第30話 『小さな綻び』

 ルーシーは思い出した、嫌な記憶を。

 閉じ込めるつもりはないけれど、それでも思い出せば気分は重くなり、沈んで行く。やがて沸々と湧き上がってくる憎しみの感情。

 魔女の修行が忙しくて、忘れていたわけじゃない。それでもニコラやスノータウンの人々との生活があまりに刺激的で、時に心がほっこりするような瞬間が増える度に、忘れかけることもある。

 常日頃から、憎い相手のことを考えているわけじゃない。心の隅っこに常にそれは存在し続けて、机の引き出しを開けるように、憎しみを思い出したい時にだけ、それを引っ張り出せばいい。

 その程度に考えていた。でも関連付ける場面に遭遇した時、唐突に全てを具体的に思い出す瞬間もあることを理解した。何も、今この時じゃなくてもいいはずだったのに。

 気持ちのいい状態で、この村を去りたかった。それなのに、あんな場面を目撃してしまったら。


「お師様に、私は一体何を期待していたんだろう……」


 雑貨屋のおかみさんに言われた通り、荷物を乗せて引いていた子供の用のソリを、村の出入り口に置いた。荷物はニコラと乗って来たソリに移動させ、トナカイを撫でながら物思いに耽る。


『どうした? 何かあったか?』


 いつもぶっきらぼうで口数の少ないトナカイが、ルーシーを気遣って声をかけてきた。

 ルーシーは無表情で、ただ黙ってトナカイの首辺りを撫で続ける。今は誰にも心を開けない、とでも言うように。


「なんでもない。私はいつも通りよ」


 ただ、いつものように笑顔を作れないだけ。せっかく少しは普通に笑えるようになったのに、と思いながら。他にやることがないルーシーは、トナカイを撫でることをやめて、自分のポシェットの中を探る。

 取り出したのは、ペンとメモ帳だ。

 こんな気持ちのままで書けるとは思えないが、出発の日も近い。子供達に手紙を書かなければ。せめて感謝の手紙だけでも。


 子供達の顔を一人一人思い浮かべるも、言葉が、文章が全く出て来ない。ついこの間までは、色んなことが思いついていたのに。書きたいことを整理することで精一杯だったはずなのに、それ以上のことが全く出て来なかった。

 気分が、気持ちが乗らないのだろうと察する。手紙を書くという行為は、それほど心を込めなければ書けないものなのだと、今さら知った。

 ため息をこぼしながらメモ帳とペンをポシェットにしまい、片ひじをソリについてぼんやりと空を眺める。ニコラが戻ってくるのが遅いな、と思っていたら雪を踏み締める音が近付いて来た。


「全く、無駄な時間を食っちまった」

「……お帰りなさい、お師様」

「あぁ、ルーシー。待たせたかい」


 ルーシーは首を振って、重たそうな荷物をソリに移す作業を手伝った。これだけの荷物の量に加え、家にある物も一部ではあるが長旅に持って行くのだ。どれほどの大荷物になるのかと考えただけで、荷物を運ぶ動物が一緒でよかったと安心する。


「集会所で雪崩対策の話もしていたからね。予定より随分と時間がかかった」


 本当にそうだろうか。先ほど変な男に絡まれていたことは、話さないのだろうか。子供のルーシーに話したところで、と思われるだけかもしれないが。


(別に、出来事全てを報告しなくちゃいけない義務なんてないものね。お師様はお師様だもの。私に関係ないことを、いちいち話して聞かせる義理はないわよ。ただの弟子なんだから……)


 むすっとした表情で定位置に座る。随分とそっけない態度だなと訝しみながら、ニコラは何も言わずにトナカイの手綱を握る。それからトナカイを走らせ、家へと向かった。


 家に到着するまで、ルーシーは終始無言だった。聞かれたことに答えるだけ。ニコラもさほど多弁な方ではないので、沈黙の方が長かった。いつもなら魔術の修行について、長旅について、子供達へ書く手紙について、ルーシーの方から色んなことを話しかけていたものだ。

 それが全くないことに疑問を抱いたニコラは、荷物の整理を終えて、夕食を食べる時にそれとなく訊ねてみた。


「村で何か嫌なことでもあったかい?」

「……いえ、別に。特には……」


 そしてまた訪れる沈黙。

 まるでルーシーが目覚めた頃と同じようだった。何もかもが見慣れぬものばかりで戸惑っていた頃。人との触れ合い方、生活の仕方、そういったものを全て忘れてしまったかのように、ルーシーは目に見えて落ち込んでいるように映る。


「わかりやすいんだよ、お前は」


 大きなため息をついて、ニコラは白状した。


「聞いていたんだろ、あの会話を」

「え……」


 ドキリとした。バレていないと思う方が不自然だ。

 ニコラはいつだって、なんでも知っていた。なぜバレないと思えたんだろう。


「あれがお前にとって、どんな気分の害し方をしたのかよくわからないが。もしかして、私の言葉が気になったのかい」

「……」


 まさにその通り過ぎて無言になってしまう。居心地が悪い。

 まるで自分の機嫌を損ねたニコラに対して、自分が子供のように拗ねているようで恥ずかしかった。

 ニコラからすれば、ルーシーは実際にどう見ても子供なのだが。


「……本来なら、もう少し後になってから。旅を終えてから話そうと思っていたんだけどね」


 食事を終えたニコラが食器を片付け始めた。ルーシーもとっくに終えていたので、食器を同じように片付ける。汚れを水で洗い流し、一旦キッチンのシンクに置いておく。

 いつもならすぐに食器を洗うのだが、こんな中途半端な状態で話を区切っては気持ち悪いだろうとニコラは思ったみたいだ。ルーシーも蛇の生殺しのようで気になったので、やかんのお湯が沸くまである程度、二人で役割分担をしながら食器を洗って水滴を拭き取り、食器棚に片付けていく。

 半分くらい片付いたところで、やかんのお湯が沸いたのでニコラのカップにコーヒーを、自分のコップにはココアを淹れてテーブルに運ぶ。

 食後にお互い温かい物を飲むのが、ほぼ日課となっていた。

 ちびちびとカップに口をつけて一口含む。それからニコラはだるそうな姿勢で、話を続ける。


「まぁ、あれだよ。氷の大精霊との契約、みたいなものさ。グラキエスとの契約で、一部の感情を制約させられてるんだ」

「制約……」


 遠雷の魔女システィーナが話していた、強い魔法を扱う時に必要な制約のことだろうか、とルーシーは思い当たった。何かを制限させることにより、より強い魔法を使えるように。強力な魔女はみんな何かしら制約を課していると、システィーナは話していたことを思い出す。


「具体的にはまだ話せないが、その契約によって私は感情がこの通りなのさ」

「この通り、というと?」


 何かおかしいところがあっただろうか、と逡巡する。ニコラはニコラだ。もしかして少しぶっきらぼうな一面のことを言っているのだろうか、と思った。

 本気で言っているのだろうかと疑わしい目をしながら、ニコラは唇を引き締めるように横に引くと、呆れたように口にした。


「本当に、お前は今までどういった環境で育ったんだか。私が他の奴らに比べて、随分と無愛想に感じないかい」

「無愛想の、何がいけないんでしょう?」


 本当にわからない、とでも言うように首を傾げるルーシー。

 ニコラはさらに呆れて、思わず吹き出しそうになった。根性でそれをなんとか我慢したが。


「無愛想なものは無愛想なんだよ。お前がそう感じないなら、別にそれでいいじゃないか。私がお前のことを、その……気付かない内に傷付けたんじゃないかって思ってね。お前が傷付いたからなんだって話なんだが。とにかく、私は今までもこれからも、誰に対しても冷たい態度で接していくから、覚悟しておきなって話さ!」

「それが制約だから、ですか?」

「そうだよ。それ以外にあるかい。わかったら残りも片付けるよ。今日の課題がまだ残っているんだからね」

「はい」


 すっきりしたような、しないような。

 それでも一歩前進したような気がした。ニコラが自分のことを、ルーシーに話してくれた。

 今まで聞いても答えてくれないようなことばかりだったのに、今日はちゃんと話して聞かせてくれた。

 それがルーシーには救いになる。妙なわだかまりは持たないようにしよう。そう誓う。


(お師様が誰も愛さないと言ってたように、私もまた……もう誰も愛さないと誓っていた。それを思い出した。だからきっと、これ以上深入りしようとさえしなければいいんだ。そうすれば、もう自分が傷付かなくて済むから……)


 悲しいすれ違いだった。

 この小さな綻びが、わずかな亀裂が、これ以上大きくならないようにーー。

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