第5話 大和朝廷と朝鮮半島
大陸が記す『倭国大乱(AD189年)』によって列島に生まれた集権国家が、AD712年・AD720年完成した『記紀の記』と符合するか判断のわかれるところだが基本的に記紀肯定派である私は『アマテラス=卑弥呼』説の信望者で、神功皇后説は人となりが違い過ぎると思う。だから邪馬台国は九州にあり出雲スサノオ伝説辺りを倭国大乱にあて、神武東征により畿内の『大和朝廷』に繋げる考えだ。
アマテラス五代目子孫とされている初代神武天皇から実在が考古学上確定している『第21代雄略天皇(AD458年雄略元年)』を考えると、神武即位はBC660年でなくAD270年~AD280年辺りが妥当であり、畿内に分布している倭(やまと)王権遺跡と古墳時代成立(3世紀~7世紀)に符合して歴史的にもスッキリする。
記(しるし)から学ぶべきは、諸説のあり方ではなく大きな時代のあらましにある。評論家の商業的見識など“くそくらえ”である。
中華宋国の記には、AD413年から倭国が入貢して、宋国の冊封(臣下)となって官爵を求めた事が詳しく記される。
それから100年余り『倭の五王』と呼ばれた中華先進文明を摂取して、中華皇帝の威光によって“まつろわぬ豪族”をおさえ、列島支配を安定させたい大和朝廷の思惑が滲んだ中華冊封下(臣下)の時代が続く。
記紀には、中華皇帝から大和朝廷への遣使の記しはあるものの、逆の遣使の記しが無い事から“五王は大和朝廷とは関係ない九州の豪族”とする滑稽な説もあるのだが、中華宋国の記述から讃・珍・済・興・武と記された王達は宋帝に対して、朝鮮半島で得た権益確保のために半島南部の軍事支配権の承認を求めて繰り返し申し出ており、新羅・任那・加羅は獲得したが、高句麗や百済との比較では格下に扱われたようだ。
そのせいなのか雄略天皇(ワカタケル)の代(AD478年)を最後にして遣宋使が打ち切られ、中華冊封(臣下)から大和朝廷自立の模索が始まることになる。
神代における記をおさらいするなら、朝鮮半島の歴史を語らぬわけにはいかない。東アジアの文明は中華漢民族を盟主に太古から栄えた。BC221年『秦の始皇帝』により中華統一され、モンゴル(匈奴)やベトナムに侵攻して勢力域を拡げた。
約20年後、『漢』朝の初期には国力が弱く、中華周辺までは直接支配が及ばず、『冊封』で王の自治権を認めるようになる。
半世紀後、漢『武帝』の時代は再び勢力拡大して、直接的支配を強めて、服属する相手をモンゴル(匈奴)と天秤にかけた『衛氏朝鮮』まで滅ぼした。(BC108年)
朝鮮の歴史は、“中華難民の歴史”の上に13世紀高麗時代に登場する『檀君神話』が乗っかる形で韓国・北朝鮮に記されている。
古代箕子朝鮮(?~BC194年)にしても、衛氏朝鮮(BC195~BC108)の建国史にしても、中華の亡命者による。秦・漢の統一混乱期に増大した難民コロニー指導者が『朝鮮王』を名乗り中華の冊封内で権勢を揮(ふる)ったものだ。
『檀君神話』は記紀に対抗して民族派が掲げたBC2333年から始まるバイブル史で中華殷国難民に始まる建国史が許せず、高麗時代モンゴル民族による支配から逃れて国家建設の意識を育むには、朝鮮民族による先代史が是が非でも必要だった。
日韓併合1910年(明治43年)の“朝鮮ナショナリズムの沸騰”を契機に日本神話を参考に創作的書籍が発表され、体系が確立されたのだ。
古来の朝鮮半島は、華僑商人が行き交う交易路沿いに集落が成長したため、半島の西部に中華亡命者コロニーが造られ、北部は狛(コマ)という中華に簡単に従わない部族の勢力下で、高句麗が建国(BC37年)され、後漢『光武帝』に朝貢して以降は半島西部までの覇権を巡って中華の郡県勢力と武力抗争を繰り返した。
半島南部の『伽耶』は古代から日本列島との人的・文化的交流に深く、伽耶地方の諸小国には多くの倭民族も移り住み、庶民レベルの融合が永きに渡りおこなわれた。
こうした背景から、AD668年に冊封下ながら駐屯する唐勢力を排除して一時的に朝鮮半島で唯一の武力を有する国家となる新羅は、高麗に帰順・滅亡(AD935年)するまで大和朝廷とよきライバル関係にあった。
『領有』とは、領土を自分のモノだと主張する事を意味し、早い者(ズルいモノ)勝ちが原則である。国家がヒトから略奪する過程に領有という概念が生まれるわけで少なくとも朝鮮半島の南端郡は朝鮮国家の支配が始まってもしばらくは、日本列島の丹波国(出雲沿岸)の集落と変らぬ意識で生活を送った事だろう。
三国史(中華正史)は、BC100年辺りから伽耶周辺の倭人族の集団形成の痕跡を記して、同地域からはBC300年以降の古代地層から、それまでと異なる弥生式土器が大量に出土され、3世紀末の“魏書東夷伝倭人状”には朝鮮半島における倭国の北限が狗邪韓国とある。これはおそらく武力で略奪したものでなく、永い時をかけた人々の暮らし向きをおらわす。
一方で『記紀』や高句麗『広開土王碑』の記が伝えている朝鮮半島全土の混乱は、中華の情勢だけでなく、倭国の政治的介入も大きく影響したことを想像させる内容であるが、現在は情勢もあり朝鮮正史とはみなされない。(日本の歴史捏造とされる)
日本書紀が記した“神功皇后三韓征伐”のようすに当時の世界観がよく表れている。神功皇后は『第14代仲哀天皇(ヤマトタケル子)』皇后で熊襲(九州熊本豪族)と戦うよりも新羅に攻め込めば、“戦わずして勝つ”との神託を仲哀帝に伝えるのだが、無視した帝は敗走して翌年崩御(AD367年?)する。帝の意志を継いで熊襲討伐を遂げた皇后は再び神託を得たので対馬を渡って朝鮮半島に出兵して、腹に応神天皇を宿したまま新羅に攻め込んだ。勇ましさに、おののいた新羅は戦わずして降伏すると朝貢を誓って、高句麗・百済も朝貢を約束して三韓征伐叶う。
この後には、新羅・百済と倭との間で使者や朝貢の記録が多く残っているのだが、高句麗19代広開土王の業績を称えた石碑が1880年(明治13年)中華清国農民により発見され(AD414年建立)半島における倭人戦闘記録が見つかると、解釈によって
国家間での歴史認識に不都合が生じ論争となり、解釈は今も定まらない。
通説は“高句麗の属国(新羅・百済)を倭が征服したので広開土王が戦い倒した”
との内容で充分に高句麗王の業績賛美に思うが、朝鮮の歴史学者は“日本軍によって改竄された”と主張している。
『広開土王碑』の倭に関する記述
伝説の域を出なかった『神功皇后戦闘記』が身近に感じる内容であるのも事実だ。
1.AD399年誓を破って倭と和通した“百残”(百済or多くの小国)を討つために出向き新羅の倭への従属を阻止すべく救援をおくる。
2.AD400年倭軍の退却を追って伽耶に迫ったが、安羅軍(伽耶内一国)が逆を衝いて新羅の王都を占領した。
3.AD404年倭が帯方(半島中部西岸)に侵入したのでこれを討ち大敗させた。
AD475年高句麗の攻撃で首都陥落して以降、百済は遷都を繰り返して倭の援軍を受け国勢を何とか保った。(AD538年)
中華では、西晋が滅び300年に及ぶ動乱期が終わり『隋』が中華統一を果たすが、高句麗遠征に失敗して程なく崩壊。後に続き『唐』がAD628年中華統一を果たすと朝鮮半島の情勢は一変する。
これは日本列島とて例外ではなく、唐が新羅を冊封国として支援すると百済攻略を画策した新羅武烈王は倭に使者を送り接近を試みる。(AD648年)
倭は伝統的友好国の百済と、大国で外交政策上(遣唐使派遣)友好関係を崩せない唐とで二者択一を迫られる事となる。
唐では百済出撃準備を整え、倭国遣唐使を百済への情報漏洩を警戒して首都洛陽に留めると、AD660年に唐水軍13万と新羅陸軍5万が攻めて百済を殲滅した。続いて、高句麗討伐へ進軍して朝鮮半島統一へ突き進んだ。
その後に、“百済の復興運動”が残党により起きると倭に亡命していた百済王太子を擁立する動きから、救援が求められ倭は参戦を決意。
“白村江の戦い(AD663年)”有史として確認できる最初の国際戦争が行われた。
倭軍4万7000が攻め込む。白村江に集結した1000隻余りの倭船の半数が炎上して、大敗を喫すると残りは命からがら逃げ帰ったという。
百済・高句麗は滅亡、その後の新羅は唐を上手く出し抜きながら、AD675年には半島から唐を追い出して朝鮮半島統一を果たす。
倭にとっては白村江の敗戦で唐への脅威が急速に膨らむが、AD665年唐使節団の来日に始まる戦後交渉により、10年ぶりに再会を果たす遣唐使(AD669年)でも、遣隋使以来続く独立国家としての(冊封でない)友好関係を保つ事に成功する。
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