第28話 関ケ原

 秀吉亡き後の豊臣政権は、朝鮮出兵を戦った「西国武将」と後方支援を組織した「京都奉行」石田三成の間で諍いが続いていた。1599年大御所前田利家が没すると翌日の「光成襲撃事件」に発展して、徳川家康ら大老の仲裁により一命をとりとめた光成は五奉行の座を退き、徳川家康の政権内の立場はより強まる事となった。

 前田利家の嫡子で信長・秀吉にも仕えた充分なキャリアから亡き父を継ぎ五大老の一人となった前田利長は家康の圧力に屈服し、豊臣政権五奉行の浅野長政も隠居へと追い込まれると、以降は豊臣政権の主導権を徳川家康が完全に握る。


 豊臣秀吉死去(1598年8月)により家督を継いだ豊臣秀頼(5歳)は淀殿の後継を受け大阪城にあるが、豊臣奉公衆と家康派の反目は避けられないものとなっていた。

 家康は北政所(秀吉正室)を退去させ大阪城西の丸に入り(1599年9月)城中から

単独意志で大名へ加増など仕置をはじめ、豊臣三奉行も大老毛利輝元もこの時点では恭順せざるを得ない。

 家康は1600年3月、豊後に漂着したオランダ商船(リーフデ号)を大阪に移して、異国との外交対応も徳川家が取り仕切っている。


 4月、召還命令を拒否し挑発的返答(直江状)を返した越後上杉景勝・直江兼続に家康は激怒して、6月会津征伐へ出陣すると、朝廷(後陽成帝)も豊臣氏(秀頼)も徳川家を官軍、上杉景勝を「朝敵」として、戦いの大義名分を与えた。

 大老毛利輝元は豊臣政権において同じく大老である上杉景勝との結び付きは強く、家康だけが権力増大するのを危惧したが、その場は景勝の討伐に賛同せざるを得ず、家康の出陣直後に一旦、安芸(広島)へ帰国している。

 毛利輝元が安国寺恵瓊を都に送り、大谷吉継や石田三成との会談で、家康へ反抗のタイミングを決めたとされる逸話もあるのだが定かでない。

 しかし、家康の会津出兵と入れ替わり三奉行(前田玄武・増田長盛・長束正家)の要請に答え大老毛利輝元が大阪へ入城し(7月)三奉行連署による「家康弾劾状」が諸大名に送られ「関ケ原の戦い」の火ぶたが切られたのは確かだ。

 毛利秀元(独立大名)・安国寺恵瓊・吉川広家の軍勢が毛利家先陣を担っており、7月17日西軍決起と同時に大阪城から徳川勢を追い払い豊臣秀頼の身柄を手中にして毛利輝元を大阪城に向い入れたのも毛利秀元であった。


 定説では、血気盛んな石田三成が大谷吉継「三成に勝機なし」の説得を押しのけて仲間に引き入れ決起して、三奉行・諸大名を「西軍」に引き込んだとされているが、一次資料に乏しく。また、三成決起の情報を得た淀殿と三奉行が当初は事態鎮静化を望み家康の即時帰還を願う書状を送ったことから、豊臣奉公衆としては徳川家中心の政権運営をおおむね受容れていたことが伺える。 

 どういう訳かその後、三奉行が同調し毛利輝元(西軍大将)大阪入城となるのだが淀殿は西軍が切望した秀頼「お墨付き」の発給や秀頼出陣などは許さず豊臣家として観望する姿勢を保ち、家康は「秀頼様の御為」という大義名分を保ち続けた。

 どうやら五大老の中で徳川家康がまず前田家を叩き、次に上杉家を攻めたことで、毛利輝元・宇喜多秀家は家康への対抗策を巡らし、豊臣家と奉公衆を巻き込み戦わせ家康との勢力差を少しでも詰めようとしたようだ。


 7月決起した西軍は、8月家康の伏見城を陥落させると伊勢に侵攻、家康は三成の挙兵を知ると「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として上方に反転、福島正則ら三成・三奉行の文官派に反感をもつ武断派の大名が家康に味方して東軍が結成されていった。

 8月下旬に東軍福島正則が家康出馬を待たず、岐阜城織田秀信を攻め降伏させると家康は自身と嫡男秀忠の到着まで軍事行動を控えるよう指示した。

9月1日、徳川家康が江戸を出立する。

9月2日、大谷吉継ら西軍第一陣が関ケ原に布陣する。

9月5日、中山道を上る徳川秀忠軍に対し真田昌幸が抗戦を表明して上田城に篭ると秀忠を挑発して、まんまと38000の大軍の足止めに成功する。

(上洛を促す家康の使者の遅れもあり「関ケ原の戦い」本戦に遅延することとなる)

9月7日、毛利秀元・吉川広家が関ケ原南宮山に着陣する。

9月9日、家康本隊30000は岡崎、10日熱田、13日岐阜、14日赤坂に着陣する。

9月14日、小早川秀秋が関ケ原に着陣する。

9月15日午前10時、家康本隊が関ケ原に移動し合戦が始まり、2時間で東軍の勝利が決まったとされる。

 西軍大将毛利輝元は、事前に小早川秀秋の東軍内通の噂を知りながら戦の最後まで対処せず、また西軍の負けを予測していた吉川広家は東軍と内通し9月14日に毛利家所領安堵の起請文を徳川方から取付けている。

 結局、毛利大軍勢は布陣した南宮山から関ケ原惨敗を傍観して一戦も交えず撤退し大将輝元の居る大阪城にも入らず市中に駐屯した。

9月25日輝元が大阪城西の丸を明け渡すと、27日入れ替わって勝者家康が入城する。

9月28日敗軍の将石田三成が、小西行長・安国寺恵瓊らと共に大阪・堺を罪人として引き回された後、京に護送され、10月1日に六条河原で斬首された。(享年41歳)


 豊臣秀頼・淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬこと」とし、咎めなしだが太閤蔵入地(豊臣家の直轄地)は東軍の諸将への恩賞として分配された。その結果、豊臣氏は畿内3カ国(65万石)大名となるが豊臣姓はなお特別な存在であり、家康は天下人の地位を確立しながら豊臣秀頼という厄介人を抱える事になる。


 美濃関ケ原の戦いは東軍・西軍支持に分かれて全国各地に波及した。上杉征伐から反転の際、家康は結城秀康を主力に、最上義光・掘秀治・伊達政宗の東北大名に対し景勝監視の命を下していた。

 家康から「百万石のお墨付き」を得ていた伊達政宗は窮地にあった最上軍勢を助け直江兼続の軍勢を撤退に追い込み「奥羽での戦局は硬直した」

 北陸の前田利長は「上杉攻め」加勢のため出陣したが大谷吉継の虚報に惑わされて結局、関ケ原の本戦には間に合わなかった。

 伊予・阿波・讃岐(四国)では、毛利勢が関ケ原に乗じて領土拡大を図るが本戦が1日もかからず敗戦したことで占領を解いた。

 九州は最後まで戦闘が続いたが、島津義弘が家康に謝罪の使者を送った事で和睦の交渉となり、2年間かけて本領安堵の承諾を家康より得ることに成功する。それは、上杉氏や毛利氏の大幅減封との比較でも対照的な結果であり、太閤秀吉の九州遠征後勢力を維持し続けた薩摩隼人のブレないしぶとさが発揮された側面と、家康の本来のターゲットが四大老の勢力削減にあったことがうかがわれる。

 なお、薩摩に匿われた宇喜多秀家は引き渡され八丈島に流罪となる。(1606年)


関ケ原の戦いの東西両軍の大義は「秀頼公のために」である。だから、勝った家康は秀頼より忠義者として労われた。

 家康は1601年、豊臣秀次が解任されて以来空席だった関白に九条兼孝を据えて、豊臣氏による世襲が続いていた流れを断ち切り、旧来の五摂家に関白職を戻した。

 1603年2月、徳川家康が征夷大将軍を受けて「武家の棟梁」の称号を得て以降は、豊臣秀頼は家康の嫡男秀忠の娘千姫と結婚し(7月)朝廷の一員として位階・官職の昇進を重ねる。1605年4月右大臣に昇進した機会に、家康は上洛と会見を希望するが淀殿が阻み、家康が折れる形で子を大阪城に使者として送った。

 五大老・五奉行の去った大阪城で秀頼を守るのは母である淀殿だけであり、家康の暗に臣従を求める誘いを断固拒否したのだ。


 「関ケ原の戦い」以後、豊臣家は五摂家と同等の公家として生き残りを目指した。








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