第7話 天下万民
国家統一を目指した理由は、私利私欲の争いから社会を守り集団に秩序をもたらすため、“天皇は唯一無二の統治者”であり、“天下万民は生まれながらの契約”をもってこれに仕える。
律令の始まりはシンプルな理想からであり、“公地公民の概念”はある意味では非常に進歩的な思想であったが社会の本質を見誤った政策の結果、すぐに破綻してしまう。
まず、第一に税がキツ過ぎた。公民は良民と賤民に分けられ、6歳になると役割に合わせ生涯の耕作地(口分田)が与えられて、段階的に納税義務が発生するのだが、良民男性が最も厳しく、女性は納税負担が軽かった。賤民には元々、強制的に労役が課せられ自由など無かったが納税は免除される。至極当然の税負担にも思えるのだが逃げ出して賤民を選んだり女性を偽ったりで良民男子の労役や口分田放棄が横行してスタートしたばかりの改革を悩ませた。
納税義務を果たす価値を見出せず国家との契約を反故にする浮浪(はぐれ)逃亡者が増えると田畑は荒れ果て、古(いにしえ)より続いてきた『農業共同体』は瓦解して、末端の秩序はかえって乱れてしまう。
弥生の世から、稲作で特定の耕地(ムラ)に集まるヒトは力を合わせて、ようやく生存可能な収穫にありつける集団生活をおくり始めて、備蓄ができるようになると、それを守るために“力を合わせた”。
農業集団には優秀な指導者が不可欠で、ムラ長(おさ)が労力を束ね祭祀を仕切る。こうした集団が外界との交渉など政治力を求め結合して、農業共同体首長(豪族)に成長してゆく。大和朝廷とは、各地の共同体を“氏姓制”で掌握した統一政権であり、根本的な生産体制は弥生の初めと変わりない。
律令制はこの最小単位の民衆社会に無理やり踏み込み、戸籍を押しつけ行政という箍(たが)にはめ込むものだが、その実は頗(すこぶ)る未熟で、労力を束ねて生産から収穫に至るには、共同体の長(おさ)である郡司(豪族)の力量に頼る他ない。
セカンドインパクトにより導かれた改革派の理想は、先端文明導入だけに留まらず中央集権化という政治変革の域まで達した。
しかし、あくまで最上部の限られた指導層で意思決定されたもので、社会の実情に合わせて機能するまで相当な時間を要するし当然ながら想定通りに進むわけがない。
事実、改革の詔(AD646年)から始まるが、白村江の戦い(AD661年~662年)の兵力捻出や国土防衛の観点から豪族との融和が図られて、壬申の乱(AD672年)で天武帝に政権が移った際も兵力は豪族であり続けたのだ。
租庸調の要(かなめ)である戸籍や計帳の作成には地方行政官(郡司)の漢文認知が必要であり、朝廷支配が及んでいた地域のすべてを網羅できたとは到底考えられず、公地公民は、畿内の限定的な地域から少しずつ広まっていったことがうかがわれるが庶民に根付いていた『農業共同体』の“持ちつ持たれつの掟(集団秩序)”から個々が否応なしに切り離されて、キツイ税を急に負わされれば、逃げ出すのもうなずける。変革は一筋縄では進まないのだ。
一方では、国司が税の見返りとして貸し付けた先端文明の鉄製農具や、品種改良がすすんだ種籾(たねもみ)によって格段に収穫効率が上がると有力農民(田堵)による指導力・生産能力が重宝される世が訪れて、階級社会(身分差別)には新たな潮流が生まれる。
富は1%~2%といわれた中央裕福層に集まり周りに群れる輩(やから)がお零れを頂戴する。ほとんどの民衆は、縄文や弥生の頃と変らぬ生活をおくって、心の内など遥かに荒んでいたことだろう。
耕地(口分田)放棄で徴税を逃げ出せば同じ区画の仲間に多大な負担をかけたが、それでも大貴族や寺院私有地に逃げ込み農奴に身を落とす道を選ぶ良民が止まない。
富裕層はこうした労働力と有力農民(田堵)を雇入れ、次々朝廷より繰り出される的外れな政策を利用して私有地(開発領地)を増やし富を蓄える。公領税収が減った朝廷は中央官職(貴族)の給金に困ると、地方官職の任命権と徴税権を貴族に与えて事実上の分国を認めてしまう。
聖徳太子は草葉の陰から嘆いた事だろう。しかし、先端文明導入で貧しいながらも農村の人口は飛躍的に増えて国力は確実に増した。
縄文末期に8万人まで減った人口が弥生時代に稲作の普及で60万人まで増えたが、この時代には10倍の600万人にまで急増する。
これは都を中心に都市整備が進み、衛生環境の進歩があったことと、何より口分田支給で農民の食生活が確保された功績がとても大きい。
非常に残念だが人口急増に行政が追い付けず(公田不足・浮浪急増)短絡的な墾田政策に走って舵取りを誤ったことで、貴族権力の増長を招き庶民と生活格差は開くが不平不満も最低限の生存が確保されてこそ思えば、“朝廷の泰平”は天下万民の認めるところとなった。
そしてもう一つ、やがては天下万民の救いとなる『大乗仏教』が、選ばれた人々(高僧)の悟りの経読に期待してきた朝廷勢力主導の『鎮護国家思想』から離れだし少しずつだが、天下万民に『徳』をもたらし始めるのも、この頃からである。
きっかけは農村部を僧が助けたことだろう。それまで田んぼの畔も川に架ける橋も溜池もムラの公共事業はすべて住人達が力を合わせて賄ってきたが、朝廷(国家)の統制や徴税が強まるとその余力はなくなる。
労役に駆り出されて官人の仕切りに身を置くと、ムラの自立心は損なわれ協調性も失われてコミュニティは機能不全を起こす。
遷都や寺院建立など、自分達の暮らし向きにしか関心ない朝廷・貴族が補うことはないから、ムラの荒廃は進み、人々には重い税だけが圧し掛かった。
こうした不徳は、都で貴族の厚い庇護の下に、何不自由ない暮らしをおくる寺院の修行僧にも少なからず影響を及ぼして、中には寺に篭って経を読みふけるだけの修行生活を辞めて世間へ下り、ヒトの助けをする僧が現れだした。
跳ね返り僧が大陸で学んだ技術や知識で人々を束ね皆の暮らしを助ける土木事業を説法の傍ら積極的におこなうと、魅了された聴衆が集まり朝廷の政策とは関わりない信仰集団の一大勢力に膨らんでゆく。
この時代、朝廷は勝手な布教活動を“民衆を妖惑する”として禁じた。(僧尼令)
宗教を監視下に置いて、脅威となれば必要に弾圧するのは為政者の常套手段であり。これに屈しないのもまた信仰の成せる技である。
AD691年持統天皇の世に、聖徳太子ゆかりの寺で、後世、西遊記で有名な中華の高僧、玄奘(げんじょう)に学んだ道昭の教えを受け井戸掘りや架橋事業を世間一般に施した『行基』は特筆すべきで、私度僧(無許可僧)を含む信仰者の大集団を率いて貧民救済や土木事業など社会活動をおこなう。
AD717年の詔で“偽りの聖(ひじり)”と弾圧した朝廷の干渉をよそにAD730年には平城京の東に1万人を集めて説教“民衆を惑わしている”と記されている。
翌年には“反体制でない”との朝廷判断から弾圧は緩み、やがて公共事業の依頼まで請け負ってAD738年『行基大徳』の諡号(しごう)が朝廷より授けられ、AD740年に聖武帝の依頼で『東大寺大仏造営』に関わり、AD745年仏教界最高位『大僧正』を賜った。民衆のため活動した行基が権力に取り込まれたとの向きもあるが、入滅後も菩薩と呼ばれた功績を鑑みると聖徳太子と同様に、為政者に対して民衆へ導きの姿を示した数少ない“聖人”といえよう。
利他行(ヒトを助ける行)思想と技術は、後世の空海にも伝承されて民衆と仏教を結びつける原動力となるが、一方では行基の熱心な支持者であった聖武帝の娘として仏教観を継承した孝謙上皇(称徳天皇)と道鏡の神託事件に表れる権力との癒着から政(まつりごと)に悪影響となる仏教勢力の姿も垣間見える。
天武系皇統と奈良仏教勢力、双方の断絶を親政による力技で押し切って、律令制の立て直しと中央集権の勢いを取り戻そうとした桓武帝は、特に蝦夷地の制圧に執念を燃やしていたが、何としても遂げねばならない深い理由があった。
それはAD749年発見された東北地方の金山を奪うこと。蝦夷討伐の遠征成功から桓武朝は莫大な富を得て、その金でAD804年に最澄や空海を唐に派遣して、新たな仏教経典を買い漁ったと思われるのだ。
空海を取り巻く、唐での信じがたい数々の逸話は、金(ゴールド)の力なればこそうなづける。彼は僧というより語学堪能な商人で人心を操るのが上手だった。日本が後の世に“黄金の国(ジパング)”と呼ばれたのは、空海がバラ撒いたリベートによるところが大きい。
桓武帝はそうまでして“祟りを打ち破ってくれる”新たな仏教経典を欲していたが、中華で最高峰の密教奥義を伝授された空海帰国(AD806年)を待てずに崩御した。
実は、最澄の方は間に合っていたのだが、祈祷で病が治るわけもなく……
その後、最澄は天台宗の開祖となり、比叡山延暦寺を拠点に“すべてのヒトは菩薩であり、将来仏になれる”と説いた『法華経』の教えを広めたが、嵯峨帝をパトロンにした空海の『真言宗』には大きく水を開けられることになる。
空海は唐で密教最高位の高僧に気に入られて、たった半年の師事で秘奥義を伝授、師匠が亡くなると数多いる弟子を代表する後継者の立場ながら20年間という留学の任期を、たった2年で切り上げてさっさと日本に帰国してしまう。
その理由は“金を使い切った”だそうで、唐としては金の切れ目が縁の切れ目だが、大宰府では無断帰国罪で3年間足止めされAD809年まで朝廷が入京を許さなかった。
ところがAD810年平城上皇と嵯峨帝の争い(薬子の変)では、嵯峨帝側で祈祷をおこなった記しがあり、瞬時にパトロンに引き入れてAD816年に高野山を下賜され伽藍(僧修行場)を建立すると、官職を得て宮中暮らしを始めて真言宗寺院を都で次々建立。AD828年には庶民に門戸を開く、儒教・仏経・道教などあらゆる思想と学芸(治水や建設工法など)を網羅した総合教育機関を開設した。
空海は以降も多くの著作や事業を残しAD835年に高野山で弟子達に遺言を与えて『入定(真言密教の信仰儀式)』したと伝えられる。
空海伝説を広めたのは、鎌倉乱世の高野聖(遊行僧)であり教理(真言密教)から
“誰しも大日如来を身に宿す”という教えの下、己の中にある仏性に近づくため正しくあろうとする信仰(良心)が庶民に根付き、日々精進という農村部の生真面目さとも相まって、人々の日々の生活に沿って伝承されたのだ。
しかし聖徳太子や行基に感ずる偉大な『徳』を空海に抱かず、寧ろ強烈な『俗』を感ずるのはなぜだろう???
いずれにせよ彼らの業により外来宗教が古神道と融合して天下万民の生活に根付きユニークな庶民文化を形成したのは明らかである。
盆と正月は元々、初春と初秋の年二度祖先の霊と交流する精霊行事(土着信仰)であったが、初春の行事が年神として神格を伴う正月の祭りとなり、初秋行事が仏教の盂蘭盆(餓鬼供養)と混じって、お中元やお盆として庶民に根付く。因みに盆踊りは供養によって地獄の受苦を免れた者達の狂喜乱舞の姿で、平安の世から夏の風物詩となったのだ。
庶民は困窮の中にも生活の糧を見出すのだが常に為政者の身勝手な振舞いによって揺らいでしまう頼りない灯(ともしび)である。神様・仏様への祈りを捧げるだけでは捕食者から見れば略奪の餌食でしかない。
朝廷支配(公領支配)に陰りが見えると時を同じくして、公民の“徴兵制廃止”から
“健児制(精鋭部隊徴兵制)”への移行を失敗し朝廷は事実上軍事力を失ってしまう。
地方は中央の行政干渉を避けるために治安維持を朝廷に頼らず、自ら武装する動きが常態化して『ヒトの支配的性向』が再び列島を覆うと、縄張りの主張は領土の攻守において争いの種となる。
民衆の暮らし向きは、遠い都の帝(みかど)よりも、生活の糧を守ってくれる力強い守護者の方が必要で『武士』はこうしたニーズに答える勢力として、必然的に人々が多く暮らして紛争が起きやすい地域に広がって、やがては朝廷や中央貴族もその力を求めて、都に召し抱えて官職を与えるようになる。
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