第12話 『帰還』

 ニエべ湖の湖面に遮蔽物は何もなく、ざっと見渡しただけで広範囲を目視確認することができた。

 ものの数秒で湖周辺には誰もいないことがわかる。

 するとこの周辺にいた動物だろう、白ウサギがルーシーめがけて駆けてきた。雪国の白ウサギは非常に警戒心が強く、人間の存在に気付けばすぐさま逃げてしまうものだ。

 しかしこの白ウサギはそんな素振りを全く見せずに駆け寄ったところを見ると、先ほどルーシーの呼び掛けに応えた動物の内の1匹だと察する。


「何か見つけられた?」

『ちょっと前に人間の子供が来てました』

「本当に!? 今はどこに行ったかわかるかしら」


 身を乗り出すように白ウサギと会話するルーシーを見て、ニコラはある程度会話の内容を理解した。


『ここはヌシ様にとって聖なる場所です。あなた達の臭いもすぐに気付かれます』

「……も? ということは、ここに来た子供たちもフェンリルに気付かれたということ?」

『早くお逃げください。ヌシ様は許しを得ていない者には容赦しません』

「教えてくれてありがとう」


 青ざめたルーシーの表情に、ニコラは舌を打つ。


「白ウサギが教えてくれました。子供たちは確かにここへ来たみたいです。だけどフェンリルは侵入者の臭いに敏感らしくて。警告されました。早くここから出て行った方がいいって」

「だろうね。だから村の奴らはここら辺を侵入禁止の地域に指定してるってのに、あのバカ共ときたら」

「どうしたらいいんでしょうか、お師様。もしかして子供たちは……、もうフェンリルに」


 見つかっていたとしたら、きっとすでに殺されている可能性が高い。白ウサギの話からすると、きっとそういうことなんだろう。容赦しないということは命の保証はないということに違いないと思ったルーシーは焦りを隠せなかった。


「まぁ落ち着きな。フェンリルは知能の高い魔物だ。仮に子供たちが見つかったとしても、問答無用で食い殺されたりはしないだろう。まずは警告するはずだ。警告に従ってここからすぐに出て行った可能性もある。私たちもフェンリルの逆鱗に触れる前に、一旦ここから離れた方が良さそうだね」


 そう言って2人がアイスベアとソリのある方向へと踵を返そうとした時だった。

 背筋がぞくりとして緊張が走る。金縛りにでもあったみたいに体が動かない。殺意だけで全身を貫かれたように、恐怖が2人の体を支配していた。


 見るとソリがあった場所に、それはいた。 

 それの足元には怪我こそしていないが、アイスベアが口から泡を吹いて気絶しているようだ。

 少し前足を動かせばソリは粉々に踏み潰されているだろう。

 4本足で立つと、目の前にそびえ立つ小さな山かと思うほどだった。

 日差しを受けてキラキラと輝く白銀の毛並み、鋭く大きく見開かれた碧い瞳、それは確かに巨大な狼の姿をしている。目の前のそれがいつからここに立っていたのかわからない。気配も、足音も、何もしなかった。

 息を呑むように2人はそのまま立ち尽くす。動けばその瞬間に命を刈り取られるような気がしたからだ。

 待つしかなかった。


『何用だ、魔女よ』


 地の底から響くような低音の声、体を震わせるかのようなその響きで更に恐怖感が増していく。

 だがひとまず見つけ次第殺されることはないのだと思ったが、返答次第ではあっという間に殺されてもおかしくはないという殺意が、ずっと全身を強張らせていた。

 ニコラも緊張しているのか、ゆっくりと息を吐いてから答える。


「魔物の王フェンリル、私は氷結の魔女ニコラという。ここに人間の子供が迷い込んで来ていないだろうか。私たちは子供たちを探しに来ただけだよ。見つければすぐにでもここから立ち去ろう」


 品定めするようにニコラを見据えるフェンリルに、ルーシーは何事もなく帰してもらえるよう祈るしか出来なかった。するとフェンリルは少し身を屈めるとニコラの臭いを嗅ぐような仕草をする。大きな鼻がニコラのすぐ目の前に来

た時、酷い獣臭が鼻を刺激した。


『氷の大精霊グラキエスと契約せし者か。厄介な魔女が来たものだな』

「その精霊に免じて、どうか見逃してくれないかね」


 フェンリルはニコラから顔を離すと、今度はルーシーへと狙いを定めたようだ。大きく見開いていた両目が、凝視するように目を細める。その視線で射殺されそうに感じたルーシーはニコラの背後へ隠れたくなったがしかし、やはり恐怖が勝って体は言うことを聞いてくれなかった。


『その娘は』

「私の弟子だよ。最近魔女としての修行を始めたばかりだから何も出来やしない、何の変哲もない娘さ」 

『この山一帯に住む動物たちが騒がしい。……この娘の仕業だろう』

「気に障ったのならやめさせよう。子供たちを探す為に動物たちの力を借りていただけだ。子供たちさえ見つかれば、動物にかけた魔法は解くし私たちもすぐに出て行く。わかったら早く解放してくれないかい」


 一体何度同じ問答を繰り返したらいいのだろうかと思うほどに、フェンリルはなかなか2人を見逃してはくれなかった。こうしている間にもこの極寒の地で子供たちが今どこでどうなっているのかわからない。

 時間がないというのに、とニコラはだんだんと苛立ちを見せ始めていた。 

 しかしここでフェンリルの機嫌を損ねたりしようものなら、それこそ子供たちもニコラたちもこの山で全滅してしまうことだろう。魔物の王に大人しく従い、正式に許可を得た上で、子供たちの捜索をして下山することが、最も安全な方法だった。


『……いいだろう』


 ようやく解放されると思った。ほっとしたのも束の間、突然フェンリルが空に向かって吠えた。

 耳をつん裂くほどの遠吠えに2人は耳を押さえる。何事だろうと思っていると、先ほどの遠吠えに呼応して木々の間から何かが現れた。見るとルーシーが従わせていたアイスベアとは別の、同種の魔物が人間の子供を口に咥えて歩いて来る。1匹につき1人咥えてやって来たアイスベアは、フェンリルに指示されているかのようにニコラの前に4人を置くと、のそのそと静かに去って行った。

 子供たちの中には見覚えのある少年、カミナの姿もある。ルーシーはカミナ以外に顔と名前を一致して覚えている子供がいない。他の3人がカミナと共に行方不明になっていた子供かどうかニコラの表情で確認する。


「間違いない、全員揃っているね」

「よかった。怪我もないみたいだし、このまま連れて帰れば……」


 そう言いかけた時、まるで魔法が解けたかのようなタイミングで子供たちが目を覚ました。何が起きたのかわからないといった風で、子供たちは目をこすり、周囲を見渡し、自分たちが家のベッドで起きたわけじゃないことに気がつく。

 そして目の前にはニコラ、わけがわからないという感じでふと背後を見ると巨大な白銀の狼の存在を目にした。

 子供たちは悲鳴を上げ、泣き叫び、慌ててニコラの元へと這いずり寄って震えている。


「世話の焼ける子供だよ全く」

「ニコラ! これどうなってんの!? 私たちなんでここに!?」

「お前たちが勝手に村から出て行ったせいだろうが。わかったらさっさと立ちな。フェンリルの機嫌を損ねる前にね」

「フェンリル……、本当にいたんだ」


 ニコラからしがみついて離れないアメリア、ロンベルト、アルバート。彼らはルーシーと年齢がさほど変わらない。正直に恐怖し、怯えている様子だ。

 子供たちの中で最年長のカミナは、恐ろしく大きいフェンリルの姿を目に焼き付けるように見つめていた。

 魔物の王を目にした後にカミナはハッとして、肩に下げていたバッグに手を突っ込むとパラパラと氷のカケラが散っていく。残っていたのは花弁で包まれていた実の部分、小さな氷の塊だけだった。


「そんな、せっかく摘んだのに……」


 氷の花を摘み取っていたカミナであったが、バッグに入れている間に何かしらの衝撃で氷の花が砕け散ってしまったことにショックを受けている様子だ。

 だがフェンリルを目の前にして、カミナが気落ちしていることに誰も気に留めることはない。むしろ無事を確認し早くここから立ち去ろうとするニコラに向かって、カミナが慌てて制止する。


「ちょっと待ってくれよニコラ! 俺たちがここに来た目的をまだ果たしてない!」

「何言ってんのよカミナ、このままここにいたら殺されちゃうよ! 早く帰ろうよ!」

「そうだよ、氷の花なんてもうどうでもいいよ。早く家に帰りたい……」


 カミナの気持ちとは裏腹に、他の3人は恐怖で早く家に帰りたいようだ。まだ幼い子供たちがこんな雪山で迷子になり、魔物に捕まっていたのだと思うと無理はないとルーシーは思った。


「えっと、カミナ。お師様から聞いたよ。氷の花を摘む為にここに来たんだって。でももういいの、あなたたちの気持ちは伝わっているから、ここは諦めて早く帰った方が……」


 ルーシーはカミナに氷の花を諦めて帰るように促した。しかしカミナは意地になっているのか、プレゼントをもらう当人がいらないと言っているにも関わらず、カミナに氷の花を諦める様子は見られない。


「それじゃここまで来た意味がなくなるじゃんか! 何の為にこんなとこまで来たと思ってんだよ! お前らだって賛成しただろ!」

「でも魔物に捕まるなんて思わなかったんだもん! もう怖いから、やめようよ。帰ろうよ」

「だったらお前らだけで帰ればいいだろ! 俺は氷の花を持って帰って渡すんだ! あれがないと意味ねえんだよ!」


 どうしても諦めようとしないカミナに、ルーシーも言葉に力が入る。


「私はもういいって言ってるの! これ以上みんなを危険な目に遭わせないで!」

「だから俺だけ残るって言ってんだろ!」

「残ったら殺されちゃうんだよ!?」

「死ぬのなんか怖くねぇよ!」


 カッとなった時には遅かった。

 ルーシーはその言葉を聞いた瞬間、自分の死を思い出し、怒りが込み上げた時にはすでに叫んでいた。


「本当の死を味わったことがない子供が知った風なこと言わないで!」

「……っ!」


 ルーシーの激昂した叫びに、カミナは思わず言葉に詰まる。

 頭に血が上り、涙しながらルーシーは思いの丈を吐露した。


「本当に死ぬ時ってものすごく辛くて痛くて怖いんだよ! 泣き叫んでも、痛いからやめてって叫んでも、死は待ってくれないの! 何も知らないくせに死ぬのが怖くないだなんて言わないで! カミナには死んだら悲しむ人がいるんでしょう? お父さんやお母さんや、おじいちゃんやおばあちゃんが悲しむんだよ? カミナが怖くなくても、カミナの家族はあなたが死んじゃうことがとってもとっても怖いんだよ? だから簡単にそういうこと言わないで、お願いだから……」


 悲しんでくれる家族がいることが、どれほどありがたいか。

 そんな家族を悲しませるようなことは決してしてはいけない、どんなことがあっても自分の命は自分だけのものじゃないんだとルーシーは教えたかった。

 ルーシーの命は誰も悲しんでくれなかったけれど、カミナには自分の死を悲しんでくれる家族がいる。

 それがどれだけ重要か知って欲しかった。


「……悪かった」


 ルーシーの勢いに飲まれてカミナは大人しく謝った。

 気付くとフェンリルはすでに音もなく姿を消している。ひとまずは許されたのだと思うようにして、当初の約束の通りにフェンリルが機嫌を損ねて再び現れる前に全員ソリのある方へと駆けて行った。

 ルーシーは泣き叫んだ直後に居心地が悪くなって、泡を吹いて倒れているアイスベアを起こす為に声をかけに行く。1人離れていくルーシーを追いかけて、カミナはもう一度謝った。


「さっきはごめん。俺、自分のことしか考えてなくて」

「……いいの、私の方こそごめんなさい。偉そうなこと言ってしまって」

「そんなことないよ。あれ、すごく効いた。お前、すごいよな」


 アイスベアに寄り添って体を揺さぶりながら、すごいと言われたルーシーはきょとんとしてカミナを見る。

 カミナは恥ずかしそうに、バツが悪そうにあさっての方向を向きながら頬を指で掻き、ぶっきらぼうに話す。


「その年齢で死ぬことが怖いって説得するやつ、まるで実体験みたいでさ。なんか急に怖くなった」

「あー、うん……。あれね、えっと……その、なんて言うか……。多分そんな感じじゃないかなって、想像の……話のつもりだったんだけど」

「それにしてもすげぇリアルだった。だから、その。お前に氷の花をプレゼントしてやれなくてごめんな。あれでお前がみんなと仲良くなれたらなって思って、ニエべ湖に行こうって言ったの俺なんだ。全部俺のせい、俺が悪いんだ……」


 だが元はと言えばカミナの行動はルーシーの為を思ってのものだ。

 ルーシーはこれ以上、この心優しい少年を責める気にはなれなかった。小さく首を振って、ぎこちなく微笑む。上手く笑えない自分がどうしようもなく情けないが、これでどうにか納得してもらえないだろうかとルーシーは精一杯カミナを励まそうと思った。

 カミナは顔を真っ赤にして、何でもないとでも言うようにルーシーの向かいに屈んでアイスベアをバシバシと叩いて起こそうと協力する。

 アイスベアの耳元近くでルーシーが声をかけ続けていると、ようやく体がびくりと動いて目を覚ました。


「ごめんね、大丈夫かしら?」


 ソリ引きを頼めるかお願いしてみたが、フェンリルの殺意にあてられてまだ体が思うように動かないせいだろう。アイスベアは独特の鳴き方をすると、すぐさま別の1匹が木々の間からのそのそと出てきた。

 恐らく先ほど子供たちの内の1人を咥えていたアイスベアであろう。呼んでから来るまでの時間からして、近くにまだいたらしい。


『彼が代わりに引き受けてくれます。すみません』

「ううん、ありがとう。助かったわ」


 ルーシーは横たわったアイスベアを優しく撫でて、無事を祈る。そして新たに現れたアイスベアに挨拶をし、村までソリを引いてもらうようお願いした。

 つい先ほどフェンリルの従者の如く働いていた彼が、果たしてただの魔女の願いを聞き入れてくれるものかどうか自信がなかったが、どうやら問題ないようだ。

 ようやくソリを引く準備が出来るようになり、ソリで待っていた子供たちの方へと戻っていく。


「それじゃあそいつに手綱を付けてさっさと帰ろうかね」


 ニコラが待ちくたびれたかのように言うとアイスベアに手綱を装着させ、御者台にニコラとルーシーが座り、子供たち全員がソリに乗り込んだことを確認する。

 これでようやく全員で村へ戻ることが出来そうだった。

 アイスベアがゆっくりと歩き出してソリを引いていく。子供たちは寄り添うように互いにくっついて「怖かった」「早くパパやママに会いたい」と言い合っている。

 そんな中、カミナは粉々に砕けた氷の花だったカケラと氷の実であろう塊をじっと見つめていた。


「せっかく見つけたのに、粉々になっちゃったんだ。台無しだよ」


 そうこぼすカミナにルーシーは振り向き、なんとか励まそうと声をかける。


「でも、みんなが無事だったのが何よりだよ。私はその方が嬉しいから……」

「カミナ、氷の花を摘んでたのかい?」

「あぁ。でもずっとバッグに入れてたせいか、どこかでぶつけた時に砕けちゃったんだよ」


 そう言ってカミナは立ち上がり、唯一残った氷の塊をルーシーに差し出す。ソリを引いているアイスベアが歩いているとはいえ、雪の中に埋もれた石で時々大きな振動が起きる為カミナはすぐに座り込んだ。

 ルーシーはカミナから受け取った氷の塊を、手綱を握っているニコラに見えるように手のひらを突き出す。

 じっと見つめてからニコラは高らかに笑った。彼女がこんな風に笑うことは滅多にないのだろう。ルーシーだけでなく子供たちまで何事かと思ったように驚いて目を丸くしていた。


「カミナ、お前は運がいいね!」

「何がだよ! フェンリルに出くわした上に、氷の花割れちゃったんだぞ! こんな不運ねえだろ!」

「そうじゃないさ、お前は本当に幸運だよ。これはね、世にも珍しい氷の宝石だ。氷で出来ているから受粉することのない花が、ごく稀に宿す氷の実。それは氷で出来ているにも関わらず永久に溶けることのない、奇跡の氷なんだ。氷晶石と言ってね、これを持っていると運気が良くなるとか、眠っていた才能が開花するとか。そういった力を与えてくれると言われているんだ。滅多に手に入る品物じゃないからね、大事にするんだよ」


 そう言われ、カミナは唖然とする。自分がそんな大層なものを手に入れた実感がないようだ。

 ルーシーはくすりと笑って、氷晶石をカミナへ返そうとする。


「よかったね、カミナ。無駄じゃなかったよ」

「いや、それはお前にやるよ」

「えっ? で、でも……これ……、とっても貴重なものってお師様が……」

「だからお前にやるって言ってんだ。お前らもいいよな?」


 カミナが3人に問いかけると、全員がにっこり笑って首を縦に振った。


「だってルーシーの為に採ってきたんだもの。大事にしてね」

「俺は自分の命が助かっただけでもう十分だ!」

「危ないってわかってて探しに来てくれたんだろ? じゃあそのお礼ってことで受け取ってよ!」

「でも……」


 ニコラの言葉で価値の高いものだと聞かされ、それを自分が受け取るわけにはいかないと躊躇するが、ニコラは鼻を鳴らしてルーシーの迷いを晴らせる。


「もらっときな。それが礼儀ってこともある」

「お師様まで……」

「村に到着したらそれを装飾品に加工しよう。そういう代物は身につけるに限るからね」


 子供たちは満場一致でニコラの意見に賛同した。1人戸惑うルーシーだが、髪に着けている髪飾りを思い出して、それからカミナたちが命懸けで採ってきた氷晶石を握りしめ、大切にしようと心から思った。

 生前は与えられることのなかった人生であったが、この人生では他人から与えてもらってばかりだ。

 自分もいつか与えてもらった分、相手に返せるような人間になろうとルーシーは固く誓う。



 ***



 帰りは子供たちを乗せているということもあり、速度を緩めてソリを引かせたせいかすっかり陽が落ちかけていた。村の出入り口が見えてくるなり、子供たちは安堵した表情になると男の子はソリから飛び降りてアイスベアを追い越し走って行ってしまう。

 さすがにアメリアは女の子なので、アイスベアが止まるまで我慢して待つことにした。

 先に村に到着した男の子たちが大声で帰還を告げると、次々に村人たちが出てきて歓声が上がる。ソリに乗っているニコラに手を振り、皆子供たちの無事を知って喜んでいる様子だ。


「とにかく大事に至ることがなくてよかったね。一時はどうなることかと思ったが」

「お疲れ様です、お師様」

「それはお前もだよ、ルーシー。よくやったね」


 ニコラに褒められ、ルーシーは舞い上がりそうになったのを必死で堪えた。雰囲気でだが、ニコラは恐らく騒がしいことが好きではないだろうと思った。ここで奇声を上げて喜びを表現したら「うるさいね」と不快にさせるかもしれないと思った為、ルーシーはあえて静かに喜びを表現した。

 頬を赤らめ照れを隠すように、ニコラに微笑む。やはりまだ自然な笑顔を作ることは難しかったが、顔面の筋肉が痙攣することはだいぶ少なくなったと自分では思っている。

 無理して笑顔を作ろうとしているようにしか見えないルーシーに、ニコラはやれやれというため息をつくと手綱から手を離して御者台から降りた。

 ルーシーもニコラに倣って降りると、村人たちが怯えてしまわないようにアイスベアに駆け寄り、お礼を済ませて森へ帰した。


「お帰りなさい、ニコラ! ルーシー!」

「ありがとうね、本当にありがとう!」

「全員無事に帰ってきて本当によかった! 礼を言うよ、さすが氷結の魔女様だ!」


 村人たちの歓喜に対してニコラは手を振って返事をすると、村長の家に用事があると言ってその場を後にした。ルーシーもニコラについて行こうと駆け出すと、先ほど助けた子供たちが呼び止めたので振り返る。


「ルーシー、本当にありがとう!」

「今日はこんなことがあって勉強会がダメになっちまったけど、これからもよろしく頼むな!」

「仲良くしようぜ! お前がアイスベアを家来にしてるの、スッゲェかっこよかったからみんなに自慢するぜ!」

「なんでお前の自慢になるんだよ、アルバート」


 笑い合う子供たちにルーシーも笑みを浮かべていると、ニコラとすれ違うように駆け足で子供たちの方へ向かう大人がいた。あまりの勢いにニコラについて行くことを忘れて見届けていると、1人の男性がロンベルトとアルバートを殴り飛ばした。

 よく見るとそれは兄弟の父親、マーキスだ。

 子供たちを探しに行く時アイスベアに手綱を装着してくれた、あの時の男性である。


「ばかやろう! 一体どれだけ心配させたと思ってんだ、このクソガキ共!」


 兄であるロンベルトの胸ぐらを掴み怒鳴るマーキス。ルーシーに向かって「すごいな」と褒めていた男性ととても同じ人物だとは思えないほどの形相だった。


「一歩間違えば死んでいたかもしれないんだぞ! わかってるのか!」

「ご、ごめんなさい……お父さんっ!」

「ごめんなさいいいお父さん! もうしません! だからお兄ちゃんを下ろしてよおおお!」


 泣き叫びながら謝る兄弟、怒りに満ちた表情の父親。しかし誰1人として彼を止めようとする者はいなかった。

 その光景を見たルーシーはひどい頭痛がして表情が歪む。

 泣き叫びながら謝罪するルーシーに対し、決して許すことがない両親、使用人たちはそれを見て見ぬ振り。

 重なる。

 息が苦しくなる。

 自分を見ているようだ。

 あまりに酷い仕打ちだと思ったルーシーがニコラの方へと振り返る。

 ニコラも同じように今の光景を目にしていたようだが、黙ったまま止める様子がない。


「お師様、なぜ止めてあげないんですか」

「親のすることに他人が口出しするもんじゃないよ」

「でもあれは虐待です。せっかく無事に帰ったのに、もっと喜んであげればいいのに殴るだなんて酷すぎます」


 そう非難するルーシーに、ニコラは憐れむような表情でルーシーを見た。


「お前は実の親から心配された経験がないのかい」


 そう問われ息が止まる思いがした。

 知られたくない、昔の自分のことなど、知ってほしくない。

 自分が誰からも愛されたことのない哀れで可哀想な人間だったことを、惨めで虚しい人生を過ごしていたことを、ニコラにだけは知られたくない。

 しかしルーシーの凍り付いた表情で察した様子のニコラは、あえて多くを語らず、マーキス親子の方へ視線を移して話し出した。


「親ってものはね、子供のことが心配な余り感情的になってしまうものなのさ。お前から見ればマーキスが子供に暴力を振るっているようにしか見えないかもしれないが、マーキスは自分の子供たちを心から愛しているから感情が昂ってしまう。心配して、心配して。どこかで怪我をしているかもしれない、もしかしたらもう死んでしまったのかもしれない。そんな恐怖と戦ってきたから、いざ子供たちの無事な姿を見た瞬間に安堵から感情が爆発しちまうんだよ」


 よく、わからない。


「普通の親ならね、子供の命は自分の命よりずっと重たいものなのさ。だからマーキスが兄弟を殴ったのだって、愛情から来るものなんだよ。愛の鞭って言ってもわからないかもしれないが、時に体で愛情をぶつけることだってある。別に私は愛情があれば殴ってもいいなんて言ってないよ。ただね、複雑なものなんだよ。親の愛ってものはさ」


 そう語るニコラの横顔は、どこかひどく悲しそうな表情だった。

 親の愛を知らずに育ったルーシーには、ニコラの言葉の意味の全てを理解することは難しかったが、これだけは理解できた。


 かつてのルーシーの両親が、普通ではなかったこと。

 そして両親から受けてきた暴力の数々は、決してマーキスのような愛情から出てくるようなものではないということ。

 それだけだった。  

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