第20話

 悠華さんに許された安らぎ。

 それは学校で過ごすひと時と悠斗さんのそばにいることだった。





『お兄様ったら、今日は私の番だったのに』

『僕としたことが。美味いものを飲ませたい、それだけで頭がいっぱいだったんだ』

『私のミルクティー、不味いって言いたいの?』

『違うよ、僕はただ悠華を喜ばせたくて』


 顔を見合わせ笑い合ったふたり。

 テーブルに並ぶふたつのティーカップ。窓の外に見える晴れた空。

 ふたりきりの部屋の中、クッキーに伸びた悠華さんの手。笑顔を奪ったのは袖口に見える痣。

 悠華さんにとって男は恐ろしい存在だった。

 脅しの言葉を日々繰り返される。体を撫でられ、抵抗すれば殴られた。


『父さんにやられたのか?』

『家に帰りたい。お揃いのセーターを編むって、ママと約束してたのに。私の未来は……あの男の』


 袖を抑え隠した痣。


『悠華のために……僕が出来ることは』

『そばにいてくれるじゃない。それだけで充分よ』

『だけど』

『随分と親しげだな』


 悠華さんを怯えさせた声。

 それは部屋を覗き見た男のものだった。


『親しいのは当然か、お前達は兄妹だからな。悠斗、血が繋がってないからと手を出そうと考えるなよ』

『ふざけるなっ‼︎ 父さんこそ』

『なんだ? 何が言いたい』

『父さんは悠華を』

『やめてっ……お兄様』


 悠華さんに止められ、悠斗さんは口を閉ざした。

 悠斗さんと会うことを禁じられてしまったら。

 男が笑ったのは悠華さんの不安を察したから?


『悠斗が声を荒げるとは。聞かなかったことにする、そうするかどうかは』


 悠華さんに向けられた目。

 唇を噛みながら席を立ち、部屋から出た悠華さん。ドアを閉めるなり、悠華さんの背を押した男の手。





 授業を終え校舎から出た悠華さん。校門の前に立つ召使い達。彼らを見て悠華さんは足を止めた。

 見張られる日々、それは男の存在と共に悠華さんを苦しめるものだった。


『悠華っ‼︎』


 召使い達をかきわけ、姿を現した悠斗さん。悠華さんと違う制服、乱れた息と顔を濡らす汗。


『悠華、迎えに来たよ』

『お兄様……どうして』

『お前達は先に戻れ‼︎ 悠華は僕が連れて帰る、文句はないだろう』


 顔を見合わせた召使い達。

 無言でうなづきあい背を向けた。悠華さんに駆け寄るなり笑いかけた悠斗さん。


『帰ろう、悠華。あいつらとは距離を置くんだ』


 肩を並べ歩きだした。悠斗さんを見上げる悠華さん、その顔に浮かぶ安堵の笑み。


『これからは毎日迎えに来るよ。決めたんだ、僕が出来ることをするって。登校も一緒に出来ればいいんだけどな。それと体を鍛える、強くなるためにね』

『そんな、無理をしないで』

『どんな無理でもするさ、悠華を守れるなら』


 悠斗さんが悠華さんの手を握る。『ねぇ』と悠華さんは問いかけた。


『何か……叶えたいことはある?』

『あるよ、悠華のそばにいること。ずっとだ』

『お兄様ったら、私のことばっかりね』


 クスクスと笑う悠華さん。照れたように頭を掻きながら、悠斗さんはまっすぐに悠華さんを見つめている。

 いいな、お互いを大切に想う繋がりって。


『叶えたいこと、悠華もあるんだろ?』

『私には……何も』

『嘘だな、僕に聞くってことは』

『絶対に叶わないもの。……それに』

『なんだ? 教えてくれよ』

『馬鹿げたことよ。願いどころか……呪いじみたこと』


 足を止めた悠華さん。

 振り向いた悠斗さんを見る悲しげな目。


『叶えたいなんて考えたくなかった。私がこうなったのはパパのせい。我慢してるのはパパとママのためよ。ふたりが酷い目に遭わないように……でも』


 震えだした悠華さんの体。

 鞄を持ち直した手が小刻みに揺れている。


『あの男に犯される未来。それをわかっててパパは私を売った。家から連れ出された日、私がどうなるかをママは教えようとしなかったの。それでも……パパとママを憎むのは絶対に嫌。せめて叶えたいって思うの、それがどんなに……愚かな願いでも』

『悠華……?』

『力が欲しい。あの男と私を見張る人達、彼らをこの世から消せる力。叶うなら……私の命と引き換えてでも』


 強い風がふたりを包む。

 この時、悠華さんは思ったんだ。このまま時が止まってしまえばいいと。そうすれば悠斗さんとだけ一緒にいられる。屋敷にも帰らず……自由のまま。


『悠華、一緒に叶えよう。絶対にだ』


 悠斗さんが見せた優しい笑み。


『悠華がいればいい、同じことを僕は願うよ。引き継がれた血はどうすることも出来ないけど。悠華といられるなら何もいらないんだ』

『お兄様、叶ったら私を』


 悠斗さんに歩み寄った悠華さん、可憐な顔が赤く染まっていく。


『私を……愛してくれる?』

『誰よりも。悠華は僕のものだ』


 互いを引き寄せた。

 強く、離れないように。


『幸せなんだ。悠華がいるだけで、僕の世界はこんなにも眩しい。母さんが出て行ってから、僕は闇に閉ざされたままだった』

『嫌いにならない? 愚かな願いに……執着する私を』

『ならないよ。悠華のすべてを愛していく』

『約束よ。私は……お兄様だけの』


 顔を寄せ微笑み合った。

 硬く繋がれた手。

 屋敷に向かい駆けだしていく。


 通り過ぎる景色と追い越した召使い達。

 恐れを凌駕する胸の高鳴り。


 悠華さんの中、呪文のように巡っていた願い。



 憎む者達をこの世から消す。

 どうか……それだけの力を。

 私の命と、引き換えてでも。


 叶えるの。

 絶対に……叶えてみせる。



 息を弾ませながら悠斗さんが笑った。


『悠華、今日は一緒にミルクティーを淹れようか』

『やっぱり、私が淹れるものは不味いって言いたいのね』

『違うよ、少しでも長く悠華のそばにいたいんだ』



 すべてを捨てて悠華さんを愛する。

 それは、悠斗さんが秘めた深い愛。





 悠華さんは求め続けた。

 憎む人達、彼らを消せる力を。


 日々繰り返される脅しの言葉。

 体を触れなぞる手と殴られた痕。

 すべてが憎しみを膨らませていった。



 力を。

 力をっ‼︎



 ただ願い続けた。

 悠斗さんと共に。





『悠斗様、旦那様がお呼びです』


 部屋に訪れた召使い。

 話すことはない、無視を決めた悠斗さんだったけど。


『新しい家族をおふたりに紹介したいと』

『家族? ……どういうことだ?』


 ふたりの顔に浮かぶ戸惑い。

 男が言う家族は誰なのか。


『あの男は何を考えてるの? まさか……私みたいに』

『行こう悠華、確かめるんだ』


 飲みかけのミルクティーと窓を染める金色の光。

 黄昏時……それが意味するものは。


 ふたりが入った客室。

 男のそばで笑みを浮かべている男の子。

 高瀬蒼真。

 私を飲み込んだ……


『はじめまして。悠斗兄様、悠華姉様』

『父さん、この子は』

『新しい家族だ悠斗。だろう?』


 満足げな笑みを浮かべた男。

 男の子の目は悠華さんに向けられている。

 男には女の子に見えてるの?


「ソウダヨ、アズササン」


 妖魔の声が頭の中に響く。

 男の子とは違う嗄れた声。

 これが……妖魔の本当の声?


「男ニ幻ヲ見セタンダ。悠華ト同ジ背ノ、悠華ヨリ綺麗ナ顔。僕ノ力デネ』


『父さん、何言ってるんだ? 子供だ、男の子じゃ』

『待って、お兄様』


 悠斗さんを止めるなり、男の子に近づいた悠華さん。笑みを浮かべながら男の子を背後から抱きしめた。

 悠華さんは気づいたんだ。願いを叶えるべく現れただと。


『綺麗な子ね。私よりも……ずっと』

『面倒を見てやりなさい、誇りある和瀬の娘として。そして』

 


 娼婦として、育てあげるようにな。

 


 男の思念をは読み取った。





 真夜中。

 悠斗さんを連れ、男の子の部屋を訪れた悠華さん。

 男の子が何者かを知るために。


『悠華、慎重になったほうがいい。子供に何が出来るっていうんだ?』

『わからない。でもあの男にだけ見えた女の姿。それは、あの子がなんらかの力で』

『そうだよ、悠華姉様』


 男の子の声とドアから染み現れた黒いもの。それは泡を吹きながら膨れていった。


『なんだ……これ』


 あとずさる悠斗さんを見て、悠華さんが微笑んだ。


『叶うのよお兄様。私の愚かな願いが』

『うん、叶えてあげるよ』


 泡がゴボゴボと音を立てる。膨れていく塊の中、見開かれた大きな目。

 悠斗さんが悠華さんの腕を掴む。


『逃げるんだ悠華。あの子供は……人じゃ』

『どうして逃げるの? やっと叶うのに』


 悠斗さんの手を振りほどき、悠華さんは塊に近づいていく。悠華さんの目が恍惚と輝いた。


『望むならあげるよ、僕の力を。美しい命と引き換えに……醜い僕を受け入れてくれるなら』

『醜いのは私よ』


 塊に触れた手が砕ける音を立てた。

 微笑む悠華さんを塊が覆っていく。


『人を憎み汚れた私の心。綺麗になりたいの、お兄様のためにだけ。叶えてくれるの?』

『叶えるよ、悠華姉様が望んだもの全部』



 スブッ

 ザクリッ‼︎



 悠華さんの体が喰われる音を響かせた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る