第21話
『悠華? ……悠華』
悠斗さんを包んだ血の匂いと静寂。
悠華さんを飲み込んだ塊が、溶けるように形を崩していく。
『……悠華』
ゴボッ
ゴボリッ
塊が人の形を作りだした。
色づいていく肌と華奢な体つき。
生え伸びる黒髪と膨らんだ胸。
悠斗さんに歩み寄るしなやかな裸身。
可憐な顔に浮かんだ笑み。
『悠華? ……悠華……なのか?』
『えぇ、お兄様』
凛とした声と艶やかな唇。
『願いは叶うわ。手に入れたのよ、妖魔の力を』
『……妖魔?』
悠斗さんの声に宿る戸惑い。
この時の悠斗さんは知らなかったんだ。妖魔とオモイデサガシの存在を。
『差し出した命と引き換えに妖魔を閉じ込めたの。妖魔と同化して私は生きている。妖魔の力で私は、あの男を……憎む人達を消すことが出来るのよ』
妖魔と……同化?
霧島さんの家、その跡地を訪れた時。
悠華さんは息を荒げ、悠斗さんに支えられていた。あの時、悠華さんの中で眠っていた妖魔。
差し出した命。
悠華さんの体は……妖魔とひとつになって生きている。
胸の間に現れた目に、悠斗さんは息を飲んだ。顔をこわばらせる彼に微笑んだ悠華さん。
『妖魔は私の願う声を聞いた。叶えるために来てくれたのよ。お兄様、覚えてる? 私との約束を』
見開かれた悠斗さんの目。
ガタガタと震える体が彼の恐怖を物語っている。
『私を愛してくれること』
裸身に向け伸びた悠斗さんの手。
一歩、また一歩と歩みより、悠華さんを抱きしめた。悠斗さんの背中をなぞる細い指。耳元に唇を寄せ『お兄様』と囁いた。
『悠華……僕の』
恐怖を打ち砕いた悠華さんへの想い。
憎む者達をこの世から消す。
共に
愛し続けると決めた、ひとりだけの少女。
『僕の……悠華』
白い肌に落とされた唇。
可憐な顔に浮かぶ喜び。
『悠華がいれば……何もいらないんだ』
強く、互いを引き寄せた。
悠華さんの体から滲み出た黒い雫。
それは床を這い、壁を染めて広がっていく。
『お兄様』
悠華さんは呟いた。
『1度だけ聞くわ。私の愚かな願い……叶えることを許してくれる?』
ふたりを包む沈黙。
閉じられた悠斗さんの目。
『私が指示を出せば妖魔は喰い殺すわ。あの男と召使い達を。彼らの魂は亡霊になり、彷徨うことになる』
『父さんが……亡霊に』
『オモイデサガシと呼ばれるものよ。あの男が探す思い出は、お兄様が生まれた時のこと。欲も見栄もなく、息子の誕生を喜んでいた。あの男にもそんな時があったのね。彼を狂わせたのは』
『どうしてわかるんだ? 父さんのことが』
『視えるのよ、妖魔の力で何もかも。過去と未来、お兄様の中を巡る……複雑な気持ちも』
悠斗さんの顔に浮かんだ翳り。
引き継いだ血を憎み、嫌っていた父親。
いなくなればいいと思っていた。だけど突きつけられた死の宣告。それが心に落とす闇は、言いようのない虚しさを呼び寄せた。
『お兄様』
『未来は決まってるんだろ? 父さんは喰われ亡霊になるって。そうじゃなきゃ、なんのために悠華は力を手に入れたんだ。願ったことが叶う。僕は……悠華と一緒に願ったんだ。父さんを殺すのは悠華じゃない、僕なんだよ』
悠斗さんが絞りだした声。
自身に言い聞かせるように。
『悠華がいればいい。僕は……悠華のために生きるんだ』
『ありがとう……お兄様』
悠華さんは命じた。
心の中で。
——彼らをすべて、消し去りなさい。
ゴボッ
ゴボリッ
床と壁を染めるものが音を立てた。それが向かい起こすのは……血の惨劇。
『ごめんなさいお兄様。私が叶えるものは……お兄様にとって残酷な』
『言っただろ? 父さんを殺すのは……僕だ』
悠斗さんの体が力を無くし、崩れるように倒れ込んだ。
悠華さんを守ろうとした日々の中、訪れた父親の死。父親に忠実だった召使い達もいなくなる。受け止めきれない現実が……彼の気を失わせた。
『お兄様、私の……ひとりだけの人。あなたがいれば、私は何もいらないの』
悠斗さんの頬をなぞる指。
顔を寄せ、深々と口づけた。
惨劇を免れた年老いた執事。
——悠華を見張っていろ。
彼は男の指示に耳を貸さず、執事の仕事にだけ没頭した。
彼の熱心な仕事ぶりは、男と召使い達がいなくなったあとも変わらなかった。
他者のことを詮索しない、与えられたものにだけ集中する。それが年老いた執事の主観だった。
『悠斗様、お茶を淹れました。お嬢様にも』
『悠華は……客室にいるのか?』
『はい、悠斗様をお待ちです』
父親がいなくなってからの数日間、悠斗さんは部屋に閉じこもり学校も休んでいた。
無気力さと繰り返す吐き気。
何も考えられなかった。
『悠華に伝えてくれ。すぐに行くって』
『かしこまりました』
執事がいなくなった部屋で、悠斗さんは深呼吸を繰り返す。『落ち着け』と何度も自分に言い聞かせて。
父親がいなくなった屋敷と会社はどうなっていくのか。未知の不安が悠斗さんを支配していた。
客室のドアを開けると、悠華さんがすぐに出迎えた。
黒いドレス、オカルト研究会で会った時と同じものだ。
『悠華、これからのことを話し合おうか』
『私には意味のないことよ、何もかもわかるのだから』
『それでも』と悠斗さんは呟いた。
愛しい少女の背を押しながら。
向き合ったテーブルで飲んだハーブティー。
『悠華は先のことがわかる。それを踏まえて言うけど』
ひと呼吸置いて、悠斗さんは口を開いた。
『
男が言っていたのが本当なら、和瀬の名前は町で大きな権力を持っている。それがいつかは消えていく、この時の悠斗さんはそう思っていた。
『いいえ』
『今なら家に帰れる。父親はともかく……会いたいだろう、母親には』
『そうね……でも』
テーブルから離れ悠華さんは窓の外を見る。
『もうすぐ……ママは家を出て行くわ。私がここに来てからの日々、私のことで言い争いが続いていた。パパはママを殴って怪我をさせたの。あの男と同じね、力でねじ伏せられると思っている。あの家はもう、私の居場所ではないのよ。それに』
振り向いた悠華さんの目が金色に輝いた。頬に滲み出る黒い雫。
『私とお兄様だけじゃないの。私の中には妖魔がいる、
『隠れ家?』
呟くなり見開かれた悠斗さんの目。
『悠華、あの子供は誰なんだ? 妖魔が化けただけのものとは思えない。……あれは』
『高瀬蒼真、妖魔の力を引き継いで殺された子よ』
悠華さんの手が胸の上をなぞる。
ドレスに隠された目を慈しむように。
『妖魔が私の願いを聞き入れたのは、欲しいものがふたつあったから。ひとつは高瀬の一族を欺く隠れ家、もうひとつは……醜い体を隠せる入れ物。妖魔にとって私は、理想の姿を持つ人間だったのよ』
『妖魔のためにここにいるのか? そんな馬鹿げたこと』
『少しの間だけよ、ここでの暮らしは彼が現れるまで』
『……彼?』
『霧島愁夜という男、妖魔への復讐を考えている』
『どうなるって言うんだ? そいつが現れたら』
『彼の復讐の果て、私達を待つ未来があるの』
悠華さんは微笑む。
彼女には何が視えてるんだろう。
未来に……何があるっていうの?
『私はお兄様が選んだ大学に行く。そこには待っている出会いがある。彼女が現れるの……友達に連れられて』
彼女……私のことだ。
オカルト研究会、ミサキに連れられた場所。
『お兄様は大学で、私と彼女が話せる場所を作る。私が占い師だと噂を広めながら。霧島愁夜と彼女、鹿波あずさは私の大切な鍵。妖魔を閉じ込めてから
『夢物語……それが、僕達の未来なのか?』
『そうよ、お兄様』
悠斗さんに近づき、背後から抱き寄せた。
『お兄様がいるだけでいい、お兄様に愛されることが私のすべて……他には何もいらないの。私に逆らい、憎しみを呼ぶ人達をどうにでも出来る。私はそれだけの力を手に入れたのだから。誰ひとり……私と妖魔に逆らうことは許されない』
——悠華には絶対に逆らうな。
前に悠斗さんから言われたこと。
あれは、私を守るための助言だったのかな。悠華さんに憎まれたらどうなるか。
友達だと思っていても。
悠華さんは私を……殺しかねないと。
鍵と夢物語。
前に悠斗さんが言っていたこと。
私と霧島さんの存在が、悠華さんにとって何を意味してるのか。
わからないけど……運命は巡り続ける。
ふたりが初めて肌を重ねたのは、悠華さんが大学に行きだしてすぐのこと。
黄昏の光に包まれた部屋の中。
悠華さんの裸身。
彼はそのすべてを愛し壊した。
『ずっと一緒だ、何があろうとも。悠華……僕だけの姫
君』
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