第31話 家康次世代(遺産の枯渇)

 三代将軍家光の嫡男竹千代は徳川家綱と改め、1645年元服し翌年西の丸へ移る。家光が死去すると(1651年)朝廷より将軍宣下を受けて、四代征夷大将軍に就任し内大臣に任じられた。

 幼年で将軍職に就いたことにより、将軍世襲制が磐石なことを世に知らしめる。(将軍宣下は京でなく江戸でおこなわれ以後の前例となる)

 家光の時代に形作られた政治機構が機能して、幕臣が入れ替わると老中の合議制と四代将軍家綱自身の上意により運営されるようになり「左様せい様」と皮肉られたというが、殿様とは「そうせい」・「考え直せ」・「もってのほかじゃ」のいずれかを使い決裁するものだそうだ。主導権を積極的にとる殿様は少なく、むしろそういった殿様ではないように教育をするのが良しとされた。

 四代将軍家綱には30半ばに至っても男子が無く継承問題が危惧される中、1680年病に倒れ危篤に陥ると末弟松平綱吉を養子に迎え将軍後嗣とし死去(享年40歳)。

四代家綱の死去で将軍家直系の世襲の形は崩れた。

 家綱の治世は概ね安定した時代ではあったが、幼年将軍となり間もない1657年に起きた「明暦の大火」は江戸の半分を焼いた大火災(江戸時代最大)で江戸城天守を含む城溝の多くを焼失した。家康開府以来続いた古い密集した市街地が焼き尽くされ新たな都市整備の契機にはなったが三代将軍家光が残したいわれる500万両の遺産は家綱死去時には100万両以下になっていたという。

 五代将軍綱吉は家光の四男で、兄家綱の将軍宣下後に三兄綱重と共に元服したが、兄家綱に子が出来ず、三兄綱重が早世のため、江戸城二の丸に迎えられ(1680年)同月に四代将軍家綱死去で内大臣及び右近衛大将となり将軍宣下を受ける。

 

 綱吉の時代には戦国の殺伐とした気風はすっかり消えて『徳』が重んじられる世となっており(文治政治)、五代将軍綱吉は特に儒学(朱子学)を重んじ尊皇心厚く、朝廷を遇した。後世でも有名な「赤穂浪士の討ち入り」の原因は、朝廷使者接待役の浅野内匠頭が、礼法指南役の吉良上野介に江戸城中で「この間の遺恨覚えたるか」と叫び斬り掛かった事件(1701年)で、幕府の年間行事で最も格式の高い朝廷儀礼の直前におきた狼藉であり、異例の大名が即日切腹に処されたのは儀式を台無しにされ将軍綱吉が激怒したことが原因とされる。また「生類憐みの令」は、儒学『孝』から母桂昌院をたてる余り母の寵愛した僧の言葉「世継ぎに恵まれないのは動物の殺生が原因」を鵜呑みに信じ発せられたというネガティブな定説の中、最近では「道徳観を具現化して太平の世においてヒトの在り方を示した」とする好評価もある。

 五代将軍綱吉の嫡男徳松は早世していた(1683年享年5歳)。二代続き継承問題が危惧されたが、1704年亡き三兄綱重の長男綱豊(43歳)が家宣と改名し後継として二の丸に移した。五代将軍綱吉は1709年に感染症で亡くなっている(享年64歳)。


 不思議なもので同時期、京朝廷でも後継問題に揺れた。二代将軍秀忠の外孫として即位(1629年5歳)した第109代明正帝は継子を残さずに1643年19歳で崩御する。

 異母弟(父後水尾天皇)が11歳で皇位を継ぎ『第110代後光明天皇』に即位するが1654年22歳で崩御。前年に末弟識仁親王(のちの霊元帝)を猶子に迎えていたが、生後間もないため繋ぎとして、兄にあたる(父後水尾天皇)『第111代後西天皇』が即位(1658年)し、1663年10歳に成長してから識仁親王に譲位した。

 『第112代霊元天皇』は摂家と幕府年寄衆が朝廷運営を争う中に割って入り親政を強行すると後継を思いどおり選ぶことに成功する(将軍綱吉も容認した)。

 1683年五宮朝仁親王が立太子(立太子礼は300年ぶり)、1687年譲位がおこなわれ幕府の統制で極めて簡素であるが、219年ぶりに大嘗祭を復活させた。(儀礼省略は神を欺くものとして朝廷側でも不満が募ったため次回から再び中断となった)

 霊元院は『第113代東山天皇』の即位後も幕府の制止を振切り朝廷へ介入し続けて東山帝が成長し親政を始めると裏から介入した(1693年)。

 東山帝は幕府に接近し、五代将軍綱吉のちからを借りて霊元院の勢力排除に努め、1707年には第5皇子、長宮慶仁親王(6歳)を儲君と定めて翌年立太子させている。


 五代将軍綱吉の治世(元禄期)は、井原西鶴(浮世草子)、松尾芭蕉(俳諧師)、近松門左衛門(歌舞伎作者)といった文化人を多く生んだ好景気の時代とされた。

 井原西鶴『好色一代男』に代表される作品は、町人が町人を主人公に生活相を描く当代画期的な小説であり、世相や風俗を背景にして人々が愛欲や金銭に執着しながらそれぞれの才覚で時代を生き抜く庶民の人間模様を描いた日本文学の新境地である。

「ヒトは欲に手足のついたもの」や「世に銭ほど、面白きものなし」の言葉通りに、ヒトの欲望を肯定し消費社会を写実的に描いて元禄文化を代表するタレントとなる。同時代活躍した近松門左衛門や竹本義太夫の浄瑠璃(三味線伴奏の語り物)と同様に上方(大阪・京)を中心に娯楽芸能として庶民に愛された。


 1600年(関ケ原の戦い)の頃、推定1227万人とされた日本の人口は、1700年には推定2829万人(2.3倍)となっている。農村の生産性向上と共に、それを扱う町人が

活性化して、経済の中心「天下の台所」と呼ばれた大阪などの「上方」が活気づいて華やかで自由な上方文化が花開いたのだが良い時代は永くは続かない。


 元禄時代には鉱山の枯渇が始まり、金銀産出量の低下と貿易による海外流出により充分に貨幣の鋳造供給が出来きず、流通経済が停滞(デフレ不況)の危機にあった。

 それをかろうじて回避したのは、綱吉・桂昌院の散財癖で幕府は大幅な財政赤字を招いて財政破綻が現実味を帯びた。綱吉治世で経済政策を一手に託された荻原茂秀は

200年も時代を先取りした『国定信用貨幣論(金銀本位貨幣から脱却)』をいきなり実施し、貨幣改鋳(流通貨幣を回収して金銀含有量を減らした貨幣を鋳造し流通量を増大させる)すると一気にインフレ(元禄バブル)に突入、消費活動が活発化した。

 それでも、相次ぐ災害からの復興対応などから幕府の赤字財政脱却は困難を極め、

1695年より奥州飢饉、1668年勅額大火(江戸)、1703年元禄地震(関東)、1704年浅間山噴火、1707年宝永地震(南海トラフ)・富士山噴火(近年最新最大)

1708年京都大火など天災が相次ぎ、将軍綱吉の治世後半は「天罰=主君が徳を欠くため天災がおこる」と庶民から嘆かれた。


 六代将軍家宣(1709年48歳)は就任してすぐ側用人を解任して無役の旗本である新井白石を重用して財政改革を試みたが、在職3年で死去(1712年享年51歳)する。「私は天下万民のためにあえて遺命に背く」と「生類憐みの令」を順次廃したように綱吉の政策には異を示した。

 四代家綱、五代綱吉と同様に、六代家宣も後継者に恵まれず、将軍職を継いだのは3歳の4男家継であり、兄弟は皆早世していた。

 朝廷では、幕府との示し合わせにより七代将軍家継の将軍宣下が先におこなわれ、直ぐに東山帝の譲位により『第114代中御門天皇』(9歳)が即位したが、東山院は同年に崩御してしまい、再び霊元院が復帰して院政をおこなうこととなった。


 幼い七代将軍家継(3歳)を前将軍時代に続き側用人の新井白石と間部 詮房が支え帝王学の教育を始めて5年が経ち、皇室との婚約も決まった。そんな将軍家継を病が襲い幼い命を奪う(1716年享年8歳)。六代家宣の血脈は途絶えて、後任には大奥・幕臣の支持を得た紀州藩主徳川吉宗(33歳)が八代将軍に迎えられた。

 4男の吉宗は父・二人の兄の相次ぐ死によって1705年に22歳で紀州藩主になると、藩の財政再建に着手し、自ら木綿の服を着て質素倹約に努め手腕を発揮した。

 

 八代将軍に就任すると側用人の新井白石と間部 詮房を罷免し、水野忠之を老中に任命して財政再建を始める。享保の改革(江戸三大改革のひとつ)の推進により4000人の大奥が1300人まで減員されるなど倹約政策は幕府に留まらず庶民まで及び増税政策(五公五民)によって農民の生活は困窮し、百姓一揆の頻発を招いて経済や文化は停滞した。

 1745年将軍職を長男家重に譲るが、病弱で言語障害のあった家重よりも、聡明な二男宗武や四男宗尹を将軍職に推す周りの動きがあった。吉宗はあえて愚鈍とされた家重に家督を継がせ宗武と宗尹は、養子に出さず江戸城内に留め、田安家・一橋家が創設され、その後に創設された清水家と合わせ『御三卿』と呼ばれるようになった。

 吉宗は大御所となった翌年1746年の病の後遺症で右半身麻痺と言語障害を患い、引退(大御所)から6年後の1751年享年68歳で死去した。


 九代将軍家重は幼少から大奥の篭り酒色に耽り文武を怠り大御所吉宗を悩ませたが本家外から将軍に就いた身として、自ら「才覚で幕府将軍は選ばれない」ことを示し守る必要があった将軍吉宗の背景もあった。また、将軍家重の嫡男家治が幼少時代に非常に聡明であったことも吉宗の将軍決定を後押ししたといわれる。

 将軍としての家重は父吉宗の遺産である『享保の改革』を推進し予算制度導入など独自の政策もおこなったが、負の遺産『百姓一揆』による社会不安は広がりをみせ、原因究明に努めた将軍家重は田沼意次を抜擢して「米以外の税収確保の政策が急速に推し進められた」しかし、これは幕府の利益や都合に基づく政策であり、一見すると諸大名や民衆には何ら見返りなく(実は市場経済を活性化させる進歩的政策)また、幕府役人間で賄賂や縁故による人事が横行するなど武士本来の士風を退廃させたため『世直し』(悪政を正す)の風潮が社会に広まった。

 将軍家重の幼い頃から近侍していた大岡忠光は、不明瞭な言葉を唯一聞き分けたと言われ側近として異例の出世を遂げる。茶の間のヒーロー南町奉行「大岡越前」とは親戚関係にあり交流もあったという。

 九代将軍家重は大岡忠光が亡くなると、将軍職を嫡男家治に譲って大御所となる。翌年、田沼意次の重用を十代将軍家治に遺言し死去した。(1761年享年52歳)

 家重は障害があっても頭脳明晰で強力なリーダーシップで政治実権を握った将軍であり、幕閣には不人気だったが「隠れた名君」ともいわれる。


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