第59話 『三百年前の地図』

 ヴァルゴはテーブルの上に地図を広げた。

 それはアンミューズ大陸全土を記した、とても古い地図だ。

 現在出回っている地図と比較して、随分と簡略化されたその地図には絵柄入りで表現されており、どことなく子供向けの宝の地図のようにも見える。


「これは俺のご先祖様が持っていた、人間の住む地域も記載されている唯一の地図だ」


 そう自慢げに語る彼であったが、メリィは困ったように微笑みながら遠慮気味に訊ねてみる。


「ヴァルゴさん、これ……何年前のものですか?」

「かれこれ三百年前だろうか。まぁ遠出が出来る程、長期間旅に出られるわけでもないからな。ここら一帯の土地を見て回ることさえ出来れば、特に問題はない」


 長年の夢でも語るように、わくわくとした表情で話すヴァルゴ。

 より一層メリィは話し辛くなるが、これも彼の為だと心を鬼にして真実を口にした。


「ヴァルゴさん、その……とても言い難いことなんですけど」

「?」

「その地図、使えないです……」

「え」

「というか、大半がもうこの大陸に存在しない国や町ばかりで……」


 一瞬訪れる沈黙。

 ヴァルゴは慌ててメリィの言葉を否定する。

 これは先祖代々受け継がれし貴重な世界地図なのだ。間違っているなんてことがあるはずがない……とでも言うように。


「その昔、ご先祖様率いる冒険家が長年かけて作り上げた地図だぞ!? その足で各地を踏み締め、その目で見て、やっとの思いで完成させた人間の世界だと……っ!」


 弁明するように必死になって先祖の苦労を語るヴァルゴに、本当に心から申し訳ない気持ちで一杯になりながら、メリィは彼の純粋な眼差しをまっすぐに見ることが出来ないまま説明した。


「ヴァルゴさん、三百年前には確かにあった国々かもしれません。でも今はその地図が出来てから三百年後の世界なんですよ」

「三百年でそんなに変わるものなのか!?」

「変わります。まず一つの国が三百年以上続くのも珍しい位に。せいぜいこの地図に載っている各異種族の国やミリオンクラウズ公国、アイリスエーテル国、メルトスノー国などは今も健在ですが……」


 それら以外の国々は現在では存在せず、さらに言えば町などは全て無いに等しかった。

 ヴァルゴがどれ位の範囲を旅しようと計画していたのかは不明だが、ミリオンクラウズ公国を超えた先には地図など一切役に立たないと言えるほどだ。

 アイリスエーテル国に至っては、ヴァルゴに与えられた半年という期間を優に超える距離となっている。

 メリィに残酷な事実を突きつけられて落ち込むヴァルゴであったが、押入れの奥から取り出したこれもまた古めかしい地図を手渡す。


「これは十年以上前に作られた地図だそうです。少なくとも三百年前のものよりは役に立つと思います」

「……いいのか?」

「私には不要な物ですから。外の世界を見て回るヴァルゴさんが持つべきです。その方がこの地図も報われます」


 ヴァルゴが自慢気に広げた地図を見つめ、メリィは言葉を付け足す。


「それはヴァルゴさんのご先祖様が作られた、とても大切で貴重な地図です。失くしたり損なったりしないよう、大切に保管していてください」


 恐らくこの地図を目にして、ヴァルゴは外の世界に興味を持ったに違いない。メリィはそう思った。


 猫族や犬族といった獣人の絵が描かれた獣人国。

 気品ある王と、白亜の宮殿が描かれたミリオンクラウズ国。

 気難しそうな顔をした王と、花冠が描かれたセクレアル国。

 氷と狼が描かれた、メルトスノー国。

 そして耳の長い妖精族であるエルフと、深い森が描かれたエルフェンリート大森林。

 広大な山脈には、逞しいヒゲをたくわえたドワーフが描かれているグノーム大坑道。


 確かにそれぞれの国の特徴や、その地域に生息・出没したであろう珍しい種族や、大型の希少な魔物。

 精霊や聖獣が描かれた抽象的な地図は、まさに宝の地図のようでロマンがあった。

 これを見た子供は、さぞ冒険心をくすぐられたことだろう。

 世界の広さ、色んな国、多種多様な生物との出会い。

 きっと好奇心を止めることなど出来なかったに違いない。


 ぐぬぬ、と唸りながらもヴァルゴは無言でご先祖様の地図を丸めて収めた。それからメリィが渡した地図をじっくり眺めて、今この世界にどれだけの国々が存在しているのかを確かめる。

 三百年前の地図を横に並べて比較しないところから、きっと隅々まで記憶するほどに内容が頭に入っているのだということがメリィにもわかった。

 それほどまでにヴァルゴにとって、世界はとても魅力的な未知の世界なのだ。

 獣人族は外の世界を、人間が跋扈ばっこする世界を嫌っていると聞く。

 それがどれほどのものなのか、当人達から聞いてはいないので想像でしかないのだが、鎖国するほどだから相当なのだろう。

 そんな中でヴァルゴは育ちながらも、外の世界に想いを馳せる。

 色んな世界を見て回り、人々を知りたいと言う彼はきっと……箱庭の中だけで人生を終えるようなことは望んでいないだろう。

 それは彼にとってとても窮屈だったに違いない。だからこそこうして地図の内容を暗記するほどに、世界を知ろうとしたんだろう。

 そしてメリィも、彼ならきっと全ての世界を見て回ることが可能だと確信出来た。気持ちの強さと体力面でもそうだが、何より彼には口にしたことを実行し、実現させるだけの力強い何かを感じたから。

 会って数日ではあるが、彼はとても柔軟で頭も良い。

 社交的な振る舞いはきっと人に好かれるタイプだ。よほど獣人を恐れているような人間相手でない限り、彼のことを嫌悪する人間はいないのだと思わせる。それだけ強い魅力が彼にはあった。


「本当なら自分の足で旅して世界を見て回りたい、それがヴァルゴさんの本音であることは私にもわかります」


 突然メリィが真剣なトーンで話し始めるので、ヴァルゴはまじまじと地図を見ていたが、すぐにメリィへと視線を移す。


「でも更に本音を言うなら、たくさんの国々を回りたいんじゃありませんか?」

「まぁ、可能ならそうしたいところだが……。この通り俺は巨漢だ。何頭か見かけたが、人間が移動手段としている馬になんて乗ることなんて出来ないぞ? さすがに馬が可哀想だ」


 ヴァルゴは確かに巨漢だ。

 身長だけでも女性の倍はありそうなほどで、筋肉量から体重は牛よりも重いだろう。

 ヴァルゴが使っているベッドも実は体のサイズに合っていなかったので、メリィが急ごしらえでソファを追加したほどだ。

 そんなヴァルゴが旅の移動手段として、人間が使用している馬など役に立つはずもない。


「だから、ヴァルゴさんはミリオンクラウズ公国へ向かうべきです。そこで聡慧の魔女ライザ様に相談すれば、きっと飛竜ワイバーンの一頭くらいは貸してくださいます」

「飛竜を?」

「この森から時々空を見上げると、飛竜がよく飛んでいるんです。ホウキに乗った魔女と、並んで飛んでいるところも見たことがあります。きっと竜を手懐けられる魔女がいるんですよ」


 魔女には様々な特性が備わっていることがある。

 役に立つものから役に立たないものまで。元素の力を魔法で繰り出すことが出来る魔女は、実は魔力量の高い高等な魔女にしか扱えない。元素を司るそれぞれの精霊の力を借りなければならないので、精霊との対話が出来る程度には実力が備わっていないといけないからだ。

 それでも魔女には、人間では不可能な魔法が扱える。

 物を移動させる魔法、物を切り刻んだりする魔法、全く同じ物を複製する魔法など。

 動物や虫、魔物と会話することが出来るのも魔法の一つだ。


「きっとドラゴンテイマーの特性を持った魔女がいるんだと思います。そうじゃなければ、ドラゴンを使役することが出来る技術とか。でないと飛竜が魔女と一緒に空を飛ぶなんて」

「うむ、確かに一理あるな。飛竜なら俺が乗っても何ともないだろう。だが……」


 ヴァルゴはつい言い淀んだ。本来ならこれは願ってもない情報だった。ヴァルゴは確かに獣人国を出てからまず思ったことは、一体いくつの国や町を拝めるのだろう、ということだ。

 体力には自信があるので夜間も移動し続ければ、あるいはミリオンクラウズ公国よりその先へ行くことも可能だったろう。しかし彼には半年という期限がある。往復出来る日数で計算しなければいけない。

 そうするとやはりミリオンクラウズを観光する程度にしか時間の猶予はなかった。

 だからこそメリィの情報は非常にありがたいことだったのだが、ヴァルゴはすぐにその申し出に食いつくことが出来ずにいる。

 考え込むように、何か他の……別の言い訳を探すように。


(俺は、ここに居座る理由を探しているのか……?)


 長旅に出たはずだ。

 見たこともない土地、建物、人々、それらを堪能するはずなのだ。

 まだ隣国の端っこに到着しただけだというのに。

 一体何を躊躇う必要があると言うのだろうか。


 なかなか次の言葉を発しようとしないヴァルゴに、メリィは余計なことを口にしてしまっただろうかと慌ててしまう。

 やはり飛竜に乗って距離を稼ごうなどと、無粋にも程があったのかもしれないと反省した。


「あの、せめてミリオンクラウズ公国の宮殿へ行ってみませんか? 首都へ行けば人も魔女も、お店も、面白いものがきっとたくさんあると思います。それに公王様やライザ様も、きっとヴァルゴさんの好奇心を刺激する色々なことを教えてくださいます」


 それでも返事がないヴァルゴの様子に、メリィはやはり気に障ることを口にしてしまったのかもしれないと居心地が悪くなってしまった。

 なんせ他人との会話は何年振りかと思う程だ。この森に隠れて住むようになってから、動物に一方的に話しかけるだけの毎日を送っていたのだから。

 会話の仕方を忘れてしまった。

 上手く話を繋げられない。

 相手がどう受け止めているのかがわからない。

 わからないから次に何を話したらいいのか怖くてたまらない。

 怒らせてしまったらどうしよう。

 自分のせいでここから出て行くことになったら。

 メリィの不用意な発言のせいで、人間に対して悪い印象を与えてしまっていたら?

 自分では責任が取れない。

 どうかヴァルゴには、人間はとても親しみやすい種族なんだと。そう気持ちのいい思いのままで国に戻り、獣人の仲間達に伝えて欲しい。


 おろおろと戸惑うメリィの様子にやっと気付いたヴァルゴは、赤い瞳を潤ませながらどうにかしようともがいているメリィにどうしようもない位の愛しさを感じてしまった。

 獣人族にも当然女性はいる。その全てが女戦士として逞しく凛々しいわけではない。家庭的な獣人の女性もいるし、少女のように愛らしい者もいる。

 しかしメリィは自分がこれまで見てきた女性像とは、あまりにかけ離れていた。それは種族の違いとか、そういうことではない。

 もっと根本的な、その人の性質や性格、仕草や声といった細かい部分に現れる何か。 

 メリィはどこか庇護欲をそそられる何かを持っていた。

 放っておけない。

 守ってやりたい。

 自分がそばにいてやらなければいけないような気がする。

 不思議とそんな気にさせる何かを、彼女は持っていた。

 それはきっと彼女の過去の出来事も含まれる。

 このままヴァルゴがふらりと出て行けば、彼女はまた一人ぼっちになってしまうのだ。

 彼女の毒疫に耐えられる人間は、きっとこの世界のどこにもいないだろう。毒抵抗力の高い獣人族でしか、彼女のそばにいてやることは不可能だ。


(だからなのか? 俺はこの娘に同情しているだけなのか?)


 ヴァルゴはメリィの瞳をじっと見つめ、それから両手で彼女の肩を包み込む。細い肩は一瞬びくりと跳ねたが、それは単純に驚いただけ。すぐにメリィはヴァルゴの行動を咎めることなく、にっこり微笑んで手を重ねた。


「いけないですよ。今日の分のお薬がまだだったはずですから、私に触れることは推奨出来ません」


 肩を抱く行為を否定するのは、ヴァルゴを毒で侵してしまうからであって、ヴァルゴ自身を拒絶しているわけではないと……そう聞こえた。

 そう都合よく解釈してしまったから、ヴァルゴはそのままメリィを抱きしめた。彼女はか弱くて、細くて、強くない。

 抱き潰してしまわないようにヴァルゴは精一杯の優しさで包み込もうとした。激情に駆られて両腕に力を込めてしまわないように。

 水風船を包み込むようにして、自分が持てる限りの愛情を彼女に注ぎ込んだつもりだ。


(愛しいのか、俺は……メリィのことが……)


 自分に言い寄る女性はたくさんいた。

 それは王族であるから、力のある戦士だったから、豪快さを気に入られたから。

 だが自分から女性を愛したことはただの一度もなかった。

 どの女性も確かに魅力的ではあったし、積極的な女性も、内気な女性も、様々な女性を見てきたが激しく心が動かされることはとうとうなかったのだ。

 そんな自分だから最初は自分自身が異常なのかもしれないと疑ったこともある。もしかしたら自分は同性が好みなのかと疑ったことさえあった。

 しかしどう考えても恋愛対象は女性であったし、そこが揺らぐことはなかった。

 それでも心から誰かを愛したことは一度もない。

 愛とは何なのか。愛するとは?

 男と女が交尾をして、種を残すことが全てなのか?

 子孫を残すだけでいいのなら、愛することは必要ないのでは?


「俺はお前のことが、愛しいのか……?」

「え……っと、あの……私に聞かれましても……っ」


 困った風に言葉を返すが、メリィはそこから逃げようとはしなかった。逃げられないのではない。逃げる必要性がなかったから。

 誰かにこんな風に抱き締められたのは、両親以外に経験がない。

 毒疫の呪いが現れてから、触れることすら。


(どうして私は逃げないの?)


 メリィは大いに戸惑ってはいるが、全く嫌じゃなかった。

 むしろとても心地が良く、ヴァルゴの体温と肉球の感触をもっと感じていたいと思うほどだ。

 だけどこのまま密着していたら、きっと毒に侵してしまう。

 早く離れなければいけないのに自分からそうすることが出来なかった。


 お薬を。

 触れたらダメ。

 毒が。

 そういえばお風呂に入ってない。

 臭ってたら嫌だわ。

 汗でベタベタしてるかも。

 臭いや汗で、毒の回りが早くなったらどうしよう。


 色んな思いが駆け巡る。

 ここ数年で一番思考したかもしれなかった。

 そのせいで頭の中がパンクして、目が回りそうになる。

 足元がおぼつかなくなって、ヴァルゴのお腹に体を預けた。

 急に力の抜けたメリィをしっかりと支えながら、大きな手はメリィの頬に触れて真っ直ぐ向かい合う。

 メリィは自分がふらついたから心配してくれているものと思い、平気だと伝える為に笑顔を作った。

 その笑顔にヴァルゴの心は突き動かされて、メリィの額にそっと口付けする。


 瞬間、何が起きたのかわからなかったメリィの顔はだんだんと紅潮していった。

 ヴァルゴもそんな彼女のウブな反応に、急に気恥ずかしくなって背中を向ける。まともに顔を合わせられない。


(俺は……何を、した? 人間の娘に、魔女に……キスだと!?)


 しっかりと自分が取った行動を思い返して、どんどん羞恥にさらされていくヴァルゴ。恥ずかしいなんてものじゃなかった。

 そんなものをとっくに通り越して、ヴァルゴは自分の中に目覚めた感情を理解することで精一杯となる。

 だんだん全身に熱を帯びてきて、心臓の鼓動が速くなってきた。

 呼吸も荒くなり、まるで全身の血がたぎるようだ。


(これが……、愛……!?)


 そうヴァルゴが答えを導き出したのと、ほぼ同時。

 メリィは彼の異変に気付いて、大きな背中をさすりながら声をかけた。


「ヴァルゴさん……」

「メリィ、俺は……」


 振り向き、改めてメリィの顔を拝む。

 そこには顔面を蒼白にさせたメリィが立っている。

 思っていた表情じゃなかった。

 もっと嬉しそうに、恥ずかしそうに、照れているものとばかり思っていたのに?

 そんな疑問も、煮えたぎるような血流のせいで考えがまとまらない。肩で息をするヴァルゴに、メリィは改めて宣告する。


「ヴァルゴさん、毒が回ってます!」

「……っ!?」


 いくら毒への抵抗力が高くても、メリィが処方した毒対策の薬を毎日飲んでいようと。

 直接肌に触れ、更にはしっとりとした額に口付けをしたのだ。

 これ以上の接触はない。

 

(え……? つまり、なんだ……? これは恋煩いではないというのか?)


 ヴァルゴはふらつき、室内が激しく回転しているような感覚で上下左右の判別がつかなくなっていた。

 泥酔状態のように自分の足で立っていられなくなり、そのまますぐそばにあったベッドに倒れ込む。


(それじゃあこの激しい胸の鼓動も、全身が火照るような熱を帯びた感覚も、実際に高熱を出しているだけだと……?)


 ふざけるな!


 口に出なくとも、ヴァルゴは心の底から魂の叫びを発した。

 そうして意識を失うも、彼にはちゃんとわかっている。


 メリィに感じた気持ちは、毒のせいではないことを。


 俺はこの娘を愛してしまったのだ、と。

 この気持ちに嘘はなかった。

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