漆黒の姫君〜淫欲の憧憬〜

鹿波あずさ視点

第17話

「ありがとうございました。また来てくださいね」


 お客さんで賑わう悠幻堂、玲香さんの明るい声が響いてる。


「玲香さん、どら焼きは?」


 聞き慣れた声。

 動画をきっかけに常連になってくれた男の子だ。


「ごめんなさい、さっき売り切れてしまったわ」

「お爺さんは? 今日はいないの?」

「お客様が来てて、お店に顔を出せないのよ」

「そっか、じゃあまた会い来るよ。玲香さん、いつもありがとう」


 いいなぁ、お店はなごやかな雰囲気だ。それに比べて私が向かう和室ときたら。


「ほんとなんだよ沙月さん‼︎ 何度も言うがね、この金が証拠なんだ‼︎」


 桔梗さんの大声に足を止めた。

 鬼気迫る桔梗さんを前に、みんなが声を出せずにいる。もう、なんで沙月爺まで黙ってるのよ。

 襖を開け見えた、桔梗さんを囲んで座る家族と白夜さん。ちゃぶ台に並ぶのは、人数分の湯呑み茶碗と1万円札の群れ。癒しを求めて店に行ってみたものの、桔梗さんの迫力を前に癒しパワーは全滅だ。


「あずさ、早く閉めて」


 お母さんに言われるまま閉めた襖。お母さんと沙月爺の間に座るなり、落ち着こうと深呼吸。


 桔梗さんによると、悠幻堂の前で女の人が襲われたらしい。真夜中、言い争う声に気づいて家から飛び出したって。神坂食堂、近い所にあるとはいえ桔梗さんはかなりの地獄耳だ。


「まったく鹿波の家の者は。揃いも揃って危機感がなさすぎだ。ひとりくらい聞いてないのかい、襲われた女の声を」


 なんだか……聞けば聞くほど不思議な話。

 お金を拾っていた女の人。駆け寄った桔梗さんに話したのは『最高の男に逃げられた』。お金は男の人がばら撒いたものらしいけど。

 どう考えても女の人が襲われたと思えない。これって私だけじゃないよね?


「気の毒な被害者さ。鹿波の家でいち早く気づいていれば、犯人を捕まえることが出来たじゃないか。こんなことがあるなんて、腹立たしいったらありゃしないよ」

「しかしだね桔梗さん」


 沙月爺が口を開いた。


「金は男がばら撒いた、女はそう言っていたのだろう? 争いごとはね、喧嘩や殺人沙汰とは限らないんだ。女をかわすために男は金を使った。そうとも考えられるんだが」

「ふんっ、それは男の側の意見だろうさ。女には女の意見があるんだよ。何より私はね、悔しくてたまらないんだ」


 涙ぐんだ桔梗さんを前に顔を見合わせた私達。

 桔梗さんのアドバイスを聞かず、警察への相談を断ったという女の人。

 どんな時も女は泣き寝入り、桔梗さんはそう思ってるんだろうな。


「桔梗さん、泣かなくてもいいだろう」

「泣かずにはいられないよ。わからずやだね、沙月さんは」


 湯呑み茶碗を持ってすぐ、ちゃぶ台に戻した桔梗さん。沙月爺から聞いたことがある。桔梗さんのストレス解消法、そのひとつは飲み物の一気飲みだって。熱いお茶は一気に飲めないもんね。


「客に好かれる店を作る。ここは夢を叶えようと選んだ土地なんだ。沙月さんは息子共々ここに越して、私と一緒にがむしゃらに働いた。いいかい? 客にも仕事にも恵まれた場所で事件が起きたんだ。私が言いたいこと、わからないとは言わせないよ。私は嫌なんだよ、大事な人達が酷い目に遭わされるのが」

「桔梗さん、とにかく落ち着いてくれ。今回のことはあんたが考えるほどの事件じゃない、誰も傷ついてはいないんだよ」

「落ち着いてなどいられないね。気をつけて過ごしておくれよ。わかったね? あずさちゃん」


 桔梗さんの鋭い目が私に向けられた。なんか、すごいとばっちりが私に来たような。

 気をつけるのは当然として対処に困るのは。


「沙月爺、どうするの? このお金」


 男の人がばら撒いたもの、ここに置きっぱなしには出来ない。『ふむ』と呟きながら、何枚かの札に触れた沙月爺。


「持ち主に返すべきだろう。やましい事情でなければ、持ち主が戻ってくる可能性もなくはない」

「お爺さん、交番に届けましょう? 知らない人のお金なんて、なんだか気味が悪いわ。ねぇ、あずさ」

「うん。これ、私が届けてこようか?」

「沙月さんがこの調子じゃらちがあかない。私もおいとましようかねぇ」

「とにかく落ち着くことだ。桔梗さんが仏頂面じゃ、食堂に客が寄りつかないだろう」

「あいにくと今日は休業だよ。こんな気分で誰が働けるもんか。どうだいあずさちゃん。私と一緒に出かけようか」

「ふぇっ?」


 思わぬ提案に妙な声が漏れた。

 桔梗さんと町を歩くなんて考えたこともなかったし。


「私が一緒なら鬼に金棒、何が来ようと怖いものはないよ」


 すごい説得力。

 確かに桔梗さんなら相手のほうが逃げていきそう。沙月爺ですら黙らせちゃうんだから。


「そうと決まればすぐ支度だよ。沙月さん、金をまとめてあずさちゃんに」

「どれ、封筒はあったかな」

「お爺さん、私が準備します。待っててください」


 慌ただしい空気。

 静かなのは白夜さんだけだ。彼はみんなを見てるだけでずっと黙ってる。


「白夜さん、お茶のおかわりは?」

「いえ、大丈夫ですよ」


 穏やかな笑みが浮かんだ。

 

「いい人達ですね。ここは居心地がいい所です」

「困ってることはないですか?」

「何も。あるとしたら寂しいことです、いつかここから去っていくのだと」


 白夜さんの記憶が戻ったら。

 それが意味するのは、彼がここから出ていくこと。


「すいません、変なことを言って」

「そんな、謝ることじゃないですよ」

「無くした記憶、取り戻したい一方で怖くもあるんです。僕がいたはずの日々、それは僕にとって大切なものなのか……何もわからないから」

「怖いですよね。わからないこともわかろうとすることも」

「気を使わせてますね。あずささんは優しい人です、沙月さんもお母様も。僕の家族も同じならいいのですが」

「……家族」


 霧島さんが失った家族と白夜さんが思う家族。


 ——誰もいない、何もない場所。


 白夜さんが持つ記憶らしきもの。沙月爺が言ったように、霧島さんの家があった場所だとしたら。似てるだけじゃない、あの場所には……ふたりを繋ぐ何かが。


「ここで過ごす中、楽しみを見つけたんですよ」

「なんですか? それ」

「夜が明ける前の蒼いひと時、外を歩くことなんです。ひとりきりで願う。誰とも知らない、誰ともこだわらない人々の幸せを」


 薄青い肌が、微かな赤みを帯びた気がした。

 話したことに照れを感じてるのかな。夢や願いごと、語るのは恥ずかしいことじゃないのに。


「あずさ、これ」


 お母さんから渡された封筒、お金が入ってるだけで妙に緊張する。


「じゃあ、あずさちゃんは借りて行くよ。何処に行くとしようか」

「あずさ、ちょっと来なさい」

「何?」 


 和室から出た沙月爺を追いかけた。襖を閉めるなり差し出された手。

 

「その金は僕が預かっておく」

「え?」


 どうして? それって交番に行くなってこと?


「持ち主が来るのを待とうと思うんだ」

「そんな、来るかどうかわからないのに」

「あずさにだけは話すがね」


 沙月爺は声をひそめる。


「言い合う声は僕にも聞こえていた。起こされたと言うべきか。女は売春婦だ、男は女を退けようと金をばら撒いたにすぎない」


 地獄耳、桔梗さんだけじゃなかったんだ。


「その人、取りに来ればいいね」

「おそらくは来るだろう。が来る目的は金ではないだろうがね」


 気のせいかな、お金の持ち主を知ってるような言い方。渡した封筒を沙月爺は手早く懐にしまい込んだ。襖を開けるなり、桔梗さんを呼んだ沙月爺。


「さぁ、楽しんできなさい」

「嬉しいねぇ。ほら、行くよあずさちゃん」


 私の背中を押して、桔梗さんが笑った。

 











「あぁ美味しい、かき氷なんていつ以来かねぇ」


 ひとくち食べるなり、桔梗さんは満足げにうなづいた。桔梗さんと一緒に入った飲食店。古めかしい建物と木のテーブル。落ち着いた雰囲気で居心地がいい。

 注文したかき氷、私が苺で桔梗さんはミルク金時。サービスにと渡されたふたつのキャンディ。


「あずさちゃん、いいんだよ奢りだなんて。連れだしたのは私なんだから」

「私からの気持ちです。沙月爺がお世話になってるし」

「世話なんてしてないさ。言いたいことを言って、やりたいようにやってるだけなんだよ。……さっきは悪かったね」

「何がですか?」

「押しかけるなり言いすぎたと思ってね。落ち着いて話せばよかった」


 窓の外に見える公園、平日の午前中訪れる人はいない。思いだすのは子供の頃、お父さんと一緒に遊んだすべり台。ここを出たらすべりに行ってみようかな。桔梗さんには笑われるかもだけど、お父さんとのひと時を取り戻せたら。


「たまにね、私は空回りしちゃうんだよ。よかれと思ったことが嵐にも台風にもなっちまう。今日は沙月さんも呆れてた。明日どんな顔で会おうかねぇ」

「意見が合わないのも仲良しの証拠です。みんなわかってますよ、桔梗さんが私達のことを案じてくれてるんだって」

「そう、沙月さんとは長い付き合いだ。私にとって、鹿波のみんなは家族も同然なんだよ。あの青年も馴染んでるようだし。白夜だなんて粋な名前をつけたもんだ」

「そうだ、桔梗さん」


 沙月爺がいない今、こっそり聞いてみよう。

 あの動画。

 店の宣伝を思いついたのは、沙月爺と桔梗さんどっちなのか。

 それと霧島さんのこと。

 沙月爺が知ってるなら、桔梗さんも彼を知ってるんじゃないかな。


 霧島さんがどんな人なのか、ちょっとでも知れるなら。

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