第16話
鹿波あずさ。
彼女が語った人物の名は僕の記憶を揺り起こした。
悠幻堂。
僕の予想が当たっているなら、白夜に手を差し伸べた店主は……
高瀬さんが訪ねた家は住宅地の中にあった。
静けさの中、やけに浮き響いたピンポンの音。
ドアが開き、顔を出した寝巻き姿の男。童顔と低い背の華奢な体つき。彼の落ち着いた雰囲気が、高瀬さんより年上だと僕に告げた。
『高瀬さん、どうしました? こんな時間に』
『夜遅くにすいません。沙月さんに相談があって来たんですが……寝ちゃってるかな』
遠慮がちに問いかけた高瀬さん。その口調とは裏腹に、顔に浮かんだ満面の笑み。怒られはしない、その確信が彼に余裕を与えていた。だが
『君、怪我してるのか?』
僕を見るなり顔色を変えた男。頬の傷は彼を随分と驚かせたらしい。無理もないだろう、血は止まっているものの、肉が裂け見えているのだから。『やれやれ』と呟きながら頭を掻いた高瀬さん。さっきまでの余裕は何処へやら……心の中で僕は毒づいていた。
『僕の遠縁の子なんです、来る途中に転んでしまって。ね? 霧島君』
怪訝な顔で僕達を交互に見た男。無理もない、転んだだけでこんな傷になりはしないのだから。
『驚かせてすみません、尖ったものが落ちてたので。たいした怪我じゃないですから』
『病院に行ったほうがいい、化膿したら大変だ』
『大丈夫です。痛みもないですし』
本当に痛みは消えていた。
妖魔……蒼真が傷を消さないのは、僕に繋がりを見せしめるためだろう。僕が何処にいようと、逃げることも離れることも出来ないのだと。
『君、本当に大丈夫なのか? 手当てを……消毒液はあったかな。とにかく上がってください、散らかってるのは気にしないで』
『すいませんが、沙月さんを』
『待っててください。呼んできますから』
玄関に見えたピンク色の小さな靴。
瑠衣と同じくらいの女の子がいる、そう思った。
今になってわかる。
女の子の名前は鹿波あずさ。
運命に偶然と必然があるのかはわからない。だが運命のいたずらと皮肉は間違いなく存在する。男とよく似た彼女の顔立ち、瑠衣の成長を想像させた姿。
仕事を盾に名刺を渡したのは、男の面影と瑠衣の幻に惑わされての行動だった。あの時は、男の娘だったのだと気づきもせずに。
『何を相談するんですか?』
『言っただろ? 駅までは歩くと時間がかかるんだ。車で送ってほしいのとその前に』
高瀬さんがつついた僕の腹。
『何か食べさせてもらおう。君を助けてから何も食べてないんだ。お茶だけじゃ腹は膨れないよ』
『お腹なんて僕は』
僕の声を遮った腹の虫の音。
『ふっ』と高瀬さんは笑った。
『腹が減ってはナントカだよ霧島君』
『送ってもらうとか食べるとか、図々しいですよ』
『僕と沙月さんの辞書にはね、遠慮という言葉は存在しないんだ』
送ったメールを高瀬さんは読んだだろうか。
〈妖魔は今、和瀬悠華という女の中にいる〉
彼はすぐに調べようとするだろう。和瀬悠華が何者なのか、妖魔をどうやって手なづけたのかを。
——この頃聞こえないんだ。蒼真の声が。
彼がそう言ったのはいつだったか。
彼の弟。
その意識は、女の中で何を考えている?
『まったく、何事かと思いきや』
老いた男の呆れ声と高瀬さんの苦笑い。
『他の人には頼めないんですよ。こんな時間に訪ねたら誰だって怒るでしょ? 沙月さんと僕の仲に免じてですね』
『残念だが
眠そうな目を僕に向けた老人。
『大変だろう? 彼に振り回されるのは』
『いえ、僕は……その』
『遠慮はいらんよ』と笑みを浮かべた老人だったが。高瀬さんを見る目には明らかな怒りがあった。無理もない、勝手な都合で起こされたのだから。
『傷の手当てが終わったら、息子と一緒にここから出てくれるかな。高瀬君とふたりで話したいんだ』
『そんな、僕だけ説教ですか?』
『僕と君の仲じゃないか。時間はかからんよ』
あとで知ったことだが、高瀬さんは彼にすべてを話した。僕に起きたことと町から離れる
妖魔とオモイデサガシの存在が町を支配し始めたのは僕達がいなくなってからすぐのことだ。
人を喰らう妖魔。
彷徨い歩く亡霊。
妖魔が呼び誘うひと時。
黄昏時には外に出るな。
僕と家族の名は恐怖の象徴となった。妖魔に喰われ、狂い死んだ者達だと。話を広めたのは、おそらくは高瀬の一族だ。
僕が去ったあと、喰われた者がいるかはわからない。だが語られるものは人々を恐れさせ、黄昏時の町から人の姿は消えた。
高瀬さんの要望どおり、軽い食事をすませ男が運転する車で駅に向かった。車の中で男から聞かされた娘の話。
『僕としては妻に似てほしかったんです。妻は誰よりも可愛くてクラスの人気者でした。僕を選んでくれたのが今も夢みたいで……すみません、
数年後、僕達は知ることになる。
男が事故で死んだことを。
知らせてきたのは老人、道路に飛び出した子供を助けようとして死んだ。
知らせを聞き、僕が考えたのは娘のことだった。父親の死は娘にとってどれだけの悲しみなのか。会うことはない娘、考えるだけ無駄なこと。それでも考えずにはいられなかった。
瑠衣と重ね合わせ、想像し続けた娘の成長。
帰ってきたあの日、成長した娘と出会った。
鹿波あずさ、彼女は考えもしないだろう。見ず知らずの男が、死んだ妹と自分を重ね見て過ごしていたなんて。
始発の電車を待ちながら圭太に電話した。
僕と高瀬さんだけが立つホーム。公衆電話の大きさとダイヤルの感触がやけに新鮮だった。
朝早くの電話、出てくれるのか不安だったが。
『……もしもし?』
圭太の声に安堵の息が漏れた。
『圭太』
『愁夜‼︎ 愁夜なのか?』
圭太の大声が告げた緊迫、それはひとつの現実を僕に突きつけた。僕のありきたりな日々は、本当に壊されてしまったのだと。
『大騒ぎになってるんだ。お前の家が火事になって……お前大丈夫なのか? 怪我は』
『みんな……みんなが』
『愁夜? 家族のことか? どうしたんだよ』
『死んだ。……殺されたんだ』
圭太の息を飲む音と沈黙。
知られるのが怖かった。圭太にだけは何もかも知っててほしいのに。思うように話せない歯痒さと緊張。
『圭太、僕は……僕は』
『言いたいことなんだって聞いてやる。少しずつでいいんだ、教えてくれ』
『……うん、圭太』
心の中に浮かんだ、小さな頃の圭太の残像。
仲間はずれにされていた圭太。僕が声をかけてから始まったにぎやかな日々。込み上げた懐かしさが目頭を熱くした。
『信じてもらえるかわからない。それでも話したいんだ、圭太にだけは』
話せるだけのことを話した。
妖魔のこと、家族のこと、奪われた心臓のこと。わからないことだらけの一族のこと。僕がいなくなることで迷惑をかけることへの謝罪。
返答に困りながらも、圭太はすべてを聞いてくれた。
『いつかは帰ってくるんだろ? 愁夜』
『わからない。これからどうなるのかな……怖いよ、圭太』
『待ってるよ。帰ってこなくてもずっと待ってる。愁夜……がんばれ。がんばれよ‼︎』
電話を切り乗り込んだ電車。
長い時間をかけ訪れた東京。
『霧島君。さぁ、行こうか』
言われるまま足を踏み入れた見知らぬ街。
——愁夜……がんばれ。
僕の背中を押してくれた圭太の声。
——がんばれよ‼︎
あの時も今も、圭太の声は僕に力をくれる。
夜明けが近づいた蒼の
体を起こし見る公園の風景。
ひとりきりの寂しくも心地いい空気。
新たな1日が始まった。
白夜と会うことは、僕にひとつの再会を告げる。
鹿波沙月。
彼が白夜に手を差し伸べたのは僕を覚えていたからだ。彼は待っててくれたんだろうか、圭太と同じように僕が帰ってくることを。高瀬さんとの再会を望んでいるだろうか。
僕が動くことで、彼らの日々を脅かすことになるだろう。それでも……僕が進む道はただひとつ。
妖魔への復讐。
それだけだ。
***
——蒼真、外に出ては駄目よ。お前は誰とも仲良くしてはいけないの。
それは運命に抗おうとしたお母様の口癖だった。
僕は殺される。
訪れる未来、それが変えられないと知りながら。
物心ついた時から感じていた異常な食欲と味覚。僕にだけ聞こえる嗄れた声。視えてくる知らない出来事や、読み取ることが出来る人の思念。僕が念じるまま溶けて、黒い
声は聞こえ続けた。
——人ヲ喰イタイ。人ヲ……人ヲ……
人の肉を求め続けた僕の中に宿る者。
——蒼真、視えたものを話すのは私だけにして。外に出ては駄目、知られてはいけないの。蒼真が……
お母様が飲み込んだ
——力を引き継いでいることを。
嗄れた声が何度も僕に語った。
——哀レナ子供、オ前ハモウスグ死ヌ。殺サレルンダ、一族ノ者達ニ。
僕は問いかけた。
『死んだらどうなるの? 僕は……僕のままでいられるの?』
声は答えなかった。
僕が死んだあと、その
僕は決めた。
死ぬことを怖がるのはやめようと。
どんな運命も受け入れる、それが……僕が生きた証だから。
お父様。
お母様。
わかっていたよ、僕を守るため屋敷に閉じ込めていたことを。
蒼波兄様。
一緒に笑い、演じてくれた。ひとりだけの友達を。
僕は殺された。
屋敷に現れた一族の人間に。
妖魔の力を封じる剣、それは容赦なく僕を貫いた。
溶け腐った僕の体。
だけど意識は残り続けた。
人を憎み続ける、妖魔の力と共に。
悠華の鼓動の音。
僕に導かれるまま、悠華は眠りについた。
悠華が目を覚ましたら、僕のわがままを聞いてもらおう。
悠華の新しい友達。
鹿波あずさに……会わせてほしいと。
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