第4話 『お友達』

 その日の夜、ルーシーはまた夢を見た。

 前世のルーシー・イーズデイルだった頃の記憶。

 思い出したくもない記憶だが、復讐の炎を絶やさない為に決して忘れてはならない情報。


 ルーシーが完全に孤独となる悲しい記憶……。



 ***



 ルーシーはイーズデイル家にとって忌まわしい存在として扱われ続けていたが、決定的に歯車が狂い出したのはルーシーが10歳になった頃だった。

 ここよりずっと遠くの地域で魔女が人間を大量虐殺したとの知らせが届いた。それまで魔女というものは知恵者として頼れる存在であったものが、この大事件をきっかけに戦争にまで発展するほどの恐ろしい存在なのだと人々の間で認知され始める。

 話によるとその魔女の名は『遠雷の魔女』と呼ばれていた。

 その情報が入った途端、イーズデイル家に住む人間のルーシーを見る目が、蔑みから恐怖へと変わってしまった。


「奥様、私……とてもじゃありませんが、これ以上あの子と一緒に働くのは恐ろしくて……」

「なんですって? あの子はまだ小さな子供よ。遠雷の魔女の噂だって、あれは元々邪悪な思想の持ち主であったと聞くわ。その為の知識と魔力を研鑽した結果、あんな悲劇が起こっただけで……」

「わかっています、別にあの子に何かされたというわけではありませんが。あの銀色の髪と真っ赤な瞳を見ただけで、心臓が縮み上がるんです」

「……とにかく、あの子は何も知らないただの子供。妙な知識さえ与えなければ、きっと普通の人間と変わらず育つはずよ。何かあればいつものように折檻すればいいだけの話だわ。逆らえないようにしっかりと体に覚えさせておけばいいの。だから二度と私の前であの子の話をしないでちょうだい。話があれば執事を通して。わかったら早く出て行きなさい」


 ルーシーは比較的大人しい性格で、とても利口な少女だった。ずっと世話をしているロマーシカやソラの他にも、雑務を教える使用人達が言うように、普段の日常生活で問題を起こすことはほとんどない。しかし使用人の間ではある噂が広がっていた。

 やがてその噂話はイーズデイル夫妻の耳にも入ることとなる。

 ソフィアを寝かしつけた後、夫妻は互いに不安を話し合っていた。寝室のドアには鍵を閉め、窓もカーテンで閉め切り、2人は寝室にある肘掛椅子に腰掛けて声を潜め吐露する。


「あなたも聞いたでしょう。ルーシーのことよ。普段は特に変わった様子はないけれど、あの子時々どこかおかしいと思うところがあって。ずっと気のせいなのだと思っていたけれど、この間メイドが話していたところを耳にして確信したというか」


 湧き上がる不安を抑えようと、夫人はワインを一口飲んでは話を続ける。夫は黙ってそれを聞いていた。


「あの子、何もないところで1人でぶつぶつと独り言を言っている時があるのよ。最初は空想で作った友達か何かに話しかけるような、そんなままごとみたいな遊びでもしているのかと思っていたわ。でも違った。あれは間違いなく、『何か』と会話をしていたわ。ままごと遊びなら棒読みのセリフだったり、笑い方も演技くさくなるものでしょ。でもあの子の場合はまるで目の前に誰かがいるように、明らかに会話を楽しんでいるという感じだった」


 その光景を思い出した夫人はぶるっと体を震わせる。今でも背筋が凍るような思いだった。


「精霊、か……」


 夫は一言、絞り出すようにそれだけを口にした。

 生来の魔女はその魔力が高いほど、自然の中に存在する精霊を見たり話したり出来る力を持っている。多くの魔女は精霊の声を聞き、それを頼りに物を探したり、魔力を行使したりするという。

 これまで何事もなく過ごしてきたルーシーにようやく現れた魔女の力の発現に、両親は頭を悩ませていたのだ。これまで関わりを持たないように距離を置いて放置していたが、次第に屋敷内での雑務内容が増える毎にルーシーを目にする機会が増えていた。そうすると自然にルーシーの行動が目につくようになる。

 これまで空気のように、目に見えない存在のように扱ってきたルーシーが成長するに従って、彼女の一挙手一投足を観察するようになっていき、やがて異様と取れる行動が気になり始める。

 そういった『自分達の理解を超える行動』が目立ち始めると、感情より本能がルーシーを嫌悪してしまう。人間とは自分と異なるものを排除したがる生き物なのだ。そんな人間としての本能は娘を愛しているはずの両親でさえも例外なく、魔女に対する差別意識というものを強く抱かせていた。


「私達どうしたらいいの? このままじゃソフィアにも何かしら影響を与えてしまうんじゃ」

「そうだな、ソフィアはルーシーと違って普通の人間だ。何かあってからでは遅い……」


 イーズデイル夫妻の話し合いの末、ある決まり事が出来た。

 それは屋敷の外での他言は一切無用という厳しいもので、それを破った者は解雇以上に厳しい罰が下されることになる。イーズデイル当主は執事にその詳細を伝えると、これを全ての使用人に認知させ、遵守するよう命令した。


『魔女は繋がりを何より大切にする』という言い伝えがあった。

 繋がりは縁でもあり、知識でもある。過去から現在、未来へと紡がれる繋がりが魔女の見識を高め、より魔力の研鑽へ繋がるとも言われている。

 おとぎ話では魔女というものは山奥の家に1人でひっそりと住んでいるように書かれているが、それはあくまで人々から忌避されている魔女が人間から遠ざかるように生活圏を山奥にしているだけだ。

 魔女に対する偏見がない地域では、魔女が近所に住んでいることもあれば宮廷魔術師として城に迎え入れられている場合もある。故に人々との繋がりが深い魔女はより魔力が高く、より優秀であることが多いとされている。

 イーズデイル当主はこう考えた。

『それでは他人との繋がりを断ち切れば、魔女としての能力が著しく低下するのではないか』と。 

 ルーシーから他人を遠ざけ、家族を遠ざければ安全なのではないか。

 そうすればルーシーが魔女として完全に覚醒することはなく、一生奴隷として仕えさせることが出来るだろう。

 大切な『一人娘のソフィア』を傷付けることなく、ルーシーから守ることが出来るだろう。

 父親はルーシーが魔女というだけで短絡的な思考を働かせ、そしてそれを実行に移したのだ。


 そうとは知らないルーシーは、今日もまたいつもと変わらない日常を送るものだと思っていた。ルーシーの寝室にある窓の外には小鳥がさえずっていた。天気のいい日は毎日のように、小鳥がくちばしでコツコツと窓を叩いてルーシーに朝が来たことを告げてくる。


『おはよう』

「おはよう、小鳥さん。今日もいい天気なのね。いつも教えてくれてありがとう」


 小動物の言葉がわかるようになったのは物心ついた頃からだ。

 初めて小動物の言葉が聞こえたのは、ルーシーが3歳の頃。雑務などを教え込まれる少し前、ソラの目を盗んで勝手に外に出たことがあった。

 かくれんぼと冒険を同時にしているつもりで抜け出したルーシーは、屋敷の周囲を走り回っていた時にその声は突然聞こえた。

 『危ない』と聞こえた瞬間、ルーシーはガーデニングの途中で放置されていた小さな穴にはまって転んでしまう寸前だった。もし何も気付かずに穴に片足を突っ込んでしまっていたら、足首を挫いていたかもしれなかった。

 突然聞こえた声に最初は世話役に見つかったのだと思ったが、しかし周囲を見回すと誰もいない。上を見ても誰かが窓から見ているわけではなかった。

 不思議に思っていると、側の木に止まっていた小鳥がまるでこちらを見ているようにじっとしていたのだ。まさかそんなはずはないと思っていたルーシーだったが、次の瞬間『危なかったね』という声が小鳥の方から聞こえて驚いた。


 小動物は決して饒舌ではない。言葉を交わせるといっても一言二言、本当に短い単語を発するだけだ。『おはよう』『晴れてるよ』『元気だね』といった風だ。しかしそれだけわかれば十分会話は出来る。

 ルーシーは嬉しくなってソラ達に話そうとしたが、飼っていた犬のジェットがそれを制した。『動物と会話が出来ることは誰にも話してはいけない。秘密にしておくように』と言われ、ルーシーはそれを守った。

 しかしまだ幼かったこともあり、動物と会話が出来ることは誰にも話していないが、動物と会話をする姿を誰にも見られてはいけないということまで意識していなかった。その為ルーシーは周囲から見れば『見えない何か』と会話をしているように捉えられた。


 ルーシーはいつものように窓を開け放って挨拶してきた小鳥に手を差し出す。すると小鳥は慣れたようにルーシーの手に止まって、何気ない会話を少し交わすとすぐにまた外へ出て行ってしまった。

 ルーシーはソラが起こしに来るまでに着替えを済ませ、それから顔を洗い、髪をヘアブラシで梳かす。普段なら着替えをしている頃合いにはロマーシカかソラが入って来て、身支度を手伝ってくれたのだがなぜか今日は2人が来るのがとても遅く感じられた。

 もしかして早く起きすぎたのかと時計を見るが、いつもと変わらない時間だった。むしろ身支度を終えた今となっては、かなり時間が経過している。

 加えて言うなら、小鳥が起こしに来る時間も大体同じ頃合いなので、勘違いに気付かないわけがない。

 不思議に思ったルーシーは部屋を出ると従業員用の食堂へ向かった。   

 ぎぃっと鈍い音を立てて観音開きの大きなドアを開けて中を覗き込むと、ソラ達はとっくに席に座って朝食を食べようとしているところだった。


「えっ、どういうこと?」


 一瞬ルーシーの胸がズキリと痛んだ。

 自分はまだ部屋にいて、朝食に呼びに来るのをいつものように待っていたのに。どうしてみんなはとっくに来ているんだろう。何かがおかしい。見れば誰1人として、食堂のドアを開けたルーシーを見ようともしていない。まるでそこには誰もいないかのように。

 他の者がルーシーを無視するのはわかる。これまでも仕事以外で会話をしたことがないからだ。しかしソラ達は違った。ルーシーにとって唯一心を開ける数少ない人間だった。ルーシーはドキドキしながら、これまでと全く違う状況に答えを求めるようにソラ達へと駆け寄った。

 それでもあえて目を逸らすかのように、チラリとも見ようとしない。


「ソラ? ロマーシカ? どう、したの? なんで……」

「いいから早く食べなさい」

「えっ」

「仕事が山積みなんだ。無駄口叩いてる暇なんかないのよ」


 ロマーシカとソラの口から放たれた冷たい言葉。

 今まで2人からそんなひどい言葉をかけられたことがなかったルーシーには衝撃が強すぎた。それでも2人はルーシーを見ようとせず、黙々と朝食を食べ続けている。急ぐように食べ終えると、食器をすぐさま片付けて持ち場へ向かう。

 わけがわからないルーシーは、何が起きているのか。それを誰に聞いたらいいのかわからない。今まで何かあれば2人が教えてくれた。優しく、丁寧に、ルーシーでもわかるように説明してくれていた。そんな2人が目も合わせず無言で立ち去ってしまった今、ルーシーは誰に説明を求めたらいいのかわからない。

 おろおろしているルーシーに1人の男性が声を投げかけた。

 振り向くそこには黒の燕尾服を身に纏った初老の男が立っている。彼はこの屋敷の執事で、屋敷内の一切をイーズデイル当主から任されている総責任者でもある。ルーシーは彼の存在を知ってはいたが、彼と言葉を交わすのは初めてだった。


「ルーシー、今日からお前の世話をする者はおりません」

「えっ?」

「お前はもうすぐ10歳となる。1人で何でもこなさなければいけません。その為にはいつまでも甘えている暇はないのですよ。これからは自分のことは自分でして、屋敷内の雑務をこなし、イーズデイル家の為に働くのです。今までお前の面倒を見ていた2人も通常の仕事に戻ります。お前の世話役を解任されたのですよ。言葉の意味がわかりますか? あの2人はもうお前の面倒は一切見ないということです。わかったらさっさと仕事に向かいなさい」


 捲し立てるようにそう言うと、執事は毅然とした態度のまま食堂を出て行ってしまった。

 あまりに長い説明で全てを理解することが難しかったルーシーは、ただ1つ「2人はもう自分に優しくしてくれない」ということだけ理解出来た。

 たった2人だけの心を開ける相手を、ルーシーは突然失うこととなった。


 朝食を済ませ、自分で食器を洗って片付け、それから日々の仕事を開始する。まずは床磨きだ。これは毎朝の日課の1つである。この時間帯の父親は仕事で外出中、母親はソフィアと外でゆっくりと過ごしていた。つまり家族の誰とも顔を合わせることのない時間帯なのだ。3人が屋敷の外に出ている間に、ルーシーは屋敷内の掃除を昼までずっと続けることになっている。

 他の使用人が洗濯を手伝えと言ったら手伝いに行き、他の雑務があるようならそちらへ駆り出されるが、今日はそんなことはなく1人静かに廊下の拭き掃除をしながらルーシーは涙を流していた。


「どうして……、どうして私はひとりぼっちなの。なんでみんな私のこと嫌いなの……」


 そんなことをこぼしながら床を磨いていると、いつからあったのか花瓶が置いてある台の下にある壁穴からネズミが顔を出して話しかけてくる。


『それは君が特別だからさ』

「特別って何? 特別なのはソフィアよ。私はただ家の中を掃除するだけの人間だわ」

『こうやって動物と話せるのに? 君の妹は動物と話す力はないよ』

「そうなの?」

『そうさ。君は何も知らされていないだけ。君は特別な力を持った特別な人間だ。だからみんな君に意地悪をするんだよ』


 褒めちぎるネズミに、しかしルーシーは寂しそうな表情になってつぶやいた。その言葉はルーシーが欲しい言葉ではなかったのだ。


「それなら、私は特別じゃない方がよかったな。そしたらお父様とお母様、それにソフィアと一緒にみんなで仲良く暮らしていたかもしれないのに……」


 そんなルーシーの言葉にネズミはぐぬぬと唸り、それならばと考え方を逆転させた。


『それなら僕達を頼るといい』

「え?」

『別に君の味方がいなくなったわけじゃない。なぜなら僕達はずっと君の味方でいられるからさ。僕達はこの屋敷の人間じゃないからね。だからここのご主人様の言うことを聞かなくてもいいってことなんだよ』


 ネズミにそう言われ、ルーシーは眉根を寄せて不満を露わにする。


『えぇ!? 僕達じゃご不満かい!?』

「だって……」

『少なくとも話し相手がいなくなるわけじゃない。悪いことばかりじゃないと思うんだけどなぁ』


 懸命に自分を励まそうとするネズミの姿に、ルーシーはため息をつきながらもその発想を受け入れることにした。確かにこうやって自分とまともに会話をしてくれるのは、もはや動物しかいないと思う。

 ロマーシカやソラが自分達の意思で無視しているとは考えたくないが、これから誰も会話をしてくれないのであれば、もはや人間の中にルーシーの味方はいないと見ていいのかもしれないと思った。


「わかったわ、それじゃあよろしくね。あんまり堂々とお話ししたりは出来ないけれど」


 ルーシーが動物と何気なく会話をしている時に、自分を見る使用人達の目が気持ち悪いものを見ているように感じたことがある。動物との会話には注意しなければならないと、今のルーシーは理解していた。



 ***



 頬を伝う涙で目が覚める。

 これまでずっと辛かったが、恐らくルーシー・イーズデイルにとって最も辛い記憶だ。


「どうして忘れていたんだろう。ロマーシカ……ソラ……、2人とも私にとても優しくしてくれていたのに」


 全ての記憶を思い出していたのかと思っていたが、ところどころ欠けている部分があった。それは遠い過去の記憶を掘り返すようなもので、何かしらきっかけがないとはっきりとは思い出せない。

 だが今回の夢でルーシーは自分の世話役の顔と名前を思い出した。だからどうというわけでもないが、2人の存在がとても懐かしい。また会いたいとも思うが、きっと不可能だろう。

 今ではこんな見ず知らずの赤の他人の外見をしている。何よりルーシー・イーズデイルは火あぶりに処されて殺されたのだ。もうこの世に存在しないはずの人間。それに自分が死んで生まれ変わってからどれほど時間が経過しているのかすら知らない。


 ルーシーがそんなことをベッドの中で考えていると、下の階で物音が聞こえた。

 ここは家の主である氷結の魔女ニコラがルーシーに与えた個室である。こじんまりとしているようで、なかなか広く大きな家だ。1階は主に生活圏のほぼ全てを担う場所、キッチンがあり食事をする場所。トイレにお風呂、そしてなぜかキッチンに併設するように薬品の調合をする場所もあった。


「ニコラが言うには2階にある寝室の近くで調合すると臭いが酷い時があるから、調合場所は1階にしたみたいだけど。食事する場所の近くで変な臭いを嗅ぐ方がどうかしてると思うんだけど」


 そんなことを思いながらルーシーは寝巻きから、ニコラが用意していたであろう普段着に着替えると物音がした1階へと螺旋階段を下りて行く。

 この間までいた幽魂の魔女ヴァイオレットのように、螺旋階段の途中からひょっこり顔を覗かせて様子を窺う。1階から聞こえた物音はニコラがキッチンで朝食を作っていたようで、ルーシーは慌てて手伝いに向かった。


「すみません、目覚めてからずっとニコラさんに任せてばかりで」


 そう謝罪しながらルーシーは手を洗おうとするが、水道の蛇口まで手が届かない。自分の体が5歳の少女になっていたことを唐突に思い出す。ベッドから起き上がった時も、着替える時も、螺旋階段から顔を覗かせた時も自分の身長が低いという意識はあったはずなのに。

 咄嗟に動こうとすると18歳だった自分の背丈で行動してしまいそうになる自分が恥ずかしかった。なんて間抜けなんだろうと顔を真っ赤にして俯いていると、ニコラは何とも思っていないというような口調でいつも通り話しかける。


「ルーシー、ここはいいから顔を洗ってきたら食事の準備をしてくれないかい。食器棚はそこだ。お前でも届く位置に全部あるから」

「あ、……はい」

「それと私のことは師匠と呼べばいいって言ったろう。お前にさん付けで呼ばれるのはどうもむず痒い」


 そう言われ、ルーシーは自分がこの魔女の弟子になったことを思い出す。そして料理を手伝えない自分のことを気遣ってくれる優しさに、ルーシーは胸が熱くなってきた。こんな風に人として扱ってもらえたこと自体、一体何年ぶりになるのかわからない。

 より一層、ニコラの期待に応えたいと思った。


「はい、ありがとうございます。お……、お師様……」


 照れながらそう言うと、ルーシーは言われた通りに洗面台へと走って行った。ニコラはその様子を横目でちらりと追ったが、すぐまたフライパンでジュウジュウと音を立てている目玉焼きへと視線を戻す。


 ルーシーの体に合わせるように、洗面台の側には折り畳み式の脚立が立てかけてあった。それを広げて洗面台の前に置いて上る。ピカピカに磨かれたような大きな鏡に映し出される自分の現在の姿。銀色の髪は腰まであり、少しウェーブがかっているが魔法でもかけられたように広がることなく綺麗にまとまっている。

 ぱっちりとした大きな赤い瞳、そして長いまつ毛。当然まつ毛も銀色だ。

 そして雪国育ちを象徴するような白い肌。18歳の頃のルーシーは栄養価の高い食事を摂っていなかったので、肌は常にカサカサで潤いのひとつもなかった。

 夏の暑い日であろうと遠慮なく外の仕事を任されていたので、紫外線にさらされた肌は日に焼けてボロボロだった。

 そして質素な食事であったが、日々の重労働で体はとても細い割に重いものを運べる程度の筋肉だけはあった。奴隷のように働き詰めだった頃の自分と比較すると、今の外見はいわばお姫様のようだ。

 過酷な労働を強いられることが一度もなかったのだと思わせるような、とても美しい外見。

 そう、それはまるで妹のソフィアを彷彿とさせる。

 まるで自分じゃないようだと思いながら、それでもこれから先はこの体で生活していかなければいけないのだという半ば諦めにも近い感覚。


「今は余計なことを考えるな。とにかく今はお師様の言うことをきちんと聞いて、魔女としての修行を早く始めてもらうのが先決なんだから」


 魔女の弟子として相応しくないと見限られてはいけない。役に立たないグズなんだと、不要だと思われたらヴァイオレットのようにこの寒空の中追い出されるかもしれなかった。そうしたら復讐どころの騒ぎではない。

 小さな体で生きていく術が自分にはないのだから、追い出されることはすなわちルーシーの死を意味する。

 そうならない為にルーシーは少しでも良い子に、ニコラに気に入ってもらわなければいけない。


「いつまで鏡とにらめっこしてるんだい。食事はとっくに出来てるよ!」

「はいいい! すみません! 今すぐ行きます!」


 基本的にぼんやりとした自分の性格が本当に嫌だ。



 ***



 朝食を終えると、ニコラは出かける準備をしろと言い出した。

 てっきり魔女の修行のひとつとして植物の採集に行くのかと思っていたが、どうやら違ったようだ。


「えっ、村へ……ですか?」

「何かおかしいかい」


 魔女の子として忌み嫌われ酷い扱いを受けてきたルーシーにとって、魔女以外の普通の人間が自分達に親切に接してくれることなど有り得ないと思っていた。石を投げつけられるかもしれない人里へ、わざわざ行く必要があるのだろうかと考えていたらニコラが村へ行く理由を話して聞かせた。

 ニコラはいつも、ルーシーが疑問に感じた直後に丁寧に説明してくれる。まるでルーシーの頭の中を覗き込んでいるのかと疑ってしまう程だ。

 しかしニコラは魔女なのだから、他人の心を読むことが本当に出来るのかもしれないとさえ思っていた。


「こんな山奥じゃ生活に必要な物を全て揃えるのは不可能だ。私は別に自給自足の生活をしているわけじゃないからね。だから人里へ下りて、必要な物資を分けてもらうんだ」


 そう言ってニコラは薬品棚からいくつかの瓶を選り分けて取り出し、それらをテーブルの上に並べていく。他にも本棚から何冊か取り出し、それも平積みに並べた。


「ここにあるのは私が独自に調合した薬だ。鎮痛剤、酔い止め、解毒薬、胃腸薬、その他諸々。これらをお金の代わりとして物資と交換してもらうんだ。まぁ単なる物々交換だね」

「じゃあこの本はお師様が書いた物ですか? これも物資と交換を?」

「いや、それは交換する商品じゃないよ」


 それじゃあ何に、と言いかけたところで準備を急かされる。いつもちゃんと説明してくれるニコラのことだから、その内説明してくれるのだろうと信じたルーシーは、言う通りに身支度を整える。荷物の整理も手伝おうと思ったが、それはまた追々教えるということで手を触れることすら許されなかった。

 外は天気が落ち着いているとはいえ、かなり寒いということなのでかなり分厚く着込んだ。雪山で見失ってはいけないと、ルーシーの格好はほぼ真っ赤だった。

 ベルト付きの赤いワンピースに黒いタイツ、フード付きの赤いポンチョ、モコモコした雪山用の登山ブーツ。ニコラもほぼ同じような格好だ。

 ルーシーには複数の筆記用具が入ったリュックを手渡し、薬品や貴重品などはニコラが持つ。村までの道程がどれほどあるのか知らないが、まさかこんな雪道を徒歩で行くのだろうかと思った。

 しかしこの家に馬車があるようには見えない。普段のニコラはどうやって物資調達に村まで行っているんだろうと考えた。もしかしたら魔女なのだから普段は空飛ぶ箒で村へ行ってるのだろうかと想像する。

 そうなると空飛ぶ箒で飛んでいく素振りがないところから、箒で空を飛ぶことが出来ない自分のせいで徒歩で行くしかなくなったのかと心配した。


「馬車がないとでも思ったかい?」


 またも自分の心を見透かされているようで驚いた。しかしニコラが言い当てたのは、単純にルーシーが表情に出していたからに過ぎない。


「馬車はないけどソリならある。まぁソリを引く奴が素直に来てくれるかどうかが問題なんだけど」


 ニコラにしては珍しく不確定な要素が出てくる。いつもなら先を見越して行動に移していそうに見えるが、案外行き当たりばったりなところがあるのかもしれない。

 ルーシーはその『ソリを引く奴』について問うた。


「ソリと言えばこの辺りならトナカイだね。だけど機嫌がいい時にしかソリを引かない我が儘な奴なんだ。魔女とはいえ人間に飼われることは嫌ってるから、ソリで荷物を運ぶ時なんかはそいつの機嫌がいい時にしか頼めないんだよ」


 そして付け加えるように、普段は自分1人だけの物資で済むからそれほど大荷物になることもなかったそうだ。つまり今回からは魔女の弟子である同居人ルーシーの分の物資も運ばなければいけないから、ソリ無しでは厳しいとのことらしい。


「トナカイはこの家の周辺を住処にしている。機嫌のいい時は口笛を吹けば寄ってくるよ。寄ってきても近くまで来ない場合は、単純にこっちを遠目からバカにするのを目的にしているだけだ」


 渋い顔でそれだけ言うと、2人は玄関の外に出て周囲を見渡す。生き物の気配はするが、どこに何がいるのかまではわからない。

 ニコラが高らかに口笛を吹くと、その音に反応して木々から飛び立つ鳥、木の実を探していたであろうリスがそばにある木を登っていく姿がちらりと見えた。しかし大きな生き物が出てくる様子は見られない。

 もう一度口笛を吹く。すると奥の木々の間からのそりのそりと歩いてくる動物の姿があった。立派な角のあるトナカイがふんぞり返るような表情でぴたりと止まる。


「ちょっと時間があるなら手伝ってくれないかい。この子を連れて村まで行きたいんだ。頼めるかい?」


 しかしトナカイはふんと鼻から白い息を吐くと、ぶるるんと首を振流だけでその場から動かない。気のせいか、その顔はこちらを嘲笑っているように感じた。

 ニコラを困らせているようで少し腹立たしくなったルーシーは、2歩3歩と前に出る。あまり近付くと危ないとニコラが止めようとした時だ。


「お師様がお願いを聞いてちょうだい。あなたの力が借りたい。それだけよ」


 トナカイに話しかけるルーシーを怪訝に思いながら、止めようとした手を引っ込めるニコラ。


「言ってる言葉はわかっているんでしょう? 私からもお願いするわ。だからもっとこっちへ来てちょうだい」

『お前は俺と会話が出来るとでも思ってんのか。アホらし』

「アホなんかじゃない。あなたの言葉はちゃんと聞こえているし、理解もしてる」

『こいつは驚いた。お前、動物の言葉がわかるのかよ』

「あ……、そういえば……どうしてだろう」


 ルーシーは転生してからも動物と会話が出来ると、なぜ思ったのだろうと疑問に感じた。確かにルーシー・イーズデイルだった頃は動物と会話をすることが可能だった。しかしそれは前世のルーシーの肉体だったからじゃなかったのかと、今さら不思議に思う。

 もしかしたらこの少女の耳も動物の言葉がわかるようになっていたのだろうか。

 それとも魔女ならみんな動物の言葉がわかるものなのだろうか?


「驚いたね、ルーシー。あんた動物との意思疎通が可能なのかい」

「え? 魔女ならみんな出来ることじゃないんですか?」

「みんなじゃない。魔女ってのはね、その素質によって能力に個性が出るのさ。植物の声が聞こえる者、水や風といった自然の声が聞こえる者、そしてお前のように動物の声が聞こえる者。何の声も聞くことは出来ないが絶大な魔力を持って生まれる魔女もいる」

「私自身の、力……」

「……魔女の素質はその魂に刻まれる。だからその能力はお前本来の力だよ」


 自分に魔女としての才能があるとは思っていなかったルーシーは、前世で知り合った動物の言葉を思い出す。『誰にでも出来ることではない』『ルーシーは特別』、それらの言葉が今になって違和感なくスッと心に入ってきた。


『それで? ソリを引くのか引かないのかどっちなんだ』


 ずっと待たされていたトナカイが不愉快そうな口調でルーシーに訊ねた。ハッと我に返ったルーシーはトナカイがソリ引きを了承したことをニコラに告げて、急いで引いてもらうソリの準備を始める。

 ルーシーはイーズデイル家以外の人間のことをほとんど知らない。ましてや敷地を出ることすら許されなかったルーシーは、外の世界の人間が魔女を見てどう反応するのか怖くて堪らなかった。

 最後にルーシーがイーズデイル家の人間以外と会ったのは、街の広場で見せしめのように縛り上げられ、醜い魔女だと罵られ石を投げられた時だけだ。

 人々の罵倒が、睨みつける眼差しが、ルーシーを再び震え上がらせる。

 ニコラも一緒なのだ。きっと大丈夫だと自分に言い聞かせはしたものの、魂に深く刻まれた恐ろしい経験は一向に消え去ってはくれなかった。

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