第29話 天下人家康が継承したもの
織田信長に始まり、豊臣秀吉が引継ぎ、徳川家康が守りぬいたものは今でも国体に生きている。仮に、彼らが「本質を見落としていれば」日本は確実に失われていた。
「フォースインパクト(東征)」はそれまで経験のない巧妙さで日本を侵食して、悪意に満ちた征服事業は喉元ギリギリまで迫っていたのだ。
秀吉を継いだ家康は、当初キリスト教に寛容だった。
浦賀湊を国際貿易港として開港して、リーフデ号の件で召し抱えたイングランド人のウイリアム・アダムスを外交顧問に据えた。
1601年にはフィリピン総督府へ公貿易船の証として日本・フィリピン間の朱印状交付を伝え、伝統を覆し漂着船の積荷補償をするなどスペイン外交の強化を始める。これまでの堺(畿内貿易港)が浦賀(関東貿易港)に移ったということだ。
1603年家康は、1587年秀吉が発した「バテレン追放令」から壊れたイエズス会やフランシスコ会との関係改善に動いて一度は和解している。すべては通商貿易による利益のためであり、これまで同様にキリスト教は南蛮貿易とセットであると捉えた。
ところが1609年日本の朱印船(有馬家所有)がマカオでポルトガル船デウス号とトラブルになり、マカオ総司令官ペソアの鎮圧により乗務員48名が死亡する事件が起きて外交問題に発展する。
日本側は翌年長崎入港したデウス号に乗船していたペソアから事件に関する調書の提出を受けるが、長崎奉行は事態悪化を危惧し調書の存在を伏せて、ペソアが望んだ家康への謁見も阻止すると、キリシタン大名である有馬晴信をたきつけ報復を家康に請願させた。家康はスペインとの貿易に手ごたえを得ていたため、ポルトガル船への報復を許しデウス号は出航前に有馬方の攻撃を受け炎上沈没する。(1610年1月)
この騒動によりポルトガル商船は2年間来航せず、それまで家康の信任が厚かったロドリゲス神父がマカオに追放されたことで、イエズス会は幕府とのパイプを失って後退を余儀なくされ、スペイン貿易とフランシスコ会が優位に立ったのだが……
1611年、家康はスペイン領ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)使者と会見して、スペイン国王フェリペ3世の親書を受け取り、両国友好については合意したものの、通商を望んだ日本側に対してエスパーニャ側の前提条件はキリスト教の布教にあり、家康は経済と宗教の分離政策の外交意識を更に硬くする。
1612年、キリシタン大名有馬晴信は先の騒動の恩賞により、かつて失った領地を取り戻せるとの偽り話を信じ、多額の賄賂を同じキリシタンで家康側近の与力である岡本大八に支払いあっせんを依頼するのだが、その後幕府に贈収賄が露呈して両者は厳しく罰せられる。幕藩体制の根幹を成す所領の贈収賄をキリシタン二名が画策したことは家康にとって大きな脅威となったことだろう。
そしてまず1612年に「禁教令」が発せられる。これは幕府直轄地での教会閉鎖と布教禁止を命じたものであったが諸大名も「国々ご法度」と受け止め倣ったようだ。
家臣の中にもキリスト教徒の捜査が始まり有馬晴信が死亡するとキリシタン大名は姿を消した。1614年「伴天連追放之文」が出来上がり、以後幕府の基本法となる。
これはキリスト教を三教一致(神道・儒教・仏教)の敵とし、神学的正当性の観点でキリスト教を異教として追放するものだった。
1614年11月には修道会士など主だったキリスト教徒がマカオ・マニラに追放され日本人信徒の中には高山右近もいたという。
ただし、公的にキリスト教は禁止となったが、依然として活動は続いて、潜伏して追放を逃れた者や潜入する宣教師も後を絶たず「京のデウス町」もそのまま残る。
この時点で日本全国にはキリスト教信徒が少なく見積もっても20万~50万居たとみられ、人口は1200万程度とされたので2~4%がキリスト教徒だったことになる。
南蛮貿易の莫大な利益を餌に為政者に取り込む裏からカトリック教理を植え付ける侵略手法は、65年間で怖い程に成果を上げていたのだ。
家康はラッキーだった。というかこれも歴史の歯車、秀吉が気も違う程に恐怖した南蛮貿易のジレンマから解放されるチャンスを確実にものにしたのだ。
ローマカトリックの醜悪は本家ヨーロッパ諸国でも深刻化し改革が叫ばれていた。
1515年教皇レオ10世により「贖宥状」が発売されて、説教師が売り歩く世が来ると神学教授のマルティン・ルターは1517年ローマ教会に抗議し反響を呼ぶ。こうして生まれた宗教改革の流れが「プロテスタント(抗議者)」としてスペイン領であったネーデルラント(オランダ)に広がってゆく。
ネーデルラントはスペイン・ハプスブルク家からの独立(八十年戦争1568年~1648年)の真っ只中、プロテスタントの新興海洋国として売り出し中であった。
1600年のオランダ商船リーフデ号との出会いがなければ、家康の対外政策は全て変わっていただろう。幕府指導の下1609年オランダ・1613年イギリスが長崎平戸に商館を開くとプロテスタント国の貿易に重きを置く姿勢に、キリスト教布教に拘ったカトリック国スペイン・ポルトガルの南蛮貿易は冷遇された。
日蘭貿易(対オランダ貿易)を独占することで諸大名に決定的な経済格差をつける事に成功した幕府だが、家康は伊達政宗ただ一人に日本の外交権の借用許可を与え、政宗は仙台藩とスペインの太平洋貿易(メキシコ貿易)を企画した。(1613年)
スペイン使節の協力により仙台領内でガレオン船(軍艦)を建造し、遣欧使節団の一行180人をメキシコ、スペイン、ローマ、へ外交として日本で初めて派遣したが、キリスト教の日本国内弾圧を理由に国産ガレオン船はスペインに没収され直貿の夢は断たれてしまう。
家康は1605年三男秀忠に将軍職を譲り、徳川家世襲を世に知らしめると1607年に駿府城に移って朝廷寺社勢力・西国大名・外交を担当した家康は「駿府の大御所」と呼ばれて、江戸の将軍秀忠と力を合わせて盤石の統治をおこない始めるが、大阪城の豊臣秀頼だけが浮いた存在となった。
1608年、大阪方(淀殿)の働きかけにより秀頼の左大臣任官の話が持ち上がるが家康はこれを阻止し、関白職にも右大臣九条忠栄を新たに推挙した。
当初は豊臣氏との共存をイメージしたが結局は叶わぬこと、豊臣恩顧の大名が次々亡くなると、豊臣氏は更に孤独を深め、幕府への疑心暗鬼から大阪城に多くの浪人を雇入れ身を守ろうとする。その態度が直、幕府方を警戒させ、豊臣氏が抱える秀吉の財宝(浪人を抱える資金)を吐き出させる算段が始まる。
1614年、方広寺大仏殿の再建は、家康の勧めで豊臣氏が手掛け、8月に開眼供養の運びとなった。ところが、梵鐘の銘文に不適切があるとして供養は差し止められた。
家康は大阪方の弁明に耳も貸さず9月末、豊臣氏へ宣戦布告する。(大坂冬の陣)
家康は二条城を発し20万で大阪城を包囲すと、力攻めはせずに散発的に砦を攻めて局地戦の勝利に留めている。(真田丸の戦い)で負けはしたが戦局を揺るがすほどの痛手はない。2時間おきに一斉の勝ち鬨と大筒(大砲)が交互に大阪城に響き渡り、落城の恐怖に怯えた淀殿は和睦を申し入れ、家康は受け入れた。(1614年11月)
元々、和睦など眼中に無い家康は条件に無い内堀まで埋め立て大阪城を裸城にして豊臣方を狼狽させる。豊臣方主戦派が内堀を掘り返しに出ると「戦準備である」とし城内の浪人退去と豊臣氏の退出を要求、大軍を近畿方面に送り込む。(1615年)
豊臣氏が要求を拒否すると再度、軍事侵攻が開始された。
豊臣方は城から打って出て真田信繁が「日本一の兵(つわもの)」と称賛される戦を見せるが、はなから勝敗は見えている。
最後、豊臣秀頼と淀殿は天守閣が炎に包まれ山里丸に移動すると徳川軍包囲の中、自害して果てて大阪城は炎の落城をする。(1615年5月)
1615年7月「禁中並公家諸法度」で朝廷と幕府の関係を規定し諸大名統制に関わる「武家諸法度」で一国一城令が制定され、徳川264年の世の礎が築かれる。
1616年1月、病に倒れる。
1616年3月、太政大臣を授かり、武家としては平清盛・足利義満・豊臣秀吉に次いで史上4人目である。
1616年4月、徳川家康は駿府城において75歳の生涯を終える。
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