第8話 武士(もののふ)の世
宇多帝(源定省)は臣籍から皇位に就いたので朝廷内の権力闘争には敏感だった。それ故に、菅原道真など藤原氏嫡流から離れた人材の能力も重用してバランスをとる才覚を持ったが、陽成上皇の臣下であった皇統の弱さは晩年まで宇多帝を悩ませて、身辺の警護を『滝口の武士(蔵人所)』に移管させた理由も、抵抗勢力から身を守る狙いからである。これを契機に都の警護に就く“武士”の存在は大きくなる。
武士と武官の違いは家業と官業の違いであり、いわば武芸職人“侍(さむらい)”が主(あるじ)に仕えて武装したのが武士であり、朝廷からアウトソーシングされるのは
“武士の誉れ”ではあるが、武官とは違って行動原理はむしろ昭和的ヤクザ一家に近く朝廷認可を受けた軍事専門の下請け武装集団といえる。
大鎧と毛抜形太刀(日本刀原型)を身につけて、長弓を操る“騎馬武者”スタイルは武芸を身につけた貴族であり、本来は山賊・盗賊の類と一線を画す。
清和源氏や桓武平氏のような皇室ゆかりの宗族出身者が武士団を率いるエリートで『武家の棟梁(とうりょう)』と呼ばれて、地方へ派遣された国司(受領)の家系から荘園領主や国衛権力と結びついて“武家の経済基盤”ができると、所領全体を経営する存在に成長して、やがて地方自治権を主張するようになってゆく。
平将門は桓武帝のひ孫を父に持つ5世。16歳で地方から上京して、藤原氏支配下の低い官職(滝口の武士)を12年間務めた。※『第60代醍醐天皇』治世
京での出世は許されず、その後は様々に理由は語られるが、東下して兵を挙げる。坂東平氏一族の領土争いとも、家督争いともいわれるが定かでなく、935年に始まる争いは939年には関東一円に将門の名声が響き、将門の武勇は朝廷(都)の知る所となった。正規の官職(国府)にあるモノは、当然ながら警戒心露わに戦いを挑むが、やむなく戦いに応じた将門が勝利し、不本意ながら朝敵として反旗を翻す形になってしまう。(940年)
将門は八幡神と菅原道真の霊の神託を理由に関東一円を支配する『新皇』と称して『阪東王国』を宣言する。
菅原道真は宇多帝に才能を見出されるが、醍醐帝の治世では謀反の誹りで大宰府に左遷され、子息まで流刑に処されて失意の憤死を遂げる。(903年)
怨霊とされる事件の度、鎮魂儀式が繰り返されたが、清涼殿落雷事件(930年)で醍醐帝まで体調を崩して崩御してしまうと『第61代朱雀天皇』治世では、北野神社に社殿が造営されて神に祀られた。(947年)
将門が940年に道真の霊の話を持ち出したのは、道真子息が坂東国司を勤めてきたことにあったというが、私は自らの無念な行く末を予見しての事と思えてならない。
同じ頃に、西国で藤原純友も挙兵するが、両者とも高貴な家柄ながら時流を外れて地方の低い官職から立身出世を夢見て、都から派遣される役人の既得権益と対立する正義感の持ち主であり、中央権力に搾取され続ける地方の救世主として立ち上がるが
絶大な朝廷権力を前に屈する形となる。
平将門は、朝敵の謀反人として都では歴代最初の斬首、晒し首となるが、東国では英雄で将門紀(成立作者不詳)には、傍に仕えた僧侶の記しと思われる事件の詳細が語られ、救世主の死を悼む世間の様子がうかがえる。
この時期、都を挟み東西でおきた大戦乱は地方の政情不安と治安の悪化だけでなく争いの鎮圧までもが武家により成された事から、武家台頭が鮮明となり藤原摂関家が武家を操って“権力を思いのままに”の情勢が伺える中での『第62代村上天皇』治世(946年~967年)は“天暦の治”と呼ばれた“平安文化が花開いた”良い時代とされて、貴族文化の優雅の裏側では、公正さを欠いた外戚政治にこり固まって、悪政に苦しむ庶民生活が浮き彫りになった。
『第71代後三条天皇』治世(1034年~1073年)までは、藤原摂関家による専横が揺るぎなく、政治面では天皇は蚊帳の外で、文化の担い手以外に出る幕はなかった。安倍晴明の陰陽道も紫式部や清少納言の女流文学も、この時期の皇族・貴族の遊びであり、一部の特権階級が揺るがぬ栄華を誇っていたのだ。
既得権益は変化を望まずひたすら基盤維持に終始するのだが風向きは突然変わる。後三条帝は摂関家をかわして反対勢力の重用に成功すると皇室の経済基盤を復調する政策を次々実行する。中でも荘園整理令は不正を正し万民に喜ばれ「延久の善政」と呼ばれたが摂関家の経済基盤には大打撃を与える結果となり権力の翳りが忍び寄る。
この流れは『第72代白河天皇』に引き継がれ、嫡子『第73代堀川天皇』8歳に譲位し自らで政務を執る『院政』を敷いた。
以後も続き摂政・関白は置かれたが、出家した白河院は『第74代鳥羽天皇』孫5歳即位から積極的に天皇補佐権力を院政に集中させ永久の変(帝暗殺未遂)1113年で政敵の排除に成功し、受領や武士勢力(北面武士)人事を掌握、皇位継承権も思いのままに“上皇・法皇(治天の君)”による専制政治を行った。
『第75代崇徳天皇』ひ孫5歳、即位の年に白河院が崩御すると鳥羽院によって院政が始まるが波乱の匂いが……(1130年)
鳥羽院は寵妃との子を天皇に据えるため崇徳帝に譲位を迫り『第76代近衛天皇』
3歳が即位、崇徳院は“治天の君”とは呼ばれずに、院政を引けない立場に追いやられ和歌の世界に没頭する。
病弱だった近衛帝が17歳で突然崩御(1155年)すると、皇位継承の本命鳥羽院のもとへ養子に出した実子守仁親王の中継ぎ役で、父親『第77代後白河天皇』が即位するが鳥羽院が崩御(1156年)すると、“保元の乱”勃発で朝廷勢力が後白河帝方と崇徳院方に分かれ衝突が起こった。
皇位継承と摂関家の内紛は、もはや止めよう無い状態であり鳥羽院は死期を悟ると
“源為義・平清盛ら北面武士”に誓約書を書かせ己の亡き後の後白河体制を後押ししてもう一人、信西という俗界の僧が鳥羽院の遺を受けて守仁親王(二条帝)擁立までの布石として後白河帝を強力にバックアップした。
稀代の“妖皇”後白河院も、最初は周りの思惑に操られた弱々しいモノだったのだ。
『信西』は智才だが、幼くして父の早死によって、世襲制度下の学界で出世の道を断たれ絶望した。それでも散位(失業中)に鳥羽院の目に留まるが、目指した学者の道は望めずに低官職勤めの無力感から出家した。公家社会の不条理さへのささやかな抵抗で、俗界から離れる気などは無く、寧ろ積極的なアピールから出世のチャンスが舞い込んで1148年には、鳥羽院の政治顧問にまで登り詰める。
近衛帝崩御に際し、後白河帝擁立を画策したのは信西と目され、朝廷への影響力を強め、鳥羽院崩御で葬儀を取り仕切った信西は、崇徳院サイド藤原頼長をそそのかし挙兵へと追い込み、天皇方の源義朝に夜襲を促して後白河帝方に勝利をもたらせる。
戦乱後には、公的に永らく中止されてきた斬首刑を復活して、源為義ら歯向かった武士を処断して、摂関家の弱体化政策と後白河親政を強力に推し進めて絶大な権力を振るう。
強引な政治刷新で公家の強い反発を招く一方、頭脳明晰で高い理想を掲げた政治の手腕は民衆人気が高く、政治に無関心な後白河帝は任せっきり、既得権益を脅かされ怒る公家の抵抗勢力を抑え込むために、信西は武家勢力と結び付きを強めて平清盛を政治パートナーに選び、これが『平家』台頭を決定づける。
その後の信西は、鳥羽院の本来の後継者とされていた『第78代二条天皇』即位に動くと、二条帝側近まで自らの近親で固めて、朝廷の権力すべてを手中に収めようとした。後白河院には信西が手元を離れていく不安もあり、やがて、代役に藤原信頼を見初め寵臣に取り立て急速に出世させる。
家格も手伝い武家と深く関わり源義朝へ影響力を強めた信頼は、平清盛とも婚姻を通じて同盟を結び、後白河院政派内で揺るぎない地位を確保した。
信西へ対抗心から後白河院方の信西反対派として二条帝摂関家に接近して、双方が手を結んで信西打倒を掲げた。
ここに信西派・武家派・後白河院派・二条摂関派、四派のバランスが崩れ、武家の首領の平清盛が一瞬都を空けた隙を衝いて、信頼指揮によるクーデターで後白河院の身柄を確保して院御所に火をかけ、逃げまどう者を容赦なく矢で射た。
信西一門は何とか逃亡したが、信頼は後白河院と二条帝を内裏の帝御所に軟禁してクーデターを成功させる。信頼の謀略は、二条摂関派と源義朝を巻き込み計画され、政権を掌握した信頼は、信西子息を次々捉え島流しにして、遂に土中に隠れた信西を発見したが、信西は自ら喉を突き自害してその首を晒された。(1159年)
信頼の強引な政権奪取には大半の貴族が反感を抱き、二条摂関方も密かに離反する機会を伺う中で、源氏勢は平清盛を討つよう主張したようだが、“親戚関係の清盛は味方に就く”と見込んだ信頼はその意を退ける。
清盛は信頼方の内情を理解した上であえて恭順の意を示し、時が来るのを待つと、二条帝・後白河院と次々軟禁を脱出し清盛の元へ保護を求め、形成は一気に逆転して清盛方は官軍としての体裁を整える。
源義朝は脱出を許した信頼を“日本第一の不覚人”と罵ったというが、時すでに遅く次々離反者が出る中、元々隠密裏の招集で私的兵力しかない軍勢は追討宣旨を承った平家官軍の敵でなく、東国へ脱出を図った源義朝は途中で嫡男源頼朝とはぐれ討たれ首を晒された。
首謀者である藤原信頼は出頭して清盛の前で自己弁護したが処刑され、信西打倒に関わる者は院政派・親政派問わず政界から一掃された。
これにより、漁夫の利を得た平清盛は、政界へ進出して平家一門は朝廷で確固たる地位を固めて、その後の時代の覇者となる。(1160年)
後白河院に至っては、養子に出した息子、二条帝の中継ぎ役で即位しながら巧みに自己保身の暗躍を続けたが、二条帝の即位後は寵女との子息を皇太子に据える陰謀が露呈して、一時は政治の表舞台から排除される。
清盛も二条帝警護に就き帝支持を表明して、院政停止により孤立を余儀なくされた後白河院は、千手観音信仰に没頭して、表では遊びに興じる日々を過ごすが、裏では姑息に失った荘園を取り戻し、経済基盤回復に努めて力を蓄える。
二条帝が警戒感を募らせる中で、病により崩御すると史上最年少の満7カ月余りで嫡男『第79代六条天皇』が即位(1165年)。祖父、後白河院の暗躍が再び始まって清盛と手を結んだ。
そんな中、清盛が病に倒れ“出家”する。清盛病状により政情不安が広がる危惧から慌しく皇位が変わり、六条帝は満3歳で退位する。後白河院の子で清盛の甥にあたる憲仁親王8歳が『第80代高倉天皇』に即位し再び後白河院政が復活する。(1168年)
その後、病をのり越えた清盛入道は表向き政界を引退して福原に隠居すると宋貿易拡大に精力的に動き財を蓄える。後白河院は出家して法王となり、寺院勢力の統合に影響力を強めつつ平家と歩調を併せ、清盛の嫡男である平重盛を重用する。
高倉帝は清盛入道の娘を妃に迎え1178年に後の安徳天皇が誕生すると、父であり
“治天の君”でもある後白河法皇と舅の清盛入道との勢力争いが深まり、後白河法皇が幽閉されて『第81代安徳天皇』満1歳へ譲位で高倉院政が始まると、清盛入道の強い要請から平家権力の象徴である“厳島神社参詣”を御幸するが、畿内寺院勢力の猛烈な反発に合って、平家台頭に既得権益を侵された勢力の私怨が燻ぶり、都の緊張感はMAXとなる。
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