食べた?」



 ああ。たしかに暑くてだるい。背中と言われて、セミルが何を言っているのかにようやく気づいた。だらしなく伸び切った魔枝は床につきそうな程に長い。


「そうそう、魔枝。俺、魔物だし」


「イルさんの魔物だしロジック、便利すぎない? 魔枝ってここまで伸びるもんなの……てか、どうやって服に入ってたんだ。ちょっと見てもいいかな?」


「その、服に入れてたらこうなった。好きにしていいからタライに水、頼む。飯は、いらない」


 正直、階下に降りるだけで、ふらふらになってしまった。暑さで頭が回っていなかったのか、思っているよりまずい。


「うわっ、あっつ! ヤバ、40℃近くありそう。魔枝を水に突っ込めばいいのかな」


「ああ。後は自分で冷やす。そこ、おいといて」


 魔枝に触れたセミルが熱さに驚いている。正直、俺も驚いている。

 置いてもらったタライの水を、少し凍らせる。こんなもんか。氷水に魔枝を浸からせると、冷えた感覚が背筋から全身に巡り、ようやく頭が回ってきた。こんなことになるとは。人間よりよほど暑さには耐えられるつもりだったのだが。


「イルさんの首から背中ってこうなってたんだ。いつも隠してたから見えなかったけど、こうしてみるとすごく魔物っぽい……」


「服を着てようがなかろうが、どうみても魔物だろう」


「服の効果を過小評価しすぎ。それをわかってたから、イルさんも村であの外套を着てたんじゃ?」


 外套を着ていた一番の理由は、威圧感を抑えるのに神経を使う魔素制御がいらないから、なのだが。今となっては当時より制御に慣れたし、それを今いうのも野暮というものか。

 首から下が物々しいのは自覚しているし。


 セミルが魔枝の一本を手にして、引っ張ったり持ち上げたりしている。何かこう、ツッコミたいのに、頭がまわらずされるがままだ。正直どうでもよくなってきた。



「んー、よく見ると魔獣の魔枝とそんなに作りは違わないね。魔枝にも色々あるけど、ひし形の甲殻が繋がってるタイプだ」


「この辺の魔獣の枝は大体この形だと思うが。そんなに枝を見る機会なんてあったのか?」


 村の周囲の魔獣は、猟師が狩ったり追い返したりしていた。様々な魔獣がセミルの目に触れる機会があったとは少々考えにくい。


「あー、違う違う。カラフじゃ時期になると魚屋に売ってるんだ」


「魔枝が?」


「そう。魔枝は春から初夏にかけての珍味だからね。各地から集まってくる。村じゃ山の幸って感じだったけど、東の方で採れる海の魔獣の枝もあるし、ここじゃ結構な高級食材なんだ」



 魔枝が食材とされているのは知っていたし、村の人間に与えたこともあるが。まさか魚屋に並ぶとは。酔った湯治客に魔枝を寄越せと絡まれたのを思い出して、なんとも複雑な気分だ。


 冷えてきた魔枝に触れる。セミルが言うように、俺の魔枝は手のひらより少し小さいくらいの、ひし形の甲殻が繋がっているものだ。



「肉屋でなくて魚屋なのか……」


「殻に入ってるから?」



 殻、なるほど。カニやエビの扱いなのか。


 魔枝は伸び過ぎると巡りが悪くなる。村の人間は、春に自発的に切り落とされた魔枝を拾ったり、罠で捕まえた魔獣から古い枝を切り落とす。殺さず山に返せば、次の年も魔枝が採れるというわけだ。人間にとっては山菜のようなものなのかもしれない。


 どうみても、俺の魔枝も伸び過ぎだ。面倒臭がっていたらもう夏。いい加減、切り落とすか。


 やるなら膝上くらいにしたい。見当をつけて、その辺りの節が緩くなるように動かす。これがどうにも何年繰り返しても苦手なのだ。小指を動かすと薬指も動いてしまうあの感じというか。


 右手はまだ使えない。身体強化まかせで片手で折る。んっ、と変な声が出そうになるのを耐えた。古い枝の節は感覚が鈍くなるのに加え、冷やしているため痛みはない。一本折ると、こんな感じだったなと思い出して、あとは早かった。左右三本ずつで六本ある魔枝を同じように短くする。


 気がつけば、台所から味噌の香りが漂っている。飯はいらないと伝えたのに、セミルは何か作っているようだ。まぁ本人の分かもしれないが。



「イルさんのそれ、熱中症みたいなものだと思うから。味噌汁だけでも飲んでおいたらどうかな。立派な魔枝を見たらちょっと自信が無くなってきたけど……魔物もたぶん、水分塩分取れば大丈夫。食欲が出たら何か作るよ」


「……助かる。そうする」


 置かれた器はウサク周辺の木材で作られたものなのだろう。使い込まれた感触があるにも関わらず、未だ魔素が残り、俺の目にもよく見える。手にしても磁器と異なり、中の熱さを伝えすぎることがない。木の器をほとんど使わない国もあると聞くが、優れた素材だと思える。


「少しだけ、冷ましてもいいか?」


「イルさんが食べやすい食べ方で。人間でも、熱い味噌汁が苦手な人はいる。冷ましたほうが味がはっきりするともいうし」


 飲みやすさのためか、大きな具は入っていない。若干の歯ごたえとぬめりのある、これは海藻だろうか。知らない味だが嫌ではない。


「……ここに来る途中で初めて海を見たが、磯の香りというのは昔から知っていた気がする。これは?」


「焼きマツモ。鉄分が豊富なんだ。ウサクは別にそこまで海から離れていなかったけど……イルさんは本当に村から全然出なかったんだな」


「まぁ、確かに」


「夏のうちに、海に行ってみてもいいかもしれないね」



 自分の分の食事を作り終えたセミルが、テーブルの向かいにつく。そこからも、焼いた魚の香りが漂っている。

 ウサクの人間は山の中にあっても海の幸を好む。通過点であったイシュミルの名産物も海の幸だった。ここ、カラフィサールもその例に漏れないのだろう。



「うわっ、これ。こんなに沢山、折っちゃっていいの?」


「ああ。古くなった魔枝は、巡りが悪くなる。それは煮るなり焼くなり好きにしていい。どうせ捨てるものだし」


「捨てるなんてとんでもない! 足が早いから冷蔵庫に入れてくる。うちは宿屋だから電気とってるけど、あとで氷作るの手伝ってもらえると助かるな」


 声を弾ませるセミルに少し引き気味になる。人間は魔物よりよほど悪食ではないか。それにしても、俺自身は海に行ったこともないのに、魚屋に並ばされるとは。




「しばらく部屋で休むから、掃除はいい。タライ、借りてく」



 俺だったものを大事そうに抱えていくセミルに告げて、ダイニングを後にした。








 部屋に戻り、ベッドの上で平べったくなった。この不調はどう考えても、服のせいだろう。村では認識阻害の外套を使っていた。中の服装など、どれだけだらしなくしていても気にする者はいない。


 魔枝は折りたたんで引っ込めることもできるが、俺にとっては不自然な状態だ。ましてや夏に長い時間、そうしていたことはない。


 人間の服は魔枝を出すようにはできていない。まぁ、ニナも服を選ぶのが楽しそうだったからな。あの袍という服はかなりタイトで枝を出す余裕が全くないが、ニナも気に入っていたし、俺も悪くないと思っている。


 服を手に取り悩む。適当に切るわけにもいかない。裁縫の覚えなど全くない。裸でいるのが一番楽だが、人間社会における大半の時と場所で、それは犯罪だ。



「にんげんは、めんどうだな。フェム。ふくは、だいじなんだ……」



 職を探しにいくべきだが、今日はあまり動きたくない。ぎりぎりまでだらしない格好で、ごろごろと転がる。そうして少しの間、昼寝を決め込むことにした。








「……イルさん? 起きてる?」



 セミルの声とドアを叩く音で目が覚めた。声に多少の緊迫感がある。何かあったのだろうか。

 ドアを開けると、セミルは一歩後ずさった。自分で呼んでおきながら、なんなんだその反応は。



「どうした?」


「うわっ。服! 着て!」


「あ、ああ。すまん。服、服……。にんげんは、めんどうだな……」



 殆ど裸で寝ていたことを失念していた。久しぶりに自然な状態で寝て、暑さにやられた感じはかなり回復している。犯罪にならない程度に楽に服を羽織ると、セミルの元へ戻った。



「で、どうした?」


「イルさん、裸で寝る派? 人間でもたまにいるけど。とりあえず、今はそれじゃない。ちょっと窓の外を見てほしい。閉店中の札を掛けているのに、さっきから怪しい女がいるんだ。この宿の中を窺ってる。今、ここにいる客はイルさんだけだ。何か、心当たりない?」


 怪しい女? カラフィサールには来たばかりだ。心当たりなどあるはずもない。


「どんな奴だ?」


「肩くらいの長さの金髪で、背は僕と同じか、ちょっと低いくらい。20代の女性に見える。服装は年齢相応な普通な感じ、かな。鳥のマークの、でかい紙袋を持ってる。近くのお店の見覚えのあるものだから、不審物ではなさそうだけど」



 ますますわからん。俺とは視覚が異なりすぎるのだ。わかった、と告げて窓の外を見に行く。ここは二階。目標物が人間であるなら、俺の目にもよく見えるだろう。


 外を覗くと確かにいる。そうして見えた、薄桃色と小麦色のグラデーションを描く、程よく鍛えられた魔素の流れは、見覚えのあるものだった。



「……あいつは。あの、階段飛び降り騎士!」

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