第9話 源氏再興

 反平氏勢力は1180年、後白河院第3皇子以仁王を神輿に挙兵する。源頼政の指南で平氏追討令旨が全国源氏に発せられ平氏打倒の挙兵・武装蜂起が呼び掛けたのだが、計画は準備の整わぬうちに平氏方に漏れ、以仁王は囚われ皇籍を剝奪、源以光として逃亡の末に討ち死して乱はすぐに鎮圧された。

 しかし、政敵の温床である有力寺院に囲まれた京都の危うさを痛感した清盛入道は一門の反対を押し切り“福原遷都”を強行するが、反対勢力の抵抗により難航して遷都断念を余儀なくされると、都を京に戻してすぐに高倉院の病による情勢の不安から、やむを得ず、後白河院政の再開を承認した。(1181年)

 高倉院崩御で息をふきかえす後白河法皇を牽制しつつ、諸国への治安の引き締めを慣行したい平家だが、清盛の病状が悪化すると失脚後に死去した長兄平重盛を継いで平家棟梁となっていた弟平宗盛の東国派兵も見送られた。

 平清盛は死の直前に後白河法皇へ“後継者宗盛と協調”を奏上したが返答は得られず恨み節を残しながら死去する。

 その夜、院宮中に宴(うたげ)の笑い声が響いたとの記しもあり、後白河法王にとり平清盛の死は絶えず存在した政治重圧からの解放でしかなく、その後は平家の圧力に対抗する策謀を巡らして有力貴族(摂関家)と結びついた。

 平宗盛は平家棟梁として後白河法皇へ恭順を示しつつ、抵抗勢力である源氏追討を中断する公卿議定を無視して東国派兵を強行すると、美濃・尾張で源氏勢力を破った勢いに乗って各地の反乱鎮圧へ乗り出すが、兵糧の確保も危うい状態で士気は低くく違背者が続出していた。

 1181年、以仁王反乱の狼煙は全国へ飛び火して在地豪族間の争いの種となる。


 源頼朝は1160年に父源義朝が賊軍として平清盛に討たれ、自身も流刑の地である伊豆国で平家天下の世を20年間も俯(うつむ)きながら過ごした。1180年、以仁王の平家追討令旨が諸国源氏に発せられたが、頼朝は動かず静観していた。しかし平家が源氏追討を始めたと知って危機を悟った頼朝は、やむを得ず挙兵を決意する。

 従者もわずかな頼朝の号令に応じた北条氏や三浦氏など、一部坂東武者の力添えによって安房(房総半島南部)へ脱出すると軍勢を増やしながら父・兄が本拠地とした鎌倉へ進軍して居城を構える。(1180年)

 以仁王挙兵を継承した信濃源氏の木曽義仲(源義仲)と、甲斐や遠江など4カ国に勢力を置く甲斐源氏武田信義に、河内源氏源頼朝の三者が並立して『武家の棟梁』と呼ばれたが、頼朝はこの時期、平清盛の死に際し後白河法皇に忠誠を誓って平家との和睦を願う書状を送り、平家棟梁の平宗盛に拒否されはしたが、和平の立場をとって戦闘留保を続けていた。(1181年)

 大凶作と飢饉の中での戦闘に勝者はいない。“戦う時でない”と判断していた頼朝のビジョンは明確で、この一手が勝機を掴んだといっても過言ではない。

 平家が京都の食糧供給地である北陸へ派兵を決めると最前線は甲斐源氏が担う形となり、飢饉から戦線は膠着する。

 その間に坂東での足場を固める源頼朝は1183年朝廷に代わって御家人へ恩給付と所領安堵を行って豪族勢力の支持を集めてゆく。

 平家は故平重盛嫡男で“富士川の戦い敗軍の将”平維盛を総大将に、10万の大軍勢を木曾義仲へ向けるが、官軍でありながら乱暴に兵糧調達をする進軍に兵の指揮は低く

“俱利伽羅峠の戦い”で無残に大敗北する。平維盛は再び京に逃げ帰るが、木曾義仲が京へ進軍すると源氏に味方する大衆の声で平家の都防衛は絶望的となる。1183年6月


 後白河法皇は平家の“都落ち計画”を事前に察知。宮中を速やかに脱出して延暦寺に逃亡すると、慌てた平宗盛は安徳帝一向と一族を率いて福原から海路西へ落ち延びて大宰府を目指す。

 後白河法皇はすぐ都に戻り“幼帝を攫い神鏡剣璽(三種の神器)を持ち去った”とし平家へ追討宣旨を下す。

 ここに、栄華を誇った平家は賊軍に転落し、味方を広く集め戦う事が困難になる。


 後白河法皇にとって安徳帝連れ去りは幸いでしかなく、天皇不在の中で平家一門の解官と召し上げた領地の分配を思い通りに進め、高倉院皇子の新帝擁立へ動き出すとここで、都を制圧していた源氏木曾義仲が異議を唱え、以仁王の子息擁立を主張して

“治天の君”の権限を侵犯してしまう。結局異議は抑えられて『第82代後鳥羽天皇』が即位するのだが、朝廷側には義仲に対して強い不信感が芽生える。

 義仲への期待は、都の治安回復であったのだが無法者集団義仲軍による略奪が都に横行すると、後白河法皇はたまらず平家追討の宣旨で、都から義仲の軍勢をなんとか追い出す手を打つ。

 追われる立場の平宗盛は、落ち延びた九州で後白河法王に宛て書状を送って事態の打開を図るのだが、あっさり黙殺され敵方に九州を追われると、阿波の支援を受けて四国へ逃げ延びて、迫る追討軍をなんとか食い止めて進軍を阻止すると、木曾義仲は突然追討兵を引いた。(1183年10月)

 平家にとっては、後白河法皇の朝廷勢力に京庶民までが、木曾義仲軍勢の粗暴さを嫌って、源頼朝の上洛を望んだ事は勢力回復の良い機会となり義仲の追討軍が引いた間に、瀬戸内海での制海権を掌握できたのだ。

 法皇は何とかして義仲・頼朝双方を操りたいが頼朝は政治巧者で領地権を餌にした誘いに応じず、あくまで木曾義仲排除を要求した。

 そんな中で、法王の企みに激怒した義仲軍が急いで帰京すると都は騒然となった。義仲は自分の置かれた立場が理解出来ず駆け引きなど考えない。朝廷を敬う気持ちに嘘はないし、平家を倒した自負もあり、源氏の嫡男を気取って坂東に篭った源頼朝の政治巧者が気に入らず、朝敵としての討伐を望んだ。

 法皇は義仲を持て余しつつ、武力には頼らざるを得ずにいたが、頼朝が差し向けた弟義経の軍勢が琵琶湖を越えた情報を得ると、義仲に対しては即刻平氏追討の西下を指示して、従わなければ謀反とする院宣を突きつけた。

 法王には頼朝勢を都に向かい入れさえすれば、義仲勢を京から放逐出来る見込みであったが、義仲にすれば“朝廷が敵方に寝返るとは、あまりの仕打ち”であり、頼朝と雌雄を決す覚悟など疾うにできていた。(1183年11月)

 8カ月前、義仲は頼朝に嫡男義高を人質に差し出して争いを避けていた。その後に義仲は官軍として武功をたて都を守護する立場を自認していたのだが、後白河法皇は京文化を理解する頼朝こそが守護者に相応しいと考え義仲を切り捨てたのだ。

 義仲は追い詰められて法皇を襲撃する。逃げ出した法皇を捕縛すると、翌月までに摂関家を担ぎ出し、京で傀儡政権樹立と軍事の全権を掌握して、頼朝討伐の形式的な官軍体裁を整える。(1183年12月)

 “祇園精舎の鐘の声……”の書き出しで広く知られる『平家物語』には、戦いに破れ敗走する義仲の様子が詳しく記され、美しい主従の絆が描かれる。

 義仲は無骨の人であり頑固な田舎人と評されるが、純粋過ぎたゆえ悲劇の主人公の側面を強く感じる。

 平家の世(貴族社会)は彼の正義漢なしには壊せなかった。しかし、クーデターにより人望を失ってから、つき従う兵もなく悲しい結末を迎える。

 すでに鎌倉政権を朝廷に認めさせた頼朝は、法皇の要請に答えて上洛を計画するが都の深刻な食糧事情を聞きつけ大規模な軍勢侵攻を見合わせ、弟義経と文官御家人の中原親能(後十三人合議制一人)を代官に都へ送るが後白河法王幽閉の報が伝わるともう一人の弟源範頼を大将軍に大軍を投入する。(1184年1月)

 平家物語には、合流した兄弟鎌倉軍が義経の派手な活躍と、範頼による頼朝の意に沿った采配によって、後白河法皇の解放と義仲討伐を果たす様が記される。

 解放されるとすぐ摂政を解任して政権を掌握した後白河法皇は、勢力を盛り返して福原まで迫った平家への対応を協議する。(1184年2月)

 貴族の多くが戦乱に疲れて和平を望む中、法皇率いる院政派強行により平家追討の宣旨が鎌倉軍に下ると、義経は“一ノ谷の戦い”で天才的な奇襲を成功させ、鎌倉軍を大勝に導いて遂に京の都を勢力下においた。


 源頼朝は木曽義仲を討つと、長女大姫(7歳)婿で鎌倉に在った義仲嫡男の義高(12歳)の処遇に悩んでいたが、義高は大姫の手引きで逃亡を図ったために結局は頼朝の命により討たれる。大姫は憔悴して母北条政子(頼朝正室)は憤り討ち取った御家人を責めて晒し首にまでしたというが、同時期に甲斐源氏棟梁である武田信義の嫡男一条忠頼も頼朝の命で暗殺されており以降は、頼朝と同格の「武家の棟梁」など存在せず、平家と戦う源氏全てが「鎌倉殿の御家人衆」という扱いに転じた、まるで洗礼式で抗うモノを一掃したマイケル・コルリオーネのようなのだ。

 頼朝は、平家を畿内から追い払うと範頼に鎌倉帰還を命じて、義経には京に留まり治安の維持と都の武士勢力の組織化を命じる一方で、瀬戸内を根城にする平家追討を九州・四国の武士に呼びかける書状を送って、山陽諸国には土肥実平に梶原景時など信任の厚い御家人を派遣した。天下は目の前だが、慎重に鎌倉から睨みを効かせて、遂に弟源範頼を大将に3万の軍勢が鎌倉を出立し九州を目指した。(1184年8月)


 頼朝は義仲と同じ失敗を避けるため、弟範頼に京での駐留を禁じた。また、出兵の一段階は平家討伐ではなく、鎌倉勢と対立し平家を援助している西国勢力を鎮圧して平家を瀬戸内に孤立させる事と説明した。

 範頼は思惑通りに備前の戦で勝利し、平家を瀬戸内に追いやるのだが兵糧欠乏から山口で進軍が停滞して鎌倉殿に窮状を知らせた。

 頼朝は救援を約束しつつ無理な進軍を留めて、“地元武士の恨みをかわぬ様に”、

”安徳帝や神器の安全確保”、“東国武士へ労い”など、細心の注意を返書している。


 遠征軍の状況を知った義経は、後白河法皇の許可を得て軍を編成して西国へ出陣。瀬戸内の平家拠点を奇襲して敗走させる。(1185年2月)

 範頼方も豊後国(大分)豪族の味方を得て兵糧・兵船調達、九州上陸に成功すると次々抵抗勢力を打ち破り、博多大宰府に進軍して平家最後の拠点である、長門国彦島(山口)の背後を遮断した。

 義経水軍は彦島へ攻め入り『壇ノ浦の戦い』で源平相戦う。(1185年3月)


 平家物語が記す平家最後の時は安徳天皇(満6歳)と祖母(平清盛正室)の入水を見届けて、一門の“運命”を悟り平家武士たちが戦いをやめて後を追うように入水していく様であり、運命共同体の滅びの美学が見てとれる。

 平家物語(灌頂巻)は作品の終巻で、壇ノ浦で入水後に救い出されて生き永らえた安徳帝の母徳子(建礼門院)の一門菩提を弔う寂しい晩年を記す。

 義経はこの建礼門院と守貞親王(安徳帝皇太子)を伴い堂々、京に凱旋したのだ。






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