第3話 『氷結の魔女ニコラ』
急激な眠気に襲われ深い眠りに落ちていたルーシーは、再び見知らぬ部屋で目を覚ました。
同じ天井、温かみのある室内の雰囲気。ゆっくりと体を起こして周囲を見渡すと、この家の持ち主であろう女性の姿が見えない。ルーシーがベッドから下りようとすると、足元にはふわふわのスリッパが置いてあった。
スリッパを履くと毛の感触が滑らかで温かい。ベッド横にある椅子の背もたれに羽織カーディガンがかけてあるが、勝手に羽織るのは少し躊躇われたのでやめておいた。
まずはここがどこなのか少しでも情報を得ようと、カーテンが開け放たれている窓へと歩いていく。
窓に近付くとルーシーの吐息で白くなった。見ると外は真っ白な銀世界だ。
外はこんなにも雪だらけで寒そうなのに、なぜ室内はこんなにも暖かいのか疑問に思ったが、それはすぐに解決した。もう一度部屋中を見渡すと、暖炉に焚べてある薪が燃えて室内を暖めていたようだ。
「冬? それともここは雪国?」
ルーシーは他に何かないものかと室内をうろうろする。薬品棚、何か作業をする為の長机、ぎっしりと詰め込まれた大量の本。料理を作る為のキッチン、作業机とは明らかに違うダイニングテーブル。せいぜい2〜3人が並んで座れる程度の大きさのダイニングテーブルを見て、ここに住んでいる人物はそんなに多くはないのだろうと推察する。
見たことがない物で溢れている室内に好奇心が働き、様々なものを見て「これは何をするものなんだろう」と考えを巡らせていたら、背後から突然声がして思わず飛び上がった。
「それは毒だよ」
見るといつからそこにいたのか、この家の主人であろう女性が腕を組んで立っていた。その顔は相変わらず鉄面皮であったが、怒っている様子はない。
ルーシーは相手が怒っているのか、ただ無愛想なだけなのか、見ただけでわかる。本当に怒っている人間ならば頬は紅潮し、吐き出す言葉は罵倒で溢れているはずだ。
しかし家の中にある物を勝手に見ていたのだから、激情に駆られていないだけで静かな怒りが込められていたのかもしれない。イーズデイル家では家族の私物をじっと見つめるだけでも罪だった。
「あの、ごめんなさい」
「なぜ謝る」
「いえ、その……勝手に色んな物を見ていたので……」
「見ていただけだろう。触っていたらアウトだったけどね」
やっぱり、と思った。この家にある物を勝手に触っていたら罰せられていたのだ。ルーシーは何も触れずにいてよかったと心の底から安堵した。何者かわからない女性から与えられる罰が一体どんなものなのか、全く想像がつかない。
ましてやこの女性は魔女だ。魔女による罰など、どんな拷問なのか考えが及ばないだけに恐ろしい。
「この毒は臭いを嗅ぐだけでも人体に悪影響を及ぼすものだからね。勝手に蓋を開けたりしないで正解だ」
「え……?」
「何を呆けているんだい。何かおかしいことでも?」
もしかして自分の心配をしてくれた?
そんな風に思えた魔女の言動に、ルーシーは驚きを隠せない。これまでの人生で損得勘定無しにルーシーの心配をしてくれた人間など、いなかったも同然だったから。
いや、正確には記憶の片隅に薄ぼんやりとしか覚えていない人物が確かに2人いたはずだ。
今では顔すら思い出すことも出来ないが、ルーシーの人生で唯一優しく接してくれた女性。あまりに幼い頃の記憶だったので、これまでの辛い日々に比べると実に頼りない思い出だった。
戸惑うルーシーに魔女は構わず続ける。
「まずは自己紹介からだね。私はニコラ。この辺りでは氷結の魔女と呼ばれている」
そう名乗るとニコラはルーシーの前を通り過ぎて、先ほど外の景色を眺めた窓を指差し説明する。
「ここはイリアス大陸の北方にあるノースタウン、万年雪と氷だらけの町さ。と言っても、この家はノースタウンの更に山奥にあるんだけどね」
どうりで寒そうな風景だと思った。今でこそ暖炉のおかげで寒さを凌げているが、薄着で外に出たらすぐにでも凍死してしまいそうな土地だということはわかった。
問題はなぜ自分がこんな北方の寒い場所にいるのか、だ。
ルーシーが生まれ育った地域は季節が巡る場所だった。暖かい春、日差しの強い夏、徐々に気候が落ち着いて過ごしやすくなる秋、そして寒い冬。四季があることでどの季節も比較的過ごしやすい土地柄だった。
ここノースタウンのように雪が降り積もったり、凍ってしまいそうな程の寒さを経験するようなことはない。明らかにルーシーが今まで住んでいた場所でないことはわかった。
「あの、私は一体……。何がなんだかわからないのですが」
「……いきなり全てに答えても余計に混乱させるだけだ。ここで生活しながらゆっくり教えてやる」
初対面の時からぶっきらぼうな、どこか棘のある言い方をするニコラ。ルーシーは罵られたり冷たく罵倒されることに慣れていたので、ニコラのそんな口調に今更怯えたり気後れしたりすることはなかった。
この人は常日頃からこういった感じなのだろうか、と疑問に思うだけだった。
とにかく現状何もわからないままならば、この家の主であろうニコラに従うしかない。ルーシーは拒絶も反論もせず、ただ素直に受け入れる。
何の反感も抱かないルーシーの態度が気になったのか、ニコラは少し不思議そうに訊ねてきた。初めて見るニコラの素の表情だ。
「随分と受け身だね。何もかもが唐突で勝手だと思わないのかい。私に対して文句のひとつあってもおかしくないだろうに。お前には自分の意見というものはないのかねぇ」
「そう言われても……」
実際のところニコラに従わなければルーシー1人でここで生きていくことは不可能だ。ルーシーはすでに気付いているが、今の自分は5〜6歳位の子供の体。なぜ自分がこんな姿になっているのか本当なら今すぐにでも教えてもらいたいところだった。こんな小さな体だからこそ、大人であるニコラの言うことを聞くしかルーシーには生きる術がない。
そう言いたいのに言えない。言葉がすぐに出てこなかった。今まで自分の気持ちは黙殺され、意見しようものなら生意気だの偉そうだのと何倍もの言葉が返ってきて、他人と会話をすることが恐ろしくて仕方がなかった。
そういった人生をルーシーの頃は生きてきたので、今更それが改善するはずもない。仮に今の少女の姿がルーシーの転生した姿だったとして、生まれ変わったとしてもルーシーだった頃の記憶が鮮明に残っている限り、こういった心の傷は簡単に癒やされないのだと痛感する。
まごまごしながら伝えたい内容をうまく言葉に出来ないでいると、ニコラは大きなため息をつきながらダイニングテーブルの椅子を引いて手招きした。
「とにかくまずは腹ごしらえをしようか。ここに座ってな」
「あ、……はい」
言われるがままルーシーが椅子に腰掛けると、ニコラはキッチンで何やら食事を作り始めた。そんな彼女の背中を見ているとルーシーのお腹が大きな音を立てる。一体何日食事をしていなかったんだろうと疑問に思った。
今の体がルーシー本人の体じゃないからだろう。ルーシーの体なら2〜3日食事抜きされても空腹を我慢することは出来た。割と頻繁に食事を抜かれたことがあった為、空腹が苦痛と感じなくなったからかもしれなかった。
しかしこの体はどうやら空腹に耐えられるような体じゃないようだ。大きな音と共にお腹に響く振動で、ルーシーはめまいがしてきた。くたりとテーブルに突っ伏すと、ことりと何かが目の前に置かれて顔を上げる。
そこには温かそうな湯気とかぐわしい香りが鼻を刺激する。ちらりと横を見ると、フンと鼻を鳴らすように立っていたニコラがすぐに視線を反らせるとぶっきらぼうに言い放った。
「簡単なコンソメスープだよ。食事の前に胃袋を温めておきな」
「……ありがとう、ございます」
お礼を言うが、ニコラはまたすぐ調理に取り掛かった。表情は常にむすっとしており、言葉は刺々しく、態度もそっけない。誰からも愛され、冷たい態度を取られたことのないソフィアならきっと今のニコラの接し方に憤怒していたことだろう。他人からぞんざいに扱われたことのない妹なら、もっと自分に優しく笑顔で接するべきだと非難するに違いない。
しかし周囲の人間から腫れ物のように扱われてきたルーシーは、そんなニコラの接し方に不満や怒りなどかけらも感じなかった。むしろこんな見ず知らずの自分に着るもの、寝る場所、暖かい場所に温かな飲み物を提供してくれる。とても親切な女性としか思えなかった。
むしろそんなニコラに対してろくに話も出来ず、してもらってばかりの自分が歯痒くさえ感じた。親切にされることに慣れていないルーシー。そして自分の思ったことを素直に口にする機会が与えられなかったルーシー。
まともに会話をすることが出来ない自分はなんて恩知らずなのだろうとさえ思った。
自己嫌悪に陥りながらコンソメスープをいただく。
温かい。美味しい。この薄めの優しい味が空っぽの胃袋にちょうどよかった。思わず笑みがこぼれる。ここで目覚めてから、ルーシーは初めて笑顔になった。
「とても、美味しい……です」
勇気を込めて、今の気持ちを伝えようと思った。
ドキドキしながら口にした自分の今の気持ち。耳まで真っ赤になりながらニコラを見つめると、彼女は振り向くことも返事をすることもなかった。それでもルーシーは満足だった。
彼女にちゃんと届いているかどうかわからなかったが、ルーシーにとっては自分の気持ちを素直に隠すことなく口に出来たことが何より大きな一歩だと思っていたから。
はにかみながら、ルーシーはまた1口2口とスープを胃袋に注いでいった。
しばらくの間、料理を作るニコラの背中を見つめていたルーシー。手際よく作る姿を見ていると、ずっと夢見ていた光景が再現されているようだった。
母親がキッチンで料理を作って、それが出来上がるのを待っている子供という光景。まだ何も出来なかった頃の記憶はもはやないが、自分のことは自分でしなければならなくなった頃には、ルーシーはありものの食材で自分の食事を用意していたことを思い出す。
それこそ最初はパンとミルクだけだった。それから徐々に他の使用人達が作る姿を見て、どんな食材を使っているのか、その食材で何が出来るのか、自分で学んで食事の質を上げていった。
当然だが高級な食事を使うなどもっての外だ。あくまでルーシーが手を付けていいい食材だけを使って、だんだんと焼いたり煮たりする食事を作れるようになった。
だから誰かが自分の為にこうして食事を作ってくれること、食事が出てくるのをただ待っているだけでいいという今の状態がルーシーにはとても新鮮で嬉しかった。
「ほら、空腹にはこれくらいがちょうどいいだろう」
そう言って出された食事は胃腸に優しそうなものだった。梅肉と卵の五分粥、ルーシーはニコラが作ってくれた食事を見るなり思った。一体自分は何日食事をしていないんだろう、と。
不思議そうに眺めているように見えたのだろう。ニコラはどかりと向かいの椅子に座ると、ホットコーヒーの入ったマグカップに口をつけながら眉を顰める。
「いえ、あの。お粥が嫌とかじゃなくて、その。私はどれくらい食事をしていなかったのかなって……」
ふぅっとため息をつくと、ニコラはコーヒーをちびちびと口に運びながらゆっくりと話し始める。コーヒーはきっとものすごく熱いんだろうなとルーシーは心の中で呟いていた。どうでもいいことなので決して口にはしない。
「まず、ルーシー。あんたのその体は他の娘の……、他人の肉体だ。それはもう鏡で姿を見て確認したんだからわかるね。あんたの身に何があったのか私にはわからないけど、あんたは死んで……ルーシーの魂はその体に宿った。反魂の術と言ってね、死んだ者の魂を任意の肉体に転生させる秘術によってあんたは新しい生を得たんだよ。元の体は何年も前に死んだ少女のものだ。ここまではいいかい」
淡々と説明するが、その内容はとても衝撃的で信じ難いものだった。しかしニコラが言った通り、今のルーシーの姿は鏡で確認済みだ。全く知らない少女の体だということはわかっている。
魔女だからこそなのか、死んだ者を生き返らせる魔法があるなんておとぎ話でも読んでいるかのようだった。それが現実に存在していたことは驚きであったが、ルーシーは自分の死に際を今でもはっきりと思い出せる。
あの苦しみ、言葉では言い表せられるものではない痛み、炎に焼かれる恐怖……。あれでまだ生きていたと言われた方が嘘に聞こえる。
ーー私は本当に死んだのだ。
みるみる実感のようなものが湧いてきて、しかしそこに生への執着があるかと問われたら答えられない。
ルーシーとして生きていた頃、毎日のように死んでしまいたいと思っていたから。それがいざ本当に死んだとなるととても不思議な感覚だった。死とはこんなにも呆気なく訪れるものなのかと思うほどだ。
火刑に処されている瞬間はあれほど長く感じられたというのに。
「ショックかい」
「あ……えっと、別に……」
思わず素直な感想が出てしまった。魔女というものに会ったことがないからか、嘘をついたらすぐに見破られると思って、ルーシーは正直に答えるようになっていた。それでも相手の癪に障る回答をしてしまったらどうしようという考えだけはいつまでも頭の中でぐるぐると巡る。
毎日のように顔を合わせていたイーズデイル家の者や使用人に対しては、相手がどんな回答をすれば納得するのか。少しでも機嫌を損ねないように言葉、表情、態度を常に相手に合わせて振る舞ってきた。
しかしニコラは会ってまだ間もない相手だ。ニコラの好む言葉や態度がどういったものなのか、ルーシーにはまだわからない。よってこれから探る為に、最も無難な対応を心がけようと必死だった。
そんなルーシーの思惑など気にも止めず、ニコラは最初に言ったように食事をしながら少しずつルーシーの現状を丁寧に説明していく。
「とにかく、今のお前はルーシーとしての人格が色濃く残っているから、無理にその体に見合った演技をする必要はないさ。どうせここでは私とお前しかいないんだ。誰かに勘繰られることもない」
「おやぁ? あたしのことはお忘れですかぁ?」
突然声がして飛び上がるほど驚いたルーシーは、思わず口に運ぼうとしていたお粥をこぼしかけた。一体誰が来たのかと周囲を見渡す。ニコラは大きなため息をついて額を押さえている。
どうやらこの家は2階があるようで、太くて大きな大黒柱があると思っていたそれはどうやら螺旋階段だったようだ。ちょうど1階と2階の中間辺りの螺旋階段から顔だけひょっこりと覗き込んだ女性が、にまにまとした顔でこちらを見ている。驚くことにその女性も銀髪に赤い瞳をしていた。
もう1人の魔女の存在に当然驚きの連続だったルーシーは口をあんぐりとさせながら、ゆっくりと目の前に座るニコラに説明を求める。一体この家には何人の魔女が住んでいるのだろう。
「……彼女の名前はヴァイオレット。幽魂の魔女と呼ばれている。二つ名にある通り、あんたに反魂の術を施したのはここにいるヴァイオレットだ」
「はぁ〜い、メリッサちゃん! ヴァイオレットちゃんだよ〜! よろしくね〜!」
「え? あの、メリッサって……?」
「ヴァイオレット!」
ヴァイオレットの言葉にニコラが怒声を上げる。ルーシーが目覚めてから初めてのことだった。それまでニコラは笑顔どころか、終始むすっとした表情で感情の起伏が感じられなかった。その為ニコラの怒った顔を見て、ルーシーは氷結の魔女とメリッサという名に何の関係があるのかとても気になってしまった。
しかしこんな剣幕のニコラに聞けるはずもない。ルーシーは黙って2人を交互に見つめる。
「そんな怒んなくてもいいじゃん。あたしのおかげなんだよ? 感謝してもらいたいくらいなんだけど」
「感謝ならしている。だけどそれとこれとは話が別だ。めちゃくちゃにするつもりなら今すぐここから追い出してもいいんだよ。この猛吹雪の中、ね」
見るといつの間にか窓の外は激しく吹雪いていた。ニコラがこの家は山奥にあると言っていた。山の天気は変わりやすいとよく聞くが、こんな数分で激変するものだろうかとルーシーの頭には疑問符が飛び交う。
ヴァイオレットも外を見て、にやけ顔から愛想笑いへとシフトチェンジしたようだ。
「やだなぁニコラちゃんたら。ちょっと口が滑っちゃっただけじゃん。もう言わない! ほんと! だからね」
「……口ばかりのあんたに何も期待しちゃいないよ。それからここにいる娘の名前はルーシーだ。よく覚えておくんだね。二度と間違えるんじゃないよ」
「はいはい」
どうやら2人の間で話はまとまったようだ。改めてヴァイオレットが下りかけていた螺旋階段を下りきって、足取り軽くルーシーに近寄る。
「うん、まずは成功のようだね。前世の記憶が思っていた以上に残ってるのはびっくりだけど。まぁそういうこともあるわ。よっぽど心残りがすごかったんだろうけど、もう過ぎたことだし! 今が大事! 前方斜め上を向いて歩こう!」
『氷結の魔女ニコラ』とは全く正反対の態度を見せる『幽魂の魔女ヴァイオレット』の言動に、反応が追いつかないルーシー。しかし不思議なのはこのヴァイオレットという魔女が、ニコラに対してやけに馴れ馴れしい口調で話しかけていることだった。
ヴァイオレットは見た目だけで言うなら恐らく16〜18歳くらい、少なくとも成人はしていない幼さをまだ残しているように見える。つまりとても若い。ニコラは30代後半といったところだが、魔女の間では年齢差による礼節というものは存在しないのだろうか。
「ヴァイオレットはこう見えて私より何百年も長生きだよ。全ての魔女に言えることじゃないが、魔女を外見だけで判断しない方がいい」
「あらやだニコラちゃん、人のことをロリババァみたいに言わないでくれる?」
「ロリータって外見じゃないだろう」
「なによう、おにゃのこといえば17歳! ぴちぴちでまさに今が旬! 17歳こそ至高よ!」
「中身は300歳以上のクソババアがよく言う」
「精神年齢も17歳だもん!」
冷たくあしらうニコラに対して、子供のように突っかかるヴァイオレットのやり取りをすぐ隣で見ているとなぜだか笑みが溢れそうになる。心の底から笑うなんて、一体どれくらいぶりだろうと思う。
このままじゃ埒があかないと察したニコラがヴァイオレットの存在を軽く無視して話を続けようとする。
「話が少々脱線したけど、要するにルーシー。これからあんたはその5歳の少女として、ここで私と一緒に暮らしてもらう。拒否権はないよ。どうしても嫌だというならこのヴァイオレットに依頼して、少女の肉体から出ていってもらう。それはつまりあんたの死を意味する。もう一度死ぬんだ。いいね」
拒否するつもりはなかった。どのみち一度は死んだ身。むしろルーシーとしての自我を保ったまま、もう一度人生をやり直せるチャンスを得られたと思えば幸運なくらいだ。それだけじゃない。この記憶を持ったまま転生したということには大きな意味があった。
「嫌だなんて思いません。どうぞよろしくお願いいたします。ですが私は家事の一切なら一通り、ニコラさんの指示さえあればその通りに動くことは出来ますが。私は勉学の方は……、学習面での教育を受けさせてもらえなかったので、文字が読めません。言葉使いも……、正しい敬語を使えているのか私にはわからないのです。申し訳ありませんが、必要であるなら一生懸命励みますのでご指導お願いします」
椅子から立ち上がり、ぺこりと頭を下げるルーシー。
出来るなら読み書きだけではない。様々な知識を与えて欲しいと思った。魔女の持てるあらゆる知識がルーシーには必要だった。イーズデイル家に復讐する為には、どうしても。
ルーシーの決意にニコラは小さく頷く。
「私のことは師匠と呼びな。これからお前は氷結の魔女の弟子として、ここで魔女の修行をしてもらう」
「本当ですか!?」
「その為にお前を転生させたようなものだ。私もそろそろ引退を考えていてね。後継を探していたところだったんだ。そこで氷結の魔女と相性のいい魂をヴァイオレットに選別させ、お前が選ばれた。お前には魔女としての才能もある。だから私の持てる知識、全てをお前に教えるつもりだ。とても厳しいものになるが覚悟はいいかい」
「……喜んでお引き受けいたします。ありがとうございます」
願ってもない申し出だった。何もかもルーシーが望んだ通りにことが運び過ぎて逆に怖いくらいだった。魔女の修行がどれほど過酷かわからないが、どんな試練にも耐える自信はあった。
毎日のように死にたいと思って生きてきた日々を乗り越えてきたルーシーだ。あれ以上に辛く苦しい経験があるとは思えない。家事の全てを習得したことはルーシーの技術として活きたかもしれないが、それだけだ。
ルーシー自身の成長につながる教育を受けさせてもらえず、ただ奴隷として生きてきた日々に比べたらよっぽど価値あるものだと感じられた。
嬉しそうに二つ返事で了承するルーシーに、ヴァイオレットの顔から愛想笑いが消え去って侮蔑に近い眼差しが2人を見比べる。その表情はとてもつまらないものを無理やり見せられている、といった具合だ。
「思ってたよりつまんない展開になっちゃったな〜。ニコラちゃんの笑顔がまた見れると思ったのに。残念」
それだけ小さく呟くと、ヴァイオレットはまたいつものおどけた表情に戻ってニコラにちょっかいをかけていく。その日はルーシーが起き上がって食事をしたばかりということで、ゆったり過ごすことになった。とは言っても賑やかなヴァイオレットがこの家を出ていくまで、静かで穏やかに過ごすことは出来なかったが。
ルーシーの体調、そして魂と肉体がきちんと融合しているか。こればかりはどういうことなのかルーシーにはさっぱりわからない。専門家ではないニコラにもわからないらしい。
ヴァイオレット曰く、体から意識が出ていくような感覚はないか。前世の頃の記憶と現実との区別がつかないような感覚はないか。全身を思ったように動かせるか。どれかひとつでも異常があるようなら魂と肉体が安定していない、ということらしい。
具体的にどうまずいのかわからないが、答えられることに正直に答えていったら『問題ない』という診断結果をヴァイオレットからもらった。
そうするともう彼女は用済みと言わんばかりに、ニコラが急かすようにヴァイオレットを追い出そうとする。名残惜しそうに出て行くことを拒むヴァイオレットだったが、月に一度の来訪を許可したらあっさりと出て行ってしまった。
来訪の許可がそんなに嬉しいことなのかニコラに尋ねると、ニコラが住んでいるこの家の周辺には迷いの魔法が施されているらしい。悪意や敵意ある者がこの家に近付こうとした場合、必ず元の出入り口に戻されるという魔法だ。
ならヴァイオレットはニコラに対して悪意があるのかと問う。すると答えは単純だった。
ニコラがヴァイオレットの来訪を拒絶していて、悪意がなくても辿り着けないようにしているということだった。
思わず笑いそうになるルーシーだったが、同時にヴァイオレットが気の毒に思えてしまう。それを表情で読み取ったニコラはルーシーに教えた。
「魔女を外見で判断するなと言ったが、印象だけで判断するのも気をつけな。本性なんて誰にもわからない。上手く隠しているからこそ、本性なんて見た目じゃわからないものなんだ」
氷結の魔女ニコラから教わった、それが一番最初の教訓だった。
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