第40話

「悠華、同じ瞬間ときに死ぬことを……叶えたかった」



 ズブリ……



 妖魔が悠斗さんの手を飲み込んでいく。驚いた様子もなく、妖魔を見つめる悠斗さん。



 ズズ……

 ズブリ……



 不気味な音が響く中『もしかして』と悠斗さんは呟く。妖魔から引き抜かれた手、握られた一冊のノート。


「……やっぱり、思ったとおりだ」


 ページをめくりながら悠斗さんは微笑む。


「レシピをまとめたものだ。悠華はわかってたんだな、鹿波さんが話を聞ける状態じゃないってことが。悠華の代わりに鹿波さんに託す、受け取ってくれ」


 差し出されたノート、受け取りながら口を開いた。声が出ない……お礼を言わなきゃいけないのに。


「僕から託せるものは……そうだ、オカルト研究会。ひとりにして悪いけど、なんとか盛り上げてほしい」


 盛り上げるってどうやって?

 不思議なことも怖いことも詳しくないのに。サークル活動なんて、何をしていいかわからないよ。


「鹿波さんが思うままの場所にしていいから。ティーカップも紅茶の葉もそのまま置いてある。講義に疲れたらいつでも飲めばいい」


 今になって後悔する。オカルト研究会……何度でも顔を出して、ふたりのことちゃんとわかろうとしていれば。わかろうとしなかったのは、ふたりとの距離を遠く感じていたからだ。

 私を躊躇ためらわせた妖魔の存在、理由はそれだけじゃない。平凡な私が、お屋敷に住む人達に合うはずはない。そんな思い込みだけで……私は。


「待ッテテ悠斗、モウスグ悠華ノソバニ行ケルカラ」



 ゴボ……

 ゴボリ……



 妖魔が悠斗さんを飲み込んでいく。


 目を閉じた悠斗さん。

 穏やかに……微笑んで。


 死んでしまう、悠斗さんが。

 殺される。こんなにも優しい男性ひとが、私にも優しくしてくれた。


「……っ」


 声が出ない。

 なんだっていい、何かを言わなきゃいけないのに。

 恐怖は時に、悲鳴すら上げることを許さない。


「僕ガ死ンダラ一緒ニ行コウ。悠華ト未来ヲ待ツ場所ヘ。長イ時ノ中、僕ハ手ニ入レタンダ。願イヲ……叶エル力ヲ」

「願いを、叶える?」


 白夜さんが呟いた。

 私に向けられた白夜さんの目。


「愁夜サンガ持ッテイルノハナイフ、ソレト妖魔ヲ封ジル剣ノカケラ。使ウノハナイフダケデイイヨ? 力ヲ封ジラレル訳ニハイカナインダ」



 ゴボ……

 ゴボリ……



 妖魔の体が泡を吹く。

 その音に混じるのは、足音?


 見上げた空の金色。

 訪れた黄昏時。




 近づいた足音。

 私達を囲いだした数えきれない人影。

 白い髪と薄青色の肌、妖魔を見る赤く物憂げな目。


 オモイデサガシが現れた。

 思い出を探し、町を彷徨うこともなく。

 彼の家族は何処? こんなにいたら見つけることが出来ない。

 見えないはずの亡霊もの

 見えるのは妖魔がそばにいるから? それとも……蒼真君が私に見せようとして。


「簡単ダヨ。オモイデサガシガ見エルノハ、アズササンノ心ガ綺麗ダカラ」


 蒼真君の声が響く。

 私の心が綺麗だとは思えない。悠華さんや彩芽に比べたら……全然綺麗じゃないのに。


「愁夜サンヲ死ナセル訳ニハイカナイ。心臓ヲ返サナクチャ。僕ノ目ヲ切リ裂イテ……愁夜サンノ心臓ハ、目ノ中ニアルカラ」


 妖魔の目、それが鮮やかな光を放つ。やけに眩しいのは黄昏が照らすから?


「言われるまま動くのは滑稽だが」


 彼がポケットから取り出したのはナイフ。鋭利な切先を妖魔の目に近づけていく。


 彼が死なないのは心臓。

 奪われたものが、体に戻るから。



 ザク……



 裂かれた目から、溢れ出るどす黒い汁。生臭い匂いが私を包み込む。



 ズブリ……



 不気味な音と、彼の顔に浮かぶ痛みの色。彼の手がコートの上から胸元をなぞる。それが意味するのは……



「寂シイナァ、愁夜サンの鼓動ノ音ガ好キダッタ。離レテイテモ近クニイル、ソンナ気ガシテタンダ」



 ゴボ……

 ゴボリ……



 妖魔の体の中、作られていく人の形。

 どす黒いものが色味を帯びていく。私達と同じ肌の色、頭を覆っていく黒い髪。切り潰された片目、残された幼い目が彼を見上げている。

 何も着ていない上半身だけの体。

 蠢く妖魔の体。滲み出る汁が地面を這い、オモイデサガシへと近づいていく。

 蒼真君の顔が動く。見ているのは細い路地、立て看板の向こう。

 その先にいるのは高瀬さん。彼が戻るのを待っている。


「蒼波兄様がそばにいる。来てくれたこと……僕の代わりに、愁夜さんからお礼を言ってくれないかな」

「お前は動けるだろう、自分で言えばいい」

「駄目だよ」


 蒼真君は首を振った。


「蒼波兄様に会ったら蒼真として生きたくなる。僕は蒼波兄様との対話を終わらせた。答えは簡単なんだ。悠華と決めた夢物語の約束、いつかの未来を選んだこと。蒼波兄様と話せば、選んだ気持ちが揺らいでしまう。蒼波兄様の家族でいたいと……思っちゃうんだ」


 私に振り向いた蒼真君。

 潰れた目が痛々しい。


「楽しかったなぁ、自由な世界は。貫かれ、死ぬはずだった僕を妖魔が助けてくれたんだ。妖魔を受け入れなければ、外にある自由を知ることが出来なかった。僕は願いを叶える力を持っている。叶えられないのはひとつだけ」


 蒼真君は空を仰ぐ。

 残された目に、寂しげな光を宿らせて。


「蒼波兄様、愁夜さん。……一緒に大人になりたかった。歳を重ねて、大人としての自由を」


 妖魔の体から流れ続けるもの、それはオモイデサガシを黒く染めていく。



 ————。



 静けさの中、響きだしたものがある。


 歌声。

 古めかしく優しいメロディー。


「……瑠衣」


 呟いた彼の手から滑り落ちたナイフ。

 それは地面の上で乾いた音を立てた。


 妖魔の体から出たものがナイフを拾う。

 それは音を立てて這いずり、蒼真君が受け取ったナイフ。


「僕は知ってる、愁夜さんの優しさを」


 蒼真君は手を伸ばし、ナイフの切先を自身へと向けていく。


「だから僕が力を貸すんだ。愁夜さんは僕の手を握り、力を加えるだけでいい。妖魔を殺すのは愁夜さんじゃない……僕なんだよ」


 蒼真君が彼に向けた親しげな笑み。


 ————。


 響き続ける歌声。

 蒼真君を見つめたままの彼。


「さぁ、愁夜さん。僕を……妖魔を喰い殺せ」


 動かない彼の体。

 閉ざされた口と物憂げな目。


「待ってくれ、君」


 白夜さんが声を上げた。


「本当に叶えられるんですか? 僕の願いも……君の力で」

「叶うよ、僕の死と同時にね」

「霧島君、どうか叶えさせてほしい」


 白夜さんが彼の手を握る。

 彼と同じ顔に浮かぶ覚悟の色。


「僕は君の命になりたい。君と一緒に生きさせてほしいんです……霧島君」


 彼の顔に浮かぶ戸惑い。

 白夜さん……どうして、そんな願いを。


「家族の想いが作りだした僕。いつかは消えて、君達の思い出になると思っていた。……君の命になり、君と共に生きられるなら。君の中で僕は、彼女に恩返しが出来る。彼女を愛することが出来るんです。霧島君、叶えさせてください。僕の……願いを」


 彼が私を見た。

 瑠衣ちゃんの歌声が響く中、私達を包む沈黙。

 うなづくことも答えることも出来ない。


「僕の家族、もうひとりの……僕」


 彼の呟きと閉ざされた目。




「あずさ……僕はここで、最後の悪夢を見る」


 白夜さんに握られた手を、彼は蒼真君へと伸ばしていく。ナイフを持つ小さな手、硬く握りしめた。


「ありがとう、霧島君」


 白夜さんの声とナイフに込められた力。



 鋭利な刃が、蒼真君を貫いた。

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