第13話

 金色に輝く目は黄昏の光を思わせた。

 見えなくなった子供、地面を這い、近づいてきた塊。


『答エテ愁夜サン、何シテ遊ブ?』


 子供とは違うしゃがれた声。

 体液で濡れたおぞましい塊、それは妖魔の本当の姿。


『ナンデモイイヨ? 遊ボウヨ』

『うるさい』


 体から消えた痛み。

 脱ぎ捨てた血に濡れた服。胸をえぐる傷痕と、体を覆う黒い斑点の群れ。

 奪われた心臓、それは現在いまも妖魔の中にある。あの時のままの傷痕と斑点。

 こんな体を誰に見せられるだろう。1度会うきりの、体を売る女にですら。


『何? 聞コエナイヨ、愁夜サン』

『うるさいと言った。帰るぞ、瑠衣』

『大丈夫なの? お兄ちゃん』


 大丈夫なはずはなかった。

 僕の命は妖魔に握られてしまったのだから。それでも守ろうと思った、僕がどうなろうと瑠衣だけは。あの時、僕が考えやったことは、強気な僕を妖魔に見せつけること。

 お前には屈しない、僕はお前より賢いのだと。


『帰ルンダ、ツマンナイナ』

『条件を飲んだら遊んでやる。僕が門を出るまでじっとしてろ』

『愁夜サンガ出タラ追イカケテイイノ?』

『あぁ、僕を見つけたらお前の勝ちだ』

『ワカッタ、隠レンボデ遊ブンダネ?』

『見つけなければお前の負け。負けたら僕達には関わるな』


 瑠衣を抱き上げ歩きだした。

 不安の中訪れた沈黙の中で。


 考えたのは門を出たら全力で走ること。這いずるだけの妖魔が早く動けるはずはない。追いかけてきても追いつかせなければいい。あの時は信じてたんだ、逃げきって瑠衣を守れるんだと。すぐに忘れよう、考えなければ忘れたのと同じだと、自分に言い聞かせていた。


『お兄ちゃん、服は?』

『いらないよ、血で真っ赤になったんだから』

『大事にしなきゃダメ。お母さんに怒られちゃうよ』

『僕が怪我をしたって、母さんに心配かけちまう。だからいいんだ』

『私が洗ってあげる、持って帰ろうよ』


 門を前に振り向いた。

 不気味な静寂。

 妖魔が動かずにいる闇。


 この時感じた少しだけの迷い。

 妖魔を封じていた剣。鞘だけでも取りに行くべきなのか。粉々になったやいば。それでも妖魔にあらがう力を持っているなら。


『ねぇ、お兄ちゃん』

『いいんだ、戻ったらまた怖いことが起きる。怖いことより、楽しいほうがいいだろ?』

『帰ったら、歌を教えてくれる?』

『あぁ、約束する』


 瑠衣の無邪気な笑顔。

 何を教えようか考えた。アイドルの歌か母さんが口ずさんでいるものか。その考えが無駄になるなど思いもせずに。


『瑠衣、今のことは夢だと思えばいい。大丈夫……すぐに忘れるよ』

『うん。そうだ、お兄ちゃん……これ』


 瑠衣がポケットから取り出したガラス玉。それは月明かりを浴びてキラキラと輝いた。


『私のお気に入りなの。お兄ちゃん、素敵なプレゼントをありがとう』

『来年の誕生日にはもっといいものをやるよ』

『私も考えなくちゃ、お兄ちゃんが喜んでくれるプレゼント』



 お前が笑うことが1番のプレゼントだ。



 照れ臭くて言えなかったこと。それは今も悔いとなって残り続ける。





 野宿の場所に決めたのは公園。ベットの代わりは古びた木のベンチ。珈琲を飲み干し体を横たえた。

 コートを着続けるのは、傷痕と斑点を隠すのともうひとつ。あの日以来、僕を支配したままの肌寒さ。それにあらがうためだ。


「……寒い」


 温かいものが食べたい。

 空腹を満たすより先に寒さを遠ざける。

 あの日、母さんが作ってくれた温かな晩御飯。それは、妖魔によって血色に染められた。





『お兄ちゃん? 入らないの?』


 僕を見上げ、首をかしげた瑠衣。

 家の前で考えていた母さんへの言い訳。傷痕と斑点を見られる訳にはいかなかった。


『ねぇ、お兄ちゃん』

『瑠衣、歌を教えるかわりに頼んでいいか?』

『なぁに?』

『母さんの所へすぐに行くんだ。僕が部屋に行くまで引き止めててほしい』

『ただいまって言わないの?』

『服を着たらすぐに言うよ。だから頼む』


 静けさに包まれた住宅地。

 あたりを見回してから開けたドア、僕達を出迎えた家の中の明かり。


 漂ってくるシチューの匂い。

 揃え置かれた父さんの革靴。


『お父さん、帰ってきてるんだ‼︎』


 喜ぶ瑠衣のそばで頭を掻いた僕。

 この姿を父さんに見られたら。厳格な父さんを前に言い訳なんて出来るはずもなかった。妖魔に襲われた……こんなことをどう話せば信じてもらえるのか。

 小さな嘘でも叱られてきた。妖魔に会わなければ僕にとっての脅威は父さんだけだったのに。

 今ならわかる、父さんの厳しさは僕を思ってのことだったのだと。

 僕の未来を、誰よりも信じてくれた。


『ただいま、お母さん‼︎』


 声を弾ませて瑠衣が離れていった。瑠衣の手の中で輝いたガラス玉。向かったのは母さんがいるはずの台所。


『お母さん、お母さん?』


 ドアを閉め、鍵をかけながら聞く瑠衣の声。

 あとに続くものはなかった。返ってくるはずの母さんの声が。


『瑠衣、どうしたんだ?』

『お母さんがいないの、どこに行ったんだろ』


 足早に向かった台所。

 蓋が開けられた鍋と、ボールの中に見えた作りたてのサラダ。テーブルの上、開かれたままの雑誌。


『買い物に行ってるのかな』

『蓋を開けたままか? そんなはずないだろ』

『それじゃあ、お父さんの所?』


 聞こえるはずのもうひとつの音。それは父さんが帰ってくるなりつけるテレビ。

 何も聞こえなかった、僕と瑠衣の話す声以外には。


『父さん? 母さん? ……母さんっ‼︎』


 何も聞こえなかった。瑠衣のそばで込み上げた不安。明かりが照らす中、見える闇は影だけなのに。妖魔は僕達に追いつきもしなかった。

 浮かび膨れていった恐怖。


 体に刻まれた斑点の群れ、それが物語るひとつだけの真実。妖魔からは逃げられない。どこにいても追いかけてくる。


『妖魔……いるのか?』

『ウン、イルヨ?』


 ドクンッ‼︎

 ズズズ……


 大きな鼓動の音と地響きを思わせる揺れ。


 揺れていた。

 天井も、壁も、床も。

 僕と瑠衣を囲む世界が脈を打って。


『愁夜サン、僕ヲ馬鹿ニシタ』


 ひび割れた壁の中、現れた大きな目。

 壁が黒く染まっていった。墨が滲み広がっていくように。僕の家を……妖魔は飲み込んだ。


『僕ガ愁夜サンニ追イツカナイッテ? 見ツケラレナキャ僕ノ負ケダッテ? 愁夜サン、僕ガ何モ出来ナイッテ思ッタノ?』


 妖魔の声は、僕が声を上げることを許さなかった。僕を捕まえた絶望。

 何も考えられなかった。


『許セナイヨ、僕ハ友達ナノニ。シカエシニ、愁夜サンノ家族ヲ食べチャッタ』


 ビチャッ‼︎

 ビチャリッ‼︎


 落ちた鍋。

 こぼれたシチューと床を赤く染めるもの。混じり見える肉片と髪。母さんの髪飾りとひび割れた父さんの眼鏡。


『お兄ちゃんっ‼︎』


 瑠衣を抱き寄せた。

 流れる鮮血と黒く染まる壁。生々しい匂いが吐き気を呼んだ。


『デモネ、愁夜サン。考エッテイクラデモ変エラレルンダヨネ。愁夜サンノオカゲデゴ馳走ガイッパイニナッタンダカラ。アトハ君ダヨ、瑠衣チャン』


 闇に飲まれた明かり。何も見えなくなった。

 僕に出来たことは、精一杯の力で瑠衣を抱きしめること。


『お兄ちゃん、お兄ちゃんっ‼︎』


 僕達を飲み込んだドロリとした感触。


 ザクッ

 ザクリ


 不気味な音が響いた。

 僕のすぐそばで。


『おにぃ……』


 途切れた瑠衣の声。


『瑠衣? ……瑠衣』


 返ってくる声はなかった。

 体を濡らす冷たいもの、重みが消えた感触。


『瑠衣、瑠衣っ‼︎』


 僕を襲った痛み。

 頬を、喰いちぎられた。


『愁夜サンの肉。瑠衣チャンガ悲シマナイヨウニ、チョットダケモラッタヨ。美味シイナァ、子供ノ肉ハ。最高ノゴ馳走ダヨ。クックック』


 脈を打つ闇の中、細まった大きな目。

 僕をあざけり笑うように。

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