第6話 聖徳太子の思想

 聖徳太子は隋建国11年後(AD600年)初めて“遣隋使”を送り、大和朝廷の威勢を示そうとしたが、隋の対応は“国辱的な出来事”として日本書紀から遣使の記録自体が除外されるほど屈辱的な扱いであったようだ。

 その刺激から聖徳太子牽引で冠位十二階(AD603年)、十七条憲法(AD604年)制定など、朝廷は目覚ましい国家としての成長を遂げる。

 AD607年、第2回遣隋使で太子は大博打を仕掛けて、有名な『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す』が隋帝煬帝に伝えられて、倭の五王時代に結んでいた冊封(臣下の礼)を反故にして対等を宣言した。

 案の定、隋帝煬帝は大いに立腹し返書だけでなく、わざわざ使者まで遣わした。

隋使者を伴い帰国した小野妹子は、煬帝の返書を途中で奪われたと嘯(うそぶ)いて、洛陽での朝鮮使者との諍いを理由にして返書の存在を黙殺したのだが、特にとがめを受ける事も無く、朝廷側も“暗黙の了解”で、強引に“2人の天子”の言い分を中華側に押し付けた格好だ。

 それでも当時、高句麗遠征に手間取っていた隋は、倭との友好を崩すわけにいかず対応は有耶無耶となった。こうして、聖徳太子は中華対極の博打(ばくち)に勝って

“冊封なき朝貢”をどうにか受認させると、この成果は白村江での敗戦を乗り越えて、以降の中華外交に引き継がれ、唐滅亡(AD907年)まで遣唐使は続き大陸の情報を伝え続けるのだ。

 中華という『セカンドインパクト』をかわしながら利用できたのは大変な幸運ではあったが、有史以来、朝鮮半島に築いてきた民間交流が国情によって断たれた事実は以後から現在まで続く厄介の種となる。

 朝鮮半島は“中華冊封勢力”と“匈奴(モンゴル)南下勢力”と“倭民文明”の綱引きの主戦場であり、ちから関係に翻弄されて土着民も難民も虐げられつつ、目まぐるしく変わる支配者の顔色をうかがいながら、したたかに生き抜いてきた土地柄であって、近代史における侵略のズッと前から半島南端に根付いてきた親日先代史の存在など、現状では到底受け入れられない。

 やむを得ないとは思うが、正史を捻じ曲げた国粋主義から目を覚まして世界を股に掛ける“華僑始祖”を自称すれば、どれほど誇らしいことかと思うが、そうもいかないようだ。とにかく、7世紀は日本列島だけでなく、中華・朝鮮半島にとっても大きな転換期だったのだ。『セカンドインパクト』を受け止めた大和朝廷は、大陸の文明を取り入れながら、やがては絶妙な距離感を保って独自な文明の歩みを始めるのだが、それまでは大陸生まれの“庶民に過酷な為政者支配の構図”がそっくりコピーされて、一方的に実施された。

 飛鳥時代に大陸文化をもとに組み立てられた、租(収穫)庸(労役)調(産物)の税制度は次の奈良時代には、重税に耐えかねた農民の田畑放棄により荒地が増えるとすぐに行き詰る。

 朝廷は農民を繋ぎ止めるために 墾田永年私財法(AD743年)で土地の私有化を認めるが、本末転倒、“公地公民”の大原則が破綻すると、資本を持つ一部の権力者による大規模な土地私有化(荘園)を生むきっかけとなり、やがては国家制度である租・庸・調の律令制は瓦解への道を辿っていくことになる。

 7世紀に作られた集権国家と国民個々による戸籍に基づく税の仕組みは、10世紀に完全に崩壊し、権限を委譲された地方行政官(国司)による半独裁統治が始まる。

 国司とは、もとは戸籍作成や徴税を請け負う役人で、桓武帝の時代に皇族に与える官職が不足すると国司に任命して、地方の公田(名田)支配と徴税権限を与え一定の租税納入を義務付け、律令統治と租庸調の破綻を補おうとした。

 平安中期には地方統治の絶大な権限が国司の手に渡る。田堵(有力農民)に田畑の経営を任せて負名(租税納付)を委任すると税収が安定確保され赴任せず都で暮らす国司も増えた一方で、地方経営に直接かかわる国司(受領)は、私的に富を蓄積して都の有力貴族(摂関家)へ貢納することで官職確保の生き残りを図る。

 国司推薦権は都貴族にとり莫大な富の見返りを約束する絶大な既得権益となった。

こうして、ヒトごとの租税支配を放棄して土地に租税を賦課する名体制が敷かれて、有力農民による“田堵負名”は専門性を高めて、やがては荘園(公家・寺院私有地)の経営も請負うようになる。

 日本列島は大国(14カ国)上国(35カ国)中国(11カ国)下国(10カ国)70カ国公領と中央貴族・大寺院・地方豪族が所有する荘園に分かれて、為政者の利権が絡む支配階層(貴族)と、貧しく虐げられた私的隷属関係(下人)の社会となった。


 公家(貴族)や国司(官僚)の支配階級と納税を請負う田堵負名とされる自由層の下に、下人・家人従者・所従などの非自由層がいたが、彼らは律令下で施行された『五色の賤(AD645年)』の公奴婢・私奴婢に相当する賤民(奴隷)でその身分は子孫へと継承される不条理なものだった。


 大陸(中華)からもたらされたヒト文明は『儒教』の序列秩序の思考を元に天子を中心としたエスノセントリズム(自民族中心主義)を教義として『平等』の概念など皆無であり、自然のままのヒトの尊厳などは認めず、ヒトは秩序原理(礼)をもって飼い慣らして(教育)、はじめてヒトとなるという習俗儀礼と上下差別を根幹とする為政者のための教本となり、“郡県制”と“封建制”の是非は別にして天下万民の支配を一方的に宣言して国家基礎とした。 

 儒教には道徳・倫理に表れるヒトの教えとなる哲学的側面と、士大丈(有力層)へ支配秩序の教書的側面がある。

 春秋乱世(BC551年)中華下剋上の世にある『孔子』の社会秩序回帰の教えが、400年後の漢の時代には、王朝権威の後ろ盾となる思想に変異して国教化されると、科挙(官僚試験)の利禄の学問に堕ちて、宗教的な哲学思想としての輝きを失った。 

 朝鮮半島で儒教思想が本家の中華以上に国家・国民に深く浸透したのは、歴史的に不安定な政局と社会混乱がつきまとうアンチテーゼを強く求めるサガからだろう。

 大和朝廷には、百済より公伝(AD516年)の記しで聖徳太子と中大兄皇子により生まれた集権国家の政治理念の源泉となる“天皇観”は、神道の『神孫為君の大王』に儒教の『有徳為君の天子』と仏教の『十善為君の国王』を重ねて成立した。

 徳をもって民を治める王道理念こそ神仏融合の鍵となりイデオロギーを確立した。

仏教公伝(AD538年)も百済からとされるが、連綿と続く渡来人の私的信仰として列島には随分前に伝わっていたことが容易に想像できる。

 『儒教』が社会の在り方を諭す教えならば『仏教』とはあくまで個人の悟りだが、僧侶や寺院(教団)の存在は信仰を背景にした権力であり、本来なら国家にとっては統制(弾圧)の対象でしかなく国家政策の中に仏教が置かれて受容されていく過程は正に権力闘争の真只中ということである。

 元々、大和朝廷はイナ作の勧農権をもって支配体制(アマテラス神)を確立して、それは紛れもなく太陽崇拝的な呪術社会であった。

 その“治国原理と宗教儀礼”に忠実な豪族が物部氏(保守派)であり、渡来の氏族と結んで先端文明を取り入れる過程で外来宗教に積極的だったのが蘇我氏(革新派)であった。それは神道において両氏の血統の違いから生まれる確執にも起因しており、

同じ皇族ながら蘇我氏は物部氏に血統で劣り、だからこそ金色に輝く仏像に魅せられ迷わず一族の命運を投影できたのだろう。

 東アジアに広まる『大乗仏教』は、釈迦の教え(自らの修行により悟りを得る)を超越して、他者を救済するブッダの世界を説いた。

 日本においては仏陀(如来)だけでなく、菩薩や観音に明王や天など信仰の対象が仏(ほとけ)として偶像化されて、死後には極楽浄土へ往生し成仏するという浄土系の仏教思想に発展してゆく。これは神道の弱点である“穢れ”として忌み嫌う“死生観”を見事に補って、万民に受容れられるきっかけとなった。

 聖徳太子の父である『第31代用明天皇』にしても自ら病気をきっかけに廃仏派の意見を退けて仏教へ帰依するなど、仏教受容の初動機として“死への対処”への期待が人心に大きく作用して、皇族や豪族など有力者に仏教を信奉する土壌が出来上がった事がうかがえる。

 AD587年蘇我氏が武力で物部氏を滅ぼし、反抗を覗かせた『第32代崇峻天皇』も暗殺すると、前に立ちはだかる存在はなくなる。

 そして史上初の女帝『第33代推古天皇』が擁立されると、嫡子竹田皇子の死去を契機に、甥の厩戸皇子(聖徳太子)に皇太子として万機を遂行させた。

 推古帝は有能で頭脳明晰、政治に長け巧みに勢力均衡を保ち、たとえ蘇我氏相手であっても国益に叶わぬ譲歩はしなかった。

 聖徳太子の才能は公正な治世でこそ発揮されセカンドインパクト(中華の脅威)に対抗し得る集権国家建設が進められたのだ。

 若き太子の師は、半島からの渡来人僧であり、中華の新星『隋』の強大さと儒教・仏教を教え導き、太子は数々の政治的偉業を成すが、ブッダ(聖人)の域といわれた仏教の習得で俗世(政治)を離れると、仏教経典に独自解釈を加えた『三経義疏』を執筆して多くの寺院を建てた。ブッダ(真理・本質を悟った人)は列島の民に秩序を与え、仏を授けたのだ。

 太子31歳(AD604年)『十七条憲法』では、既に『和』の尊さと“仏教の普遍”を説いて、“人心の覚醒”を儒教と仏教に求める太子の姿勢が明確に打ち出されており、社会組織(大和朝廷)の中で理想実現を目指す決意の文言に溢れている。

 権力者(官僚)を強く戒め、“公(おおやけ)の秩序の担い手”として朝廷臣下の責任ある職務遂行を求め、氏姓制(豪族地方分権)から律令制(天皇中心中央集権)へ、世の変革の始まりを勢力下豪族に高らかに宣言したのだ。


 翌年には、都での政務を切り上げて斑鳩宮(いかるがみや)に移ると、寺院の造営と公田の治水事業を勧める傍らで、経典の注釈(仏典研究)に精力的に打ち込んで、41歳で後世へ伝える仏教の教科書を完成させる。

 20代で社会的弱者への福祉施設を建て、“慈悲と救済”を実践して以来、平和国家の実現を目指した生涯は、AD622年48歳の志(こころざし)半ばで幕を閉じた。

 朝廷の勢力均衡は崩れて、推古帝崩御で蘇我蝦夷・入鹿親子が専横すると、太子の末裔は一族根絶やしにされた。

 それから2年後、権力の絶頂にあった蘇我氏親子は、中大兄皇子と中臣鎌足によるクーデターで呆気なく滅びる。(AD645年)

 彼ら改革派は、聖徳太子の遣隋使で大陸に渡った書生達が帰国後、開く塾で学んだ

“太子の申し子”といえる遺志を継ぐ存在であり大化の改新(AD645年~650年)から大宝律令(AD701年)に至る日本国の国家形成こそが、弥生時代に始まった2度の『大陸インパクト』より列島が導き出した“文明の歩み”の一歩目といえるだろう。

 そしてこの時、神道・儒教・仏教が融合した日本人の思想は聖徳太子の導きにより生み出され、後には多くの識者や普通のヒトの“知恵の河”を流れて、日本人独自の『記』を歴史に刻んでゆく。

 聖徳太子は斑鳩宮造営に際して、風水で鬼門をわざと開いて、子孫が栄えることを望まず、権力に醜く翻弄されるヒトの様から悟った“慈悲の心”は、争いをひたすらに避けて自害を選んだ子孫へと通じていたように思う。


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