第2話 『魔女の子』

 ルーシーは中流階級の貴族であるイーズデイル家の長女として誕生した。

 貴族間では政略結婚がつきものであったが、イーズデイルの現当主と夫人は若い内に恋愛結婚で結ばれた。上流階級ならば恋愛結婚など容易に出来るものではなかったが、それは一部の厳格な家柄だけであって気楽な中流層の貴族にとっては余程の野心がない限り、望んだ相手との結婚は比較的許されていた。


 ルーシーが誕生した時も、初めての子供ということで両親は愛情を持って育てるつもりでいた。

 だが赤ん坊が生まれた時、その場にいた者はルーシーの容姿を見て驚愕した。


ーー赤ん坊の産声と、母親の悲鳴。


「いやああ、どうして!? なんで!? 私の赤ちゃんが……っ! 私達の赤ちゃんが!!」

「落ち着いてください、イーズデイル夫人!」

「いやよ、こんなのいや! 捨ててちょうだい! 愛せない……っ、魔女の子供なんて愛せないわ!!」

「君、早く赤ん坊を別室へ! それからイーズデイル当主を呼んで来たまえ!」

「わかりました、先生!」


 分娩室は一時パニック状態となった。廊下で赤ん坊が生まれるのを待ち続けていた父親は、赤ん坊の産声が聞こえてきて一瞬安心したが、その直後に悲鳴が上がり心臓が飛び跳ねた。

 一体何が起きたのか。中に無断で入るわけにはいかないだろうと、もどかしい思いで誰かが呼びに出てくるのを待っていると、1人の看護師が赤ん坊を抱えて慌てて出てきた。


「君、赤ん坊をどこへ連れていくんだ!? 妻はどうした!? 一体何があったのだ!」

「すみませんが説明は先生にお願いします。赤ん坊は……」


 歯切れの悪い言い方をする看護師は、それだけ言うと赤ん坊を隣の部屋へ連れて行ってしまった。

 腕の中にいる赤ん坊の頭が少しだけ見えると、父親は自分の目を疑った。


「どういうことだ? 髪が、銀色に見えた気がしたが……。まだ綺麗に洗い流していないから羊水でそう見えただけか?」


 嫌な予感がしつつ、看護師に言われた通りに父親は分娩室に入るや否や妻と医師を交互に見た。

 分娩台で暴れる妻を押さえつけようとする医師ともう1人の看護師。医師が父親の存在に気付くと叫ぶように許可を求めた。


「イーズデイル殿! 奥さんに鎮静剤を打ちますが、よろしいですね!? 出産直後に暴れ続けたら奥さんの体に悪影響が!」


 父親は妻に駆け寄り、看護師に代わって押さえつけた。妻の状態を見て恐怖する。鬼気迫る形相で叫び続ける妻が、仕切りにこう叫んでいたからだ。


「お願い! 殺して! 赤ちゃんを殺して! 魔女を殺してえええ!」


 そんな恐ろしい言葉を発する妻の状態に耐えられなくなった父親は、向かい側で妻を押さえつけている医師に向かって叫んだ。


「早く鎮静剤を打ってください!」


 その言葉を受けた医師と看護師は、用意していた鎮静剤を母親に投与する。効果が現れるまで予断を許さず押さえ続ける父親と医師。

 やがて母親の動きが緩慢になり、言葉も途切れ途切れとなり、落ち着きを取り戻していく。しかし口にする言葉はずっと変わらなかった。その言葉を耳元でずっと聞いていた父親は全てを察する。


「そうか、生まれたのは……魔女の子だったか。見間違いなんかじゃ、なかったんだな……」


 押さえつける必要がなくなった頃合いを見て、父親は全身の力が抜けるようにその場に崩れ落ちた。絶望が込み上げてくる。愛し合って、誕生を待ち望んでいた自分達の子供が呪われた子供だった現実に絶句する。

 最初に妻を見た時、一体なんて恐ろしいことを言っているんだと思ったものだが、今となっては彼も全く同じ言葉が頭の中をぐるぐると回っている。


「一体どうしたら……。魔女の子供なんて……、俺達には無理だ……」


 静かに眠りについた妻の顔を見て、涙を流す父親。


「神様……、こんな試練は惨すぎます……」


 父親の頭の中ではすでに、『赤ん坊の未来は死あるのみ』となっていた。


 イーズデイル夫妻、医師、そして看護師が生まれたばかりの赤ん坊を見て真っ先に違和感を抱いたこと。

 それは赤ん坊の髪の色が銀色であること、そして瞳の色が赤いことだ。

 これを『おかしい』と思う明らかな理由はちゃんとある。古来より魔女としての資質を持つ者は、銀髪と赤い瞳を持って生まれてくる。

 イーズデイル夫妻は2人ともこの地域では一般的な茶髪であり、瞳の色は深緑色だ。

 その2人の遺伝子を無視するかのように、赤ん坊は両親とは全く異なる髪色、瞳の色で生まれてきたのだ。これはまさに赤ん坊が魔女の資質を持って生まれてきたという決定的な証になる。


 古くから魔女とは非常に珍しい存在として認識されていた。

 その身に魔力を宿し、その才能が高いほど精霊との対話すら可能とする。魔女は主に薬師として生計を立てることが多い。そして薬草や人体の構造に詳しい魔女はその知識と才能で医者の代わりをすることもある。

 本来の魔女の在り方はそういった『人間にとって便利な存在』でしかなかった。

 しかしある伝承によると300年以上前に1人の魔女が1つの国を滅ぼしたと伝えられている。それ以来魔女とは人智を超えた存在で、人間にとって脅威的な存在になり得るということを人々の記憶に植え付けた。


 魔女に対する人々の意識の違いは地域によって様々だ。

 魔女を崇拝する場所があれば、薬師や医者として有り難がる場所、そして人間に脅威をもたらす敵と見做して魔女狩りを積極的に行なう場所もある。

 そして不幸にも赤ん坊が生まれた地域は、魔女を恐れ嫌悪する場所として知られている。お互いに愛し合い、結ばれ、子宝に恵まれたイーズデイル夫妻も例外ではなく、魔女の特徴を持った赤ん坊を見て落胆していた。

 赤ん坊が魔女の素質を持って生まれてきたことを知った母親は、出産直後からずっと我が子の存在を否定した。やがて気でも狂ったかのように『赤ちゃんを殺して』と、うわ言のように毎日呟くようになった。

 父親も動揺を隠せず、母親ほど発狂したりはしなかったが、魔女の外見を持って生まれてきた我が子をどうしたらいいものかと試行錯誤する毎日となる。


 信心深かった父親は、まず赤ん坊を殺すという選択肢を選ぶことが出来なかった。

 人殺し、ましてや我が子を親が殺すことは信仰的にも倫理的にも禁忌となる。よってこのまま赤ん坊の存在を『なかったことにする』選択肢は消えた。

 もうひとつの方法としては、赤ん坊を施設に入れる。あるいは里子に出すという選択肢だ。殺人という罪に問われることなく、赤ん坊をイーズデイル家から『なかったこと』にすることは可能だ。

 しかしここで問題となるのは、果たして魔女を施設側が受け入れるかどうかだ。魔女を崇拝する地域、あるいは便利屋として重宝している地域に里子として出すとなると、かなりの距離を移動しなくてはならない。

 赤ん坊にそのような長旅に耐えることが出来るのか。もし道中で死なせてしまったら、それは信仰的に『我が子を殺した』ことになってしまわないか。

 生まれたばかりの赤ん坊にとって無理な旅となるのは分かりきったことだ。それを理解した上で強行した場合、それが罪に問われたりしないか。父親はとにかく保身を考えていた。

 父親が出した最終的な結論は、長女をイーズデイルの敷地から決して出すことなく、屋敷の使用人として死ぬまで奉公させるということ。

 母親の長女に対する過剰反応は不安要素となるが、父親はある家訓を設けることでそれを解消させようとした。


『1つ、長女に魔女になり得る教育の場を与えてはならない』

『2つ、長女はイーズデイル家の者、またその使用人に決して逆らってはならない』

『3つ、長女はその身を一生イーズデイル家に捧げ仕えなければならない』


 どれも1人の人間として扱わない、奴隷のような人生を強いるものだった。しかし父親にとっては『殺さないだけマシ』という思考であり、魔女に対する温情は一切持ち合わせていなかった。母親もこれを聞いて初めこそ戸惑ってはいたものの、赤ん坊から離れることにより徐々に冷静さを取り戻していき、赤ん坊のことも家訓のことも渋々ながら受け入れることにした。

 やがてその家訓はイーズデイル家にとっての常識となり、長女はこの家の奴隷となる教育だけを施されるようになった。


 長女はルーシーと名付けられた。

 その名前はこの地域では使い古されたもので、大昔には『女の子の名前といえばルーシー』と名付ける位にありきたりなものだった。

 ひねりも、名前に込められた意味も何もなく、ただ淡白に、よくある名前として名付けられた。

 そこに両親の愛情など、かけらもなかった。


 ルーシーを生んでからの母親は、そのショックから精神的に不安定となり、長い間療養生活をしていた。その為、父親はルーシーの育児の全てを任せる為に乳母と教育係を至急手配し、採用した。

 育児を乳母達に任せきりになる頃にはすっかり母親の精神も安定し、体調も良くなったということもあって元の仲がいいおしどり夫婦に戻っていた。当然そこにルーシーという娘の存在は皆無だった。

 母親の精神がまた不安定にならないように、極力母と娘が顔を合わせることを避けていた。何より母親の精神を安定させる為に一役買ったのは、やはり父親が設けた家訓の存在だ。

 家訓を脳裏に焼き付けることにより、ルーシーは自分達の娘ではなく奴隷、所有物なのだと思うようになったからだ。


 ルーシーが誕生してから3年後に妹が生まれた。

 妹は両親と同じ茶髪に深緑色の瞳を持って生まれてきた。とても愛らしい顔立ちをしており、お腹が空いた時には少し泣いて、満腹になればすやすやとすぐに眠ってしまうほど大人しく、世話にさほど手がかからなかった。

 育てやすさがあったせいか、両親は嬉々としてソフィアと名付けた次女を取り合うように構い出した。その頃には3歳となっているルーシーであったが、本来なら母親が恋しい年頃だ。しかし一般的な家庭とは程遠い生活を生まれた瞬間から余儀なくされていたので、ルーシーの中では『両親から与えられる愛情』という感覚が欠落していた。

 当然ルーシーが接していい存在は乳母のロマーシカ、そして教育係として雇われたソラという若い娘だけだ。ルーシーは彼女達しか知らずに育ってきたこともあり、生まれてから現在に至るまで両親や妹に近付くことは許されていなかった。


「ルーシーが一生支える人間が誰であるか、それを認識させる為に我々のことを話して聞かせてもよい。ただしそこに家族という繋がりはないように教え込むんだ。間違っても『自分がイーズデイル家の正統な血族である』なんて傲慢な認識を持つことは許さない」


 イーズデイル当主からそのように命令されていたロマーシカとソラは困惑していた。それならばルーシーは使用人の子供としてここで生まれたことにするのか、それとも両親や妹がいることを教えた上で『ルーシーはその家族の一員ではない』と言って聞かせるのか。

 果たして2歳の子供にそんな言葉が理解出来るのか、2人は頭を悩ませた。

 あまりにも不憫な扱いを受けるルーシーに2人は心を痛める。

 ルーシーへの説明はもう少し言葉を認識出来るようになってからということで、ロマーシカとソラはルーシーの立場をどういった認識で教育するべきなのかをイーズデイル当主に相談してみた。

 すると返ってきた言葉は信じ難い、より残酷なものだった。


「ルーシーの両親は間違いなく我々であり、ソフィアはルーシーの妹だ。イーズデイル家の長女は両親と妹を敬い、決して逆らうことなく、どんな命令にも従う義務があると教えろ。我々はルーシーにとっての他人ではない。唯一無二の肉親であるが故に、我々の許可なくしてここから出ていくことは許されない」


 つまりはそういうことだった。『イーズデイル家の正統な血族ではない』と教えた上で『イーズデイル家の長女』であるという矛盾。

 ルーシーがイーズデイルとは無関係な他人だと教えてしまっては、いずれ自分達に逆らう要因が出来てしまうかもしれない。それを防ぐ為に『身内ではある』という足枷を付けることで、容易に裏切ることが出来ないようにしたのだ。何もかもがイーズデイル家の人間にとって都合がいいもので、ルーシーには苦しみしか与えない独自の法律。

 この家ではイーズデイル当主の言うことが常識だった。


 不本意ながらイーズデイル家に雇われている以上、2人はご主人様の言う通りにルーシーを教育するしかなかった。

 そしてルーシーに3歳下の妹ソフィアが生まれたことも教えた。それを聞いたルーシーは妹という存在がどういうものかよくわかっていなかった。まだ感情が豊かだったルーシーは、自分以外の子供がこの家にやってきたことを喜び笑顔になった。

 しかしそんなルーシーとは裏腹に、ロマーシカとソラは少女の無邪気な笑顔を見る度に心がズキリと痛んでいた。 


 両親のルーシーに対する態度は相変わらずだ。

 それどころか、より一層ルーシーを蔑ろにするようになっていた。ルーシーは生まれてから1人歩き出来るまでの間、全て乳母ロマーシカと教育係ソラが育児を担当している。それまで両親はルーシーと滅多に顔を合わせることがなかったので、ルーシーに対する愛情が完全に失われていたのだ。

 育児中に事故で死んだとしても両親は気に留めることはなかったろうが、『一生使える労働力』としてこき使うつもりでいたからか、乳母と教育係には魔女に対する偏見があまりない地域出身の者を採用した。

 しかし甘えさせたり余計な知恵をつけさせないようにと、イーズデイル家の家訓はしっかりと遵守するよう言い聞かせ、ルーシーの世話などは全て彼女らに丸投げしていたのだ。

 血の繋がりがないとはいえ、ルーシーは幸いにも赤ん坊の間だけはぞんざいに扱われることなく育ててもらうことが出来た。もし魔女に対して憎悪を募らせた者が育児をしていたら、事故に見せかけて殺されていたかもしれなかったからだ。


 ルーシーが『教えたことを真似て実行できる』ようになった頃、乳母ロマーシカと教育係ソラは徐々にルーシーと接する時間が少なくなっていた。屋敷内の雑務を覚えさせる為だ。

 普段の生活などの面倒は変わらず彼女達がすることになっていたが、日中は少しずつ雑務を覚える時間として割り当てられていった。一般的に4〜5歳の子供となれば外で思い切り体を動かして遊ぶか、少しずつ文字を覚えたりしていくものだがルーシーに与えられる教育はそんなものではない。

 一般家庭の子供の過ごし方など何も知らないルーシーにとっては、これが自分の普通とされていた。

 太陽が昇る前に起こされ、着替えと質素な朝食を済ませると屋敷のあらゆる場所の掃除の仕方を教わるが、これからルーシーの日課となる作業を指導する者は、優しいロマーシカ達がするわけではない。


「何度言ったらわかるんだ! 雑巾はちゃんと絞らないと床がびちゃびちゃになってしまうだろう! このグズ!」

「ほうきの持ち方はそんなんじゃない! 出来損ないが!」

「このお皿、全然拭けてないでしょ! 汚らしい手で触るな! 手を洗って清潔にしなさいよ、バイキンのくせに!」

「服はそうやって畳むんじゃない! 何回言ってもわからないなら、いっそのこと死んじまいな!」 


 そういった罵倒を浴びせられながら、時には叩かれ蹴られ、覚えるまで毎日のようにこういった教え方をされていた。まだ幼いルーシーは辛くて泣き出してしまうが、泣くと一層激しく叩かれてしまう。時にはお腹を蹴られて息が出来なくなり、その場から動けなくなることも度々あった。

 睨まれたり、怒鳴られたり、手を上げられたりした時には、体が反射的に防御の姿勢を取るようになっていた。

 優しいソラが頭の上に付いていたゴミを取ろうと手を伸ばした時には、叩かれるのかと思い両目を閉じて震えるようになる程、日常の暴力はルーシーの心身に深く刻まれていた。

 そんな様子から、家訓には『優しくしてはいけない』となかったので、ロマーシカ達は疲れてボロボロになり部屋に戻ってきたルーシーを温かく迎えるようにしていた。

 これではこの子があまりにも不憫だと思い、せめて部屋にいる間だけでも安らげるようにと努めた。

 銀髪に赤い瞳、それを見て全く動揺しないわけではないが、それ以外は普通の少女と変わりない。家族に忌み嫌われ、使用人にまで虐げられているルーシー。

 これから先も変わらぬ毎日が待っていると思うと、この少女が哀れに思えてならなかった。


「旦那様はルーシー様のこと、なんとも思っていないのかしら」

「ソラ、滅多なことを口にするものじゃないよ。どこで誰が聞いてるかわからない。告げ口されて罰を受けるのはきっと私達ではなくルーシー様になってしまう。そうなったらあんたも悲しいだろ」

「……可哀想なルーシー様」


 雇われている身の自分達が非力でならなかった。そう思うと辛くなるが、静かに寝息を立てて眠る少女の寝顔を眺めていると、本当に辛いのはこの小さな女の子の方なんだと更に胸が苦しくなった。



 ***


 

 ある日ルーシーが言いつけ通りに廊下の拭き掃除をしていると、部屋のドアが開いていることに気付いた。誰かが閉め忘れたのかと思い、ドアを閉めに向かうと中から子供の声が聞こえてきた。

 そっと中を覗くとそこは妹のソフィアの部屋だった。可愛らしい動物が描かれた壁紙、室内にはソフィアに与えられたたくさんのおもちゃが並んでいる。本棚には読み聞かせの絵本がぎっしり詰め込まれており、どれもルーシーには与えられなかった見たことのない物ばかりだった。 


「すごい。いいなぁ……」


 妹は特別なんだと教え育てられたルーシーにとって、これは当然の光景なんだと思っていた。しかし心のどこかでなぜか妬ましい気持ちがほんの少しだけ顔を出す。

 妹のことを羨ましいと思ってはいけないと教えられているルーシーは、慌てて悪い気持ちを引っ込めようとした。しかし好奇心だけはどうしても抑えられず、周囲を見渡し誰もいないことを確認すると静かにゆっくりとソフィアの部屋に入って行った。


(ほんの少しだけ。ちょっとだけ、見るだけだから)


 1歩2歩部屋に入ると、ふんわりとした感触の絨毯が心地よかった。知育玩具、絵本、ピアノ、ぬいぐるみ、色んなものを眺めながら、そっとベッドの中を覗いてみる。


「もしかして、ソフィア……?」


 妹のソフィアを見たのはこれが初めてだった。

 両親が頑なに会わせることを拒絶していた為だ。白い肌、ぷにぷにのほっぺた、ふんわりと風になびく茶色い髪の毛。ルーシーは自分の髪の毛を手で掴んで見つめる。銀色の髪、この屋敷の全ての人間に会ったわけではないが、この髪色をしているのは自分だけだ。

 魔女に関する知識を持たないルーシーは、屋敷内には黒い髪も青い髪も赤い髪も、様々な髪の色をした人間がいるのだから銀色の髪色だってきっとどこかにいるのだろう、たまたまこの屋敷にいないだけだとそう考えていた。

 そんな風にぼんやりとソフィアの茶色い髪の毛を眺めていると、ソフィアの両目がぱっちりと開いてこちらを見ているような仕草をしてびっくりした。

 小さな両手をパタパタさせて、寝ぼけながら何かを探しているような動きだ。そっと手を差し出すと、それを小さな手で握ってきゃっきゃと笑い声を上げる姿はまるで天使のようだ。


「初めまして、ソフィア」


 にっこり笑いかけたルーシーであったが、ソフィアはまだ2歳とはいえ自分より上の存在だったんだと唐突に思い出す。いけないと思ったルーシーはソフィアが他の人間を呼ぶ前にゆっくりと手を引っ込めると、大きな音を立てないように部屋を出て行こうとした。それからもう一度振り向くと、不思議そうな顔でこちらを眺めるソフィアがいた。

 それじゃあねと手を振った瞬間、それはとても強い力でルーシーの細腕を掴んでいた。


「こんなところで何をしているの!」


 茶色の美しい髪、白い肌はみるみる真っ赤に染まり、新緑色の瞳はルーシーを鋭く睨みつけていた。絵画でしか見たことがないイーズデイル夫人、ルーシーとソフィアの母親だった。 


「ごめんなさい! ごめんなさい! ドアが開いてたから……」

「申し訳ありませんでした、でしょう! 何様のつもり! ここはお前のような汚らわしい者が入る所じゃないのよ! さっさと出て行きなさい!」


 耳をつん裂くような激しい怒声にルーシーは恐ろしくなって、泣きながら走って逃げて行った。生まれて初めて出会った母親はとても恐ろしく、明らかに自分のことを嫌っていた。ルーシーはそれがとても悲しかった。

 これまで何度も辛くて悲しくて泣いたことはあったが、今流している涙はそれらとは別格だった。叩かれた時より、蹴られた時より、ずっと痛かった。胸が苦しくて息が出来ない位に痛くて仕方がない。涙が止まらなかった。


「なんで、どうして? あたしのことなんで嫌いなの? 何か悪いことしたの?」


 その後の業務のことなどすっかり忘れ、ルーシーは号泣しながら自分の部屋に戻ると、片付けをしていたソラを見つけて抱きついた。


「どうしたんですか、ルーシー様? また誰かに叩かれたんですか?」

「ソラ、ソラ! あたし痛いよ、すごく痛いの! うわああああ」


 ソラは泣きじゃくるルーシーを優しく抱き締め、別の仕事をしていたロマーシカが戻ると目配せした。ルーシーが落ち着くまで交代で宥めていると、いつの間にかルーシーは泣き疲れて眠ってしまっていた。

 起きてしまわないようにゆっくりと着替えさえ、ベッドに寝かせる。何が起きたかわからない2人であったが、どのような辛いことが起きても不思議はないこの屋敷で、ルーシーが安心出来る場所はここしかないのだと再認識する。


 夢の中で夢を見るルーシー。

 初めて妹のソフィアを見た時、本当に心が弾むようで、嬉しさで一杯になったのを覚えている。

 自分とソフィアとでは一体何が違うのか、まだ幼かったルーシーにわかるはずもない。  

 それでもロマーシカやソラが自分に優しくしてくれたように、両親も自分に優しくしてくれるものだと思っていた。

 だが初めて母親と出会った時、そんな日は一生来ないんだと。

 その時わずか5歳だったルーシーは、幼いながらに現実を理解した。

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