第10話 鎌倉殿と御家人衆

兄源頼朝の命で源範頼は壇ノ浦合戦後、九州に残り失われた神剣(三種の神器一つ)捜索と戦後処理にあたり頼朝の意に沿うよう細かに気を配り、相談と報告を欠かさなかった。この従順さが、もう一人の弟源義経の奔放を際立たせ、鎌倉殿の御家人衆の不満につながったのは明らかだ。(1185年4月)

 頼朝は義経バッシングの中心人物、梶原景時の情報分析能力を高く評価信頼して、景時もまた頼朝を理解し忠義を尽くして侍大将として弟範頼を支えて導く。その後、彼の義経に対する苦情は的を射て、義経慢心から後白河法皇に武士へ主従関係介入を許してしまう。

 主に西国の武士を率いて独断先行で多くの武功を挙げた義経のスタンドプレイは、恩賞を求め集まる東国御家人衆から活躍の場を奪うもので、更には鎌倉殿が任命権を持たない朝廷官位が頼朝の頭越しに御家人に与えられた事は、朝廷による許しがたい越権行為であり、頼朝はそれを招いた義経の不忠を決して許さず鎌倉へ入る事を禁じこれで兄弟対立は決定的となったのだ。

  鎌倉に入れず都に戻った義経を景時の嫡男影季が頼朝の命で探りの為に尋ねて、源行家(義仲方)追討を要請したが、義経は己の病と行家が同じ源氏一門である事を理由に断って取り合おうとしなかった。(1185年9月)

 頼朝はこの知らせを受けて“義経不忠の心”を確信して、討伐の兵を京に向けるが、義経はこれを退け、行家と共に頼朝打倒の旗を挙げてしまう。

 鎌倉殿としては、退路へ導きたかったが真意は伝わらず、義経は腹黒い朝廷勢力に担がれるように頼朝に牙をむいた。

 壇ノ浦から凱旋後の義経に与えられた官職は“院御厩司”で平家が院政軍事の支柱として独占してきた要職であり、平家重鎮の平時忠(壇ノ浦捕虜)の娘を娶り、まるで平家の地位を継承するかの如き、特段の扱いを受けてすっかり舞い上がってしまう。

 後白河法皇曰く、「義経を抑えようとした」や「やむなく追討の院宣を与えた」というが、義経・行家を、それぞれ九州・四国の地頭に任じ、鎌倉殿の対抗馬に仕立て勢力均衡を図ろうと暗躍したのは明らかだった。

 法皇の言い訳に“日本国第一の大天狗は更に他の者にあらず候ふか”と零した頼朝の口惜しさはどれ程か! ここに至り、遂に頼朝自ら出陣を決めて鎌倉を発つ。


 義経と行家は兵が集まらず、九州を目指して落ち延びて途中で散り散りになって、義経は行方を眩ませる。それを受けて頼朝自身は鎌倉へ戻り北条時政(頼朝義父)を京代官に送り込む。

 時政が頼朝の強い憤慨を法皇に冷ややかに告げ交渉に入り、鎌倉殿の本気の怒りに狼狽した朝廷は言い成りで守護・地頭の勅許、朝政改革など鎌倉殿が繰り出す要求を受け入れるしかなく、法皇勢力は完全に削られた。(1186年3月)

 この時に獲得した“守護・地頭の任命権”が永く続く武家政権の基軸となるのだ。


 京では義経出没の風聞が飛び交って、不穏分子を匿う貴族や寺院の暗躍を鎌倉殿が憤る中、5月に畿内和泉に潜伏した源行家を発見して討つと、義経腹心も次々と討ち取られた。鎌倉殿の圧力によって京にも見捨てられた義経は、かつて流浪(るろう)の元服の頃に庇護を受けた奥六群(東北地方)盟主藤原秀衡を頼る。(1187年2月)

 追補の網をかいくぐり正妻と子を伴い、山伏と稚児姿に身をやつした義経の一向は平泉の地に身を寄せる。

 藤原秀衡とは、関東以西を制覇した頼朝にとっては唯一、油断ならない人物であり奥州藤原氏の莫大な経済力と武士団17万騎を統率する頭目として平家の世にあっても平家や朝廷に屈しも操られもせず独自勢力を保った。

 “義経受け入れ”に至った理由も、朝廷院宣を利用し必要に揺さぶりをかける頼朝に

“もはや鎌倉殿との衝突は避けられぬ”と見越した上の戦略であったが、義経を迎えて9か月後に絶対的当主の藤原秀衡が死去してしまう。

 後継は慣わしによって正室腹の次男泰衡だが、側室腹である長男国衡も武勇に優れ奥州一族の期待を集め大きな存在感を示すと、家督争いにより一族分断を図るだろう頼朝の策を警戒した父秀衡は仲立ちに苦慮しつつ、義経を主君に三者を結束させて

“頼朝の攻撃に備えよ”と遺言を残して没した。

 この処置により後継はひとまず次男泰衡に落ち着いたのだ。(1188年10月)

 予想通り頼朝の計略により、泰衡へ朝廷から“義経捕縛”の院宣が下る。頼朝自身が動かぬ事で共闘を避けて、不和の楔を打ち込む狙いは明白だったが効果覿面、泰衡は朝廷の再三の圧力に屈して、父秀衡の遺言を破って義経一向が隠れる衣川館を襲ってしまう。従者として武蔵坊弁慶らはことごとく戦死・自害して、館を敵兵に囲まれた義経は妻と子を道連れに自害すると斬首され首は鎌倉殿に送られた。(1189年4月)

 直後の7月、頼朝は奥州討伐へ自ら兵を挙げ、朝廷との見解が分かれる中で宣旨もなしに大軍を派兵する。理由は“家人である源義経を許可も得ずに討伐した”であり、鎌倉殿の強硬な姿勢に動揺する奥州勢は内紛で戦力を削がれ、泰衡は戦端が開く度に北へ敗走を続けると北海道の手前で郎従に討たれた。

 頼朝の狙いは鼻から奥州勢の殲滅にあり、北陸軍が次々合流した鎌倉殿の大軍勢は二十八万四千騎に達したという。

 源頼朝自らが挙兵したこの戦により、従う御家人との主従は明確となり武家政権の準備が整う。

 戦いが全て終った9月、都より”泰衡追討の宣旨”が遅れて届くころ、後白河法皇の上洛要請に答え、ようやく翌年の上洛を奏上した源頼朝は、かつて平氏本拠地である六波羅に新造された邸宅に入った。(1190年11月)

 頼朝と法皇の初対面は、二人で他者を交えず夕暮れまで行われた。頼朝は法王への忠誠を誓い、在京40日の間に8回も対面して双方のわだかまりの払拭に努め、頼朝は右近衛大将の官位を賜り、後白河法皇へは砂金や御馬などたいそう献上した。

 1191年3月、源頼朝に諸国守護権が公式に認められ、ここに武家が朝廷を守護する鎌倉幕府体制が確立する。


 12月幕府の支援により御所が再建されると悲願を叶えた安堵からか後白河法皇は体調を崩して1192年3月66歳で崩御した。

 死の床を見舞った後鳥羽帝への遺詔として主要な御所を天皇領に移管させて後への憂いを残さず波乱に富んだ生涯を思えば拍子抜けするほど穏便で静かな最後である。

 「文にあらず武にもあらぬ」と崇徳上皇がののしり、信西からは「和漢の間、比類少(すくな)き暗君」と酷評されながらも、次々と台頭する武家と渡り合いを続けて、朝廷権威と京文化の繁栄を守ることに生涯を捧げた平安貴族最後の王の死である。


 法皇が最後まで拒み続けた『征夷大将軍』任命を、法皇崩御後すぐに後鳥羽帝より授かり、武家の棟梁の称号とした源頼朝は天下を治める存在となるが、鎌倉と朝廷の二重政府状態は頭痛の種であり続ける。


 頼朝はもう一人の弟源範頼にも疑いを向けて結局、伊豆国へ流す。(1193年8月)

修善寺に幽閉された範頼は歴史の表舞台から消えて謀殺説・落ち延び説など様々だが子は処分を免れていることから、疑惑の範疇で失脚に追い込まれたものと思われる。


 後白河法皇崩御を契機にして、京との結び付きを強める狙いで長女の大姫を政略に再び担ぎ出し、今度は後鳥羽帝の妃にすべく図ったが大姫は20歳で病死してしまう。 

 諸国と御家人の統制に朝廷権威を利用する最良の策を失うと、後鳥羽帝は鎌倉殿の制止を振切り『第83代土御門天皇』3歳に譲位して院政を始めた。(1198年1月)

 源頼朝は諦めずに次女三幡(14歳)の入内を図って、朝廷より「女御の宣旨」を賜(たまわ)る最中、落馬が原因とされる突然の死を迎える。享年51歳(1199年1月)


 源頼朝は“武家政権の祖”とされる一方“稀代の冷徹政治家”と評されることも多く、戦術レベルの戦いでは、御家人から名代と軍監を選んで戦わせて、戦略レベルでの

“負けない戦い”を常として他人に心を許さず、人心操作にも気を配り誰より用心深く相手を観察しながら事を進める手腕はずばぬけていた。

 それ故に自分が去った後の世には無頓着に思えるほど私欲なく、後世に委ねているように思える。その志は“貴族や寺院勢力には治世を任せてはいけない”という平安の世に渦巻いた純粋な正義感であったように思う。頼朝は朝廷・寺院・御家人の双方が満足でいられる世こそ“万民の幸せ”と考え、理想に導くマエストロであろうとした。大いなる理想の前では肉親の死を悼む情に流される事など、あってはならないのかもしれない。

 こうして“臣籍降下と田堵負名”によって生まれた“武士”が朝廷と庶民の間に入り、政(まつりごと)を行う世が訪れる。











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