第6話 『引退の理由』

 建物内で一斉にざわめきが起こった。確かにここにいるほとんどの者はルーシーのことをすでに知っている。しかしその後に続いた『長旅に出る』という情報だけは全員初耳だった様子だ。

 どよめき、隣同士で囁き合う者、動揺を隠せない者、ショックを受けている者、反応はみな様々だった。

 ニコラが村を出て行くこと、それ自体がこの村にとって大きな損失であることは間違いない。村人たちの困り果てた表情がそれを証明していた。 

 すると村長が立ち上がり、両手を振って『静粛に。話はまだ終わっていないぞ』と場を鎮めようとするが、その村長も表情は優れなかった。

 村長までもが知らされていないことにルーシーは気付く。

 場は一旦落ち着きを取り戻し、どういうことなのか説明を求める村人にニコラは応える。


「何も今すぐってわけじゃない。この子は事情があって普通の人間と接する機会がほとんど無くてね。まずは人間との関わりをこの村で1年間経験させてやりたいんだ。そうは言っても別にこの村に住み込むわけじゃない。この子には魔女の修行をしてもらわないといけないからね。だからこれまでと違って私たちは頻繁にこの村に足を運ぼうと思っている。その時はみんな、どうかこの子に誠実に接してやってくれないか。……頼むよ」


 ニコラはいつも堂々としており、毅然とした態度で決して弱さを見せないような強い女性だった。そんなニコラが村人たちにルーシーと仲良くしてやってほしいという頼み事をする時、やわらかい一面を垣間見せた。長い付き合いではないルーシーは、ニコラならもっと高圧的な態度で頼んでいそうなものだと思っていたから驚いた。

 本当に心の底から、村人たちに自分のことを大切にしてやってくれと頭を下げているように見えて、ルーシーはまた目頭が熱くなってくる。この体に転生してから、涙もろくて仕方がない。


「それは別に構わないけど、それじゃあニコラたちが出ていった後はどうするんだ?」

「そうよね、この村は立地が……。今まで雪崩の被害に遭わなかったのだって、ニコラの氷の魔法があったからでしょ?」

「ニコラがいなくなったら、この村はすぐにでも雪崩で全滅しちまうぞ」


 ここスノータウンはふたつの雪山の間に作られている。山裾に居を構えただけで雪崩や土砂崩れの被害に遭いやすいというのに、ここは山間に村を作っていた。スノータウンが今まで雪崩の被害に遭わなかったのは、氷結の魔女であるニコラの魔法のおかげだということが判明して、ルーシーはさらに困惑した。

 それならばニコラはこの村にとって不可欠な存在となる。そんな彼女が自分の為に村を捨てるようなことをしてはならない。なぜそこまでして自分の育成を優先させるのかルーシーにはわからなかった。

 むしろルーシーは魔女の修行はニコラの家でするものだとばかり思っていたので、旅に出るという発言だけでも十分驚きだった。村人たちの言うことはもっともだ。


「もちろん雪崩問題についても時間はかかるが手は打っておく。だから長年住んだ家を捨てる必要はない。それだけは信用してほしい」


 ざわめきが少し落ち着いた様子だった。雪崩に関する保証を約束することで、村人たちの不安を取り除くことはひとまず出来たようだ。


「雪崩の心配はいいとして、ニコラに処方してもらっている親父の薬はどうなるんだ。あれがないと親父はまた発作を起こしてしまう」

「そうね、ここから薬が売られている町まで行くとなると……。ニコラがいたから定期的に補充出来たわけだし。お薬だって期限があるのよね? どれくらいで戻って来てくれるのかしら」


 雪崩問題の次は薬剤関係だった。ニコラは生活必需品などを村人との物々交換で買い取っていたことはルーシーも今日知ったことだ。魔女は薬の調合に長けている。この村はニコラが調合した薬を重宝しているようだった。


「それに関しても問題ない。旅に出ると言ったが、長旅を終えるまで一度もここに立ち寄らないわけじゃないさ。確かにこれまでに比べたら村に来る頻度は下がるけどね。薬の期限に関しても長期保存の方法を教えるから、何年かに1度村に戻った時には新しい薬を手渡せるようにする。それでも不足する場合は、申し訳ないが町まで行って薬を買ってもらうしかないよ」

「でも、まぁ……。今まで散々ニコラの世話になったのはこっちだからな。ニコラから薬をもらえるのを当たり前だった今までの方が恵まれていたんだ。そこは村の連中で協力しようか。この中にも仕事で定期的に町へ行く奴がいるだろ? 薬が必要になったらその時に一緒に買いに行ってもらったらいいんじゃないか」

「そう、だな……。でも親父の薬はニコラに特別に処方してもらったやつだぞ? 町で売ってる薬じゃ……」

「大丈夫だよ、親父さんの薬は長期保存が効くものだ。それでも不安なら私の使いのカラスに注文しておくれ」


 初めての情報が出てきた。ニコラの使いのカラスの話はルーシーも知らない。確かに魔女には使役する使い魔のようなものがいると聞いたことはあったが、カラスに注文するとは具体的にどうするのだろうと興味が沸く。

 困っている村人がいるのに興味津々になっている自分に気付き、背徳感に苛まれる。しかしそれでも魔女の正体を垣間見る瞬間でもあるようで、ルーシーは聞き逃さないように耳をそばだてた。

 動物と会話をすることが出来ない魔女は、一体どうやってカラスと意思疎通を行うのだろう?

 普通の人間でもある村人が、どうやってカラスに注文するんだろう?


「まず旅先の私に薬の注文や手紙を依頼したい場合は、家の前に巣箱を作って置いておくんだ。入口は大きめで。その巣箱がいわばポストのような役割を果たす。私が今住んでいる家に数羽のカラスがいるから、巣箱の中に私への手紙を入れておくれ。そして出入り口にカラス用の餌を用意するんだ。そうすれば餌の匂いでカラスが巣箱に飛んで行き、中に手紙が入っていたらそれを私の元へ届けるように躾けてある。注文の品はカラスが巣箱の中に入れるようになってるから、どれくらいの日数がかかるかは旅先と村までの直線距離にもよるが。恐らく1ヶ月以内には巣箱に戻ってくるようになっているから、定期的に中身を確認しておいてほしい」


 使いの出し方はわかったが、ルーシーにはまだ疑問に思うことがあった。

 いくら使いのカラスが数羽いたとしても、長旅と言うからにはかなりの距離まで旅するとして。果たしてカラスがそれほどの長距離を移動することが出来るのだろうか?


「実は私のカラスは複数の地域に存在している。中には他の魔女と共同で飼っているやつもいるんだ。経由するように手紙を運ぶから、必ず私の元へ届くようにしてあるし、注文した物も必ず家まで届けさせる。カラスはとても賢い生き物だからね。魔女の魔力で多少は人語を解する。普通の人間との会話は無理だが、魔女相手なら意思疎通は可能なんだよ。魔女の使い魔となり得るカラスやフクロウ、ネコなんかがその代表例だ。だからその辺に関しても心配ないと言っておこう」


 薬に関する問題もとりあえずは解決、といったところらしい。村人たちの表情から少しずつ不安の色が消えていくのがわかった。これほど必要とされているニコラが、なぜルーシーの修行の為に旅に出なければいけないのだろう。どうしてもそれだけが不思議でならなかった。魔女の修行ならニコラの家で事足りるのではないか?

 ルーシーの表情からは不安が消えることはなかった。


「どうしても旅に出ないといけないの? ここじゃダメなのかしら?」

「悪いけどここで学べることはほんの一握りしか得られない。魔女に必要なものは知識と経験だ。見聞を広めながら色々な体験をして得られるものも大いにある。魔女はそうやって成長し、独自の魔法を編み出していく。一箇所に留まって修行をした結果、自分がいかに未熟者だったか思い知らされた私が言うんだ。ルーシーにはそんな遠回りをさせるわけにいかないんだよ」


 沈んだ表情になったニコラは直後に何かを言いかけたが、すぐまた口をつぐんだ。それから旅に出る意志は変わらないことだけを伝えて、今後の方針について話し始めた。


 これまでは1ヶ月に2回の割合で村に来ていた回数を、週に1度は必ずルーシーと村に来て交流を図ることになった。村に来て何をするのか、ニコラは壇上の壁にある黒板に箇条書きで説明を始める。


 いつものように物々交換をすること。

 期限が短い薬の長期保存の方法を教えること。

 ルーシーも交えて子供たちに勉強を教えること。

 硬貨や紙幣を使った買い物の仕方をルーシーに教えること。 


「それからルーシー、お前は私が物々交換や村人たちに薬の保存方法を伝授している間に村の子供たちと一緒に遊ぶこと。いいね」


 それがそんなに重要なことなのだろうか、とルーシーは眉根を寄せて無言のまま疑問を投げかけた。たくさんの村人たちがルーシーへと視線を向ける。

 その緊張から質問を口にすることが出来ず、目線で訴えるしか出来なかったからだ。


「友達を作るなとは言わない。作れ、とも言わないが。1年後に仲良くなった友達と別れて旅へ出る時に、きっと離れるのが寂しくなるだろう。私はその経験も大切だと考えている。普通の人間らしいことをこの村でたくさん学んでほしいんだ。それが今のお前に最も必要な経験だと私は思う」


 ニコラは本当に不思議な女性だった。何もかも見透かしてるような、前世のルーシーのことを全て知っているような、そんな風に思わせる言動がこれまでに何度もあった。

 もしかして本当に全部知っているのだろうかと、何度思ったことだろう。氷結の魔女ニコラはなんでもお見通しのようだ。

 師匠であるニコラがそう言うならばルーシーはそうするしかない。むしろそうしたいと思った。

 ルーシー・イーズデイルの時には人間の友達はおろか、同世代の子供と一緒に遊んだ経験など皆無だった。夢見たことだった。自分に友達がいて、友達と笑いながら楽しく遊ぶ自分の姿を何度も想像した。

 だからこそニコラの言葉を、言われたことを拒否する理由はどこにもない。ありはしなかった。


「そういうことだからみんな。どうか私共々、1年間よろしくお願いするよ」


 深く頭を下げるニコラ。その姿をきっとここにいる村人は1度も見たことがないのだろう。中には『そこまでしなくていいよ』と言いながら、立ち上がり『こちらこそよろしく頼むよ』と握手を求める者もいた。

 ニコラは本当にここの村人から愛されているんだろうなと、ルーシーは誇らしく羨ましく思った。


 ニコラが村人たちを集会所に集めて話をしてからおよそ2時間ほど経っていた。送迎に来るトナカイと約束していた夕刻の頃合いまであと2〜3時間といったところだった。

 大事な話というのはこれでひとまず終わりということになり、細かい内容や追加することがもし他に出て来れば村長に話をしてからまたみんなに伝えるということで解散となる。

 集会所の前でみんなが帰っていくのをニコラは見送り、それから最後になった村長夫妻を呼び止めて再び集会所の中へと入って行った。当然そこにはルーシーも同席し、温かいコーヒーとココアを奥さんが用意しに行ってる間に3人は適当に椅子に腰掛けて、先ほどとは打って変わった小さい声でニコラは話を続ける。

 話の途中で口をつぐんだ、あの時の言葉を今ここで話すつもりだ。


「村長にだけは話しておこうと思ってね。ルーシーを弟子にして、魔女の修行をするのには理由がある」


 一呼吸置いて、笑いなど一切ないと言わんばかりの真剣な表情をしたニコラは決心したように口にする。


「私は氷結の魔女を引退するつもりだ」


 村長が驚きの声を上げる。ニコラは両目を閉じて、ゆっくりと続けた。


「恐らく私の、魔女としての寿命はそれほど長くはない。保ってあと15年か……、それくらいだろう。長く聞こえるかもしれないが、そんな年月あっという間さ。だから私の後継としてルーシーの育成に力を入れることにしたんだよ。その為には私の時のようにチンタラ修行してたんじゃ15年なんて、かき氷を作る程度の魔法しか使えやしない。それで困るのは私でもルーシーでもなく、ここスノータウンの住人さ。さっき説明した雪崩対策も一時凌ぎみたいなもので、永久に防げるわけじゃない。ルーシーが引き継いで村を守れるようになるまで、私が育てなけりゃいけないんだ」

「しかしニコラ、また突然そんな……。他に何とかならんのか」

「魔女は不老不死でもなんでもない。その魔女の特性次第ではそれに近しい魔法で生き永らえている魔女もいるだろうけどね。私はもう、腹を括った。私の魔法は、ある時が来れば朽ちてしまうだろう。それが私の魔法の特性だからね。どうしようもないんだ。これは他の村人には秘密にしておいてくれないかい。憐れんだ目で見られるのはまっぴらごめんだ」


 ニコラの告白に村長の顔色は真っ青になって、白い髭を指でさすりながら落ち着こうとしている様子だ。飲み物を持ってきた奥さんも途中から話を聞いて、口元に手を当ててショックを隠せない。

 それはもちろんルーシーも同じだった。魔女の寿命なんて聞いていない。弟子になるとは、氷結の魔女の後継者として育てられることであって、一緒に魔女として暮らしていくことではなかったのだと思い知った。


「ルーシー、お前にも突然酷な話をしてしまったが……、そういうことだ。私の魔女としての寿命が尽きるまでに、私はお前を立派な魔女として育て上げる。それ以外の生き方がしたいなら、……ここでお別れだ」

「そんな言い方しないでください!」


 ルーシーは思わず大声で叫んだ。あんまりだった。自分は心からニコラを尊敬していた。恩人だった。ニコラの為ならどんなことでも耐えられる覚悟で、弟子になるつもりだった。今さら『後継者になるのが嫌ならお別れだ』なんて言われて、黙っていられるはずがない。


「私はお師様の弟子になる決意をしたのに、そんな話を聞いたくらいで弟子になるのをやめようなんて思うはずないじゃないですか! 私は何も考えないで、なんとなくでお師様の弟子になったんじゃありません! そんなずるい言い方はやめてください!」


 怒りに任せて叫んだのはこれが初めてだった。イーズデイル夫妻にも、妹のソフィアにも、屋敷の執事や使用人にも、怒りを見せたことは1度もなかったというのに。

 胸の奥がもぞもぞとして気持ち悪かった。我慢するにはあまりにも耐えられなかった。呼吸まで浅くなり、目の前がまるでめまいを起こしているようにふらふらとぐらついている。耳鳴りがしてニコラたちの声が届かない。


「悪かったよ、私が悪かった。興奮して頭に血が昇りすぎている。落ち着いて、ゆっくり呼吸するんだよ」


 慌てるようにニコラがルーシーの肩を抱き、椅子に座らせ落ち着かせる。あまりに突然の出来事でルーシーは頭の中が今度は真っ白になった。


「拾ったのなら最後まで面倒を見るんじゃな」

「あぁ……、そうだね」


 ニコラは反省するように目線を下げ、ルーシーが元に戻るまで背中をさすり続けた。罪悪感で介抱するニコラに、ルーシーもまた罪悪感があった。

 魔女の弟子になることを了承したのは、自分の為だったからだ。前世の自分を散々酷い目に遭わせて、挙げ句無実の罪を着せて火あぶりに処した両親と妹に復讐する力を得る為。

 それを理由に弟子になる決意をした。しかしそれをルーシーはニコラに1度たりとも話したことはない。復讐に利用する為に魔女の弟子になったことを知られたら、それこそ破門される可能性があったからだ。

 そんな後ろめたい気持ちがあるから、ルーシーはニコラのことを全面的に責めることは出来ないはずだった。

 ルーシーは心の中で何度も謝罪した。

 復讐の為に後継者になる道を選んで、申し訳ないと。

 氷結の魔女の名前を汚すかもしれない自分が弟子になって、ごめんなさいと。



 *** 



 集会所での話が全て終わると、ニコラとルーシーは集会所の前で村長夫婦と別れた。それから集会所に置いてあった物資を2人で分け合い門へと向かう。

 見ると村の出入り口の門の前にはトナカイが大人しく待っていた。ニコラが片手を振って合図を送ると、トナカイは鼻を鳴らしてそれに応える。

 ソリに荷物を下ろし、ニコラはトナカイに手綱を付ける。2人がソリの御者台に乗り込んで、ニコラが手綱を引くとトナカイがゆっくりと歩き出した。


「待たせてごめんなさい」

『別に待ってはいない。約束だからな』


 ぶっきらぼうだがルーシーの言葉に答えるトナカイ。雪道をスムーズに歩いている間、しばらくは無言だったが不意にニコラの方からぽつりぽつりと話しかけてきた。


「ルーシー、目覚めたばかりだというのに色んなことが起きてばかりですまなかったね。だけど集会所でも話したように、私には時間がなかった。お前の状態を整えてから始めることは出来なかったんだよ」


 集会所での話し合いがあってから、ニコラはどこかおとなしい雰囲気になっていた。ルーシーが知る限りのニコラは、どんなことがあっても軽くいなすほどの強さと勇ましさがあった。誰にも負けない度胸、1言ったら100は言い返されそうな口の強さ。しかし今は風が吹いたら飛んでいきそうなくらいに弱々しく見えてしまう。


「いいえ、私はむしろ感謝しています。お師様に命を拾っていただき、魔女の修行までつけてもらえる。こんな幸いなことはありません。私はとても果報者です」

「そうかい、お前がそう言うなら信じよう。ただし魔女の修行はとても辛く厳しいからね、その覚悟だけは改めてしてもらうよ」

「あ……、はい……」


 強さが戻ってきたような気がした。表情にも余裕の笑みが浮かんでるように見えて、ニコラに元気が戻って良かったと安堵するルーシー。しかし本当に今日は色々なことがあり過ぎて疲れたのも事実だ。

 帰ったらそのままベッドに寝転びたいところではあるが、居候の身であり弟子の身分である自分がそんなことをしていいはずがない。帰ってからも師匠であるニコラの為に雑務をこなさなければいけなかった。

 休んでいる暇がないことには慣れている。ただこの肉体が慣れていないだけだ。


 なだらかな雪道を突き進み、ようやくニコラの家が見えてきた。トナカイは家の前で止まるとニコラが手綱を外すのを待っていた。


『さっさとこれ外してくれ。窮屈で仕方ない』

「お師様、手綱を早く取って欲しいみたいです。これ、どうやって外すんですか?」

「待ちな、それは私がやるからルーシーは軽い荷物を先に家の中に運んでおくれ。それからお風呂の準備をしてくれないか」

「わかりました」


 ニコラから薪に火をつけることが出来るか訊ねられ、大丈夫だと答えた。ルーシーには生前の記憶が残っている。それは当然生きる為に必要な生活力に関する記憶もそうだ。

 ここに来て常々思うことだが、あの家でルーシーの役に立ったことといえばなんでも自分1人で出来るようになったことだけだ。そこにだけ感謝をしつつ、ニコラに言われた通りに軽い荷物を家の中に運んだら、急いで風呂場の反対側まで走って行った。

 裏手には薪をくべる窯炉(ようろ)があり、そこに乾いた薪をくべる。しっかりと薪に火がつくように空気の通り道もちゃんと確保しながら並べていく。着火の材料に枯葉を必要な分だけ敷き詰めて、マッチで火を付けると枯葉から薪へと燃え広がっていく。空気を送る為の筒で息を吹きかけ、火の回りを早めていった。

 あんまり燃えすぎると薪がすぐにダメになってしまうので、ほどほどの加減で強弱をつける。しかしやり方を覚えていても、5歳の肺で吹きかける空気量はこれでよかったのか時折不安になる。

 燃え方などに注意を払って大体これくらいでいいだろう、とルーシーは手にミトンをはめてから窯炉の蓋を閉める。

 しばらく格子状の窓から中の様子を窺って、火の状態を確認してから玄関先へと走って戻った。


 玄関先ではニコラが最後の荷物を家の中に運んでいる最中で、それを手伝おうとするも止められる。重い荷物はニコラ自身がやると言って、ルーシーは細かい材料の仕分けと整理整頓を任された。

 袋や箱の中から様々な日用雑貨と食材が出てくる。

 リビング、トイレ、お風呂、寝室、それぞれに分類してテーブルに並べていった。食材は台所にある野菜室にしまい、冷凍状態になっている肉類や魚類は外にある冷凍庫へ持って行った。


「天然の冷凍庫、といった感じかしら。生ものが腐らずに保存しておける場所があるのって便利ね。こうやって鍵をかけてしまえば野生の動物が漁りに来ることもないし。あ、そうか……凍ってるから臭いなんてしないんだわ」


 そんなことを思いながらルーシーは引き続き後片付けをしに家の中に戻る。

 ほとんどニコラがテキパキと片付けていくので、お風呂の準備の続きを始めるルーシー。2階へ上がって着替えやタオルを持って来ようとした時にニコラが声をかける。


「私は今から夕食の準備に取り掛かるから、私の分の着替えは用意しなくていいよ。湯が沸くまで片付けの続き、夕食作りの手伝い、その頃にはお風呂に入れるだろう」


 そう指示されてルーシーは懸命に手伝った。少しでも印象良く、鈍くさいと思われないように、自分は役に立つのだとアピールする為に。

 だがそれ以上にルーシーはニコラに気に入ってもらいたかった。ただルーシー自身が自分の本当の気持ちに気付いていないだけだ。

 今まで『迷惑をかけないように』『ヘマをやらかして怒られないように』という思いだけで過ごしてきたルーシーは、イーズデイル家の者に対して『気に入ってもらいたい』『嫌われたくない』という思いを持つことなどとっくに捨てていた。

 それが絶対に敵わないものだとわかっていたからだ。ニコラに対しても、それと同じなんだとこの時は思っていた。


 ニコラの宣言通り夕食の準備の途中で湯加減を見に行ったら、お風呂のお湯はいい具合に温まっていた。ニコラに一声かけたら『風呂場にあるバスキューブをついでに入れておきな』と言われ、結果その流れでルーシーが先にお風呂に入ることとなった。

 もっと身長が伸びたら、夕食の準備は自分がして、ニコラに先にゆっくりしてもらえるようにならないと、と心の中で思いながら。

 着替えはすでに洗面台まで持ってきていたので、ルーシーは衣類を脱いでいく。そして忘れてはならないのが今日初めてプレゼントされた髪飾りだ。少女が一生懸命作ってくれた赤いヘアピンを無くしてしまわないように大切に棚の上に置く。

 そしてカラカラと音を立ててガラス戸を開けると温かい湯気が立ち込めた。とても良い香りが充満している。風呂場にある石鹸類が香っているのではない。先ほどニコラに言われたものを湯船に入れたからだ。


「これがバスキューブの匂い? お風呂に入れたらこんな風になるんだ。知らなかった……」


 ニコラお手製のバラのオイルで作られたバスキューブは湯船でゆっくり溶かされ、湯気と共にバラのかぐわしい香りが鼻腔をくすぐる。ルーシーが湯船に手を入れてかき混ぜると、お湯に少しとろみがついている気がした。

 風呂桶にそのお湯をすくってまず体にかけ流す。湯船に浸かったことがないので、汚れたままの体で入るのが躊躇われた為だ。それからゆっくりと湯船に浸かって体を温める。

 バスキューブは湯船に溶かした石鹸のようなもので、入って肌を撫でるだけで汚れが落ちてバラの香りが全身を包み込んでくれるようであった。薄着では凍ってしまいそうな外から帰って来て、家の中の暖炉にも真っ先に火をつけて、片付けなどで動き回っていたとはいえ体の芯はまだ冷えていた。

 お風呂の湯加減が全身を温かくほぐし、1日の疲れを全部洗い流してくれるようだ。

 バスキューブのお湯だけで汚れは落ちていそうなものだが、ルーシーは湯船から出るとこれもニコラお手製の石鹸だろうか、とてもいい匂いがして髪の毛や体を洗うのが楽しくなってくる。何度も思い出されることだが、これまでは肩まで湯に浸かることなど考えられなかった。

 ぬるくなったお湯をかけて汗と汚れを洗い流すだけのお風呂。もちろんかぐわしい香りの石鹸で全身を綺麗に磨いたことなど今までなかった。これがお風呂――なんて心地いいんだろう。ルーシーはお風呂の時間が大好きになりそうだった。

 気持ち良すぎていつまでも入っていたい気分だったが、お風呂のガラス戸の向こうから声がして夢見心地から現実に引き戻される。


「いつまで入ってるんだい。もう夕食の準備はとっくに出来たんだから、お前も早くお風呂から出ておいで」


 そう威勢良く声が聞こえたかと思ったら、小さな声で「こっちが風邪引いちまうよ」と聞こえたものだからルーシーは慌ててお風呂から出て行った。

 ニコラと入れ違うようにキッチンへ向かうと、今日スノータウンで仕入れた生野菜のサラダに塩パン、そして甘く美味しそうな匂いが鍋から香ってくる。 

 

「この匂いは、クリームシチュー?」


 鍋の火は消したばかりのようなので、熱がこもっている間にルーシーはクリームシチューだけはまだ皿に移すことなく、サラダやパンを皿に取り分けてスプーンやフォークを並べていった。

 それからガラスのコップに水道水を注いでテーブルに置く。ニコラから聞いたが、この家の水道水は山から流れる清水と雪解け水で出来ているそうだ。不純物が混じっていないということで安全に美味しい水を水道の蛇口から飲むことが出来るらしい。

 魔女と一口で言っても生活の基盤は普通の人間のものと何ら変わりはない。それこそなんでも魔法を使って生活を楽にしているわけではないということを、ニコラとの生活で少しずつ知っていった。

 食事の準備はこんなところでいいだろうと、今度は踏み台を鍋が置いてある場所に置いて上がる。それでも鍋の中身がやっと見えるといったところだった。

 かまどにもう一度火を起こしてシチューを温め直す。鍋に焦げつかないように、時々ゆっくりとおたまでかき混ぜていると背後からドアの開閉音が聞こえた。


「夕食の準備は完璧だね。ありがとよ」


 お礼を言われ思わず顔が綻ぶ。恥ずかしくてこくんと小さく頷くだけで、ルーシーはそれ以上ニコラの方へと顔を向けることが出来なかった。お礼を言われることがこんなにも嬉しいものだなんて思わなかった。

 尊敬するニコラから言われたからだろうか?

 そうだとしても、これだけは確かだ。『ありがとう』という言葉には絶大な力があった。魔法の言葉のようだった。そのたった一言でこんなにも喜びを与えてくれる言葉が他にあるだろうか。

 前世では人々から一度たりとも『ありがとう』と言われた記憶がない。だからこそこれだけ強く感じられたのかもしれないが、ルーシーは『ありがとう』という言葉をもっと大切に、そしてたくさん伝えようと強く思った。

 他の人たちがルーシーほどの感動を得るかどうか知る由もないが、それでも『ありがとう』という言葉はこんなにも心を豊かにさせてくれるものだと思ったから。

 にやにやと微笑みが止まらず、無言のままおたまでシチューをかき混ぜ続けていると、ニコラから今度はありがたい叱責をいただいた。

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