第27話 フォースインパクト(東征戦)

 信長の死から約1年後、石山本願寺跡地に大阪城の建設が始まり秀吉の天下獲りが始動する。(1583年)

 目の上の瘤は相模北条との同盟により関東で揺るがぬ権勢を揮う徳川家康である。徳川と北条の和睦を仲介した織田信雄(信長次男)が1584年、秀吉に反目の姿勢を明らかにすると家康は加担を約束し、更に家康を通じ長宗我部元親や紀伊雑賀衆らが反秀吉として決起した。

 これに対し秀吉は調略を巡らし美濃池田恒興らを味方に就け戦いを有利に進める。徳川家康と織田信雄連合軍の反撃は軍勢こそ少ないものの勇ましく、圧倒的優位にもかかわらず、相次ぐ戦況悪化に自ら戦線に出向いた秀吉は、織田信雄の本拠地美濃を次々攻略して、信雄を和睦に引きずり出すと、徳川家康もやむを得ず次男松平秀康を人質に(養子)して和議を結ぶ。

 織田家を全てにおいて凌駕した秀吉は1586年に入ると、正親町帝より関白宣下と太政大臣就任・豊臣姓を授かった。

 秀吉は家康を潰すことを辞めて、その力を取り込む策に徹する。妹朝日姫を正室に嫁がせ母大政所を人質に出してまで家康上洛にこだわり、実現させると密かに宿舎を訪ねて臣従要求をゴリ押ししてどうにか家康を屈服させた。

 秀吉は徳川の家臣も含め叙任に動いて、1587年家康は従二位権大納言を朝廷より授かり、更に左近衛大将に任じられる。秀吉の人たらし真骨頂で家康は軍事的屈服をしないまま最強の臣下となり、相模北条氏は窮地に追い込まれた。


 秀吉の九州平定は1586年大友宗麟が救済を求め、大阪城で謁見を許したことから始まる。秀吉は停戦命令を無視した島津氏討伐を決め、1587年関白命で40カ国から25万に及ぶ軍勢を九州に送り込むと、日向に布陣した島津軍の裏をかき撤退させ、大友氏を滅亡から救うものの、大友宗麟は勝利直前に病没して子孫も家臣の求心力を失い没落する。

 一方で、秀吉に降伏した島津氏は、薩摩・大隅・日向の所領を安堵され、その後も歴史の原動力となる。

 これにはイエズス会の動きが深く関わっている。関白秀吉は信長の政策を継承してイエズス会の布教活動を容認した。「本能寺の変」翌年1583年に大阪を訪れていた宣教師は大阪城に女性信者を送り込み秀吉の機嫌をとると1586年には「布教責任者ガスパール・コエリョ」が謁見を許され、正式に布教許可証を得ている。

 この時にコエリョは、薩摩島津氏の武力攻勢に脅かされる豊後国キリシタン大名の大友氏の救済を求め、秀吉は「唐攻め(明征服)」で必要な軍艦の購入をコエリョに依頼したとされているが、どちらが持ち掛けた話しなのかは微妙なところだ。


 九州では、南蛮貿易がもたらす富と力を求めて諸大名の抗争が激化して大変な事になっていた。1562年肥前大村純忠は横瀬浦を貿易港としてポルトガル人に解放して莫大な富を得る。

 翌年にはキリシタン改宗に抵抗する勢力により、港の焼き討ちが起きるなど家臣や領民の反発を招き、1570年に「長崎を寄進する」と領内はキリシタンで溢れた。

 6万人越えのキリシタンに半ば占領された領内は、寺院打壊しなどの異教徒迫害に改宗強要や奴隷貿易など南米のインディオが体験した迫害さながらの暴挙が行われ、1580年に「茂木が追加寄進され」1584年甥有馬晴信により「浦上が寄進される」と「イエズス会の九州侵略の影(フォースインパクト)」はただならぬ殺気を帯びた。

1587年に島津氏の従属叶えて、九州全土を平定した秀吉は帰国途中の箱崎(博多)滞在中に「イエズス会に要塞化された長崎で、日本人奴隷が輸出されている」事実を知らされ、大変な衝撃を受ける。

 秀吉は翌日スペイン通商責任者ドミンゴス・モンテイロとイエズス会布教責任者のガスパール・コエリョを呼び出して詰問するが、コエリョは大型大砲を多数搭載した軍艦を秀吉に視察させ、軍事力を誇示すると挑発的な言動で威嚇して、イエズス会の支配的地位を誇張して伝えた。つまり「関白豊臣秀吉を恫喝したのだ」秀吉は態度を硬化させ「バテレン追放令」発令に踏み切らざるを得なくなった。

 御前会議により作成された覚11か条が、翌日に更に厳しい定5か条へ置き変わり、コエリョの威嚇により一夜にして秀吉の胸にキリシタンとイエズス会へ強い警戒感が芽生えた事がわかる。

 秀吉はその日、キリシタン大名の中心人物であった高山右近だけに棄教を求めた。右近さえ挫けば、他の連中も従うと考えたのだが、あっさりと所領も財産も全て棄てキリシタン信仰を選んだ右近の姿を前に秀吉は心底恐怖したに違いない。

 それでも南蛮貿易に頼るしかない国情を受け入れ、豊臣秀吉は天下人として護国の将来的な道筋を占ったのだろう。だからこそ、厳しい建前を突き付けてイエズス会を牽制し、柔和な態度で接し事を荒立てるのを避けて新たな関係の糸口を探したのだ。

 コエリョは「禁止令」に過剰反応しキリシタン大名へ武器供与を提案、武力蜂起を促したのだが、高山右近や小西行長らは全く相手にせず無視し、ヴァリニャーノは「こうした挑発行為が豊臣秀吉を警戒させた」とコエリョを弾劾する。

 用意された武器・弾薬は総て売り払われ大砲はマカオに送られて全イエズス会員は平戸(長崎)に集結し、公然での宣教活動を控えて秀吉へある程度の恭順を示した。


 1586年豊臣政権後ろ盾、正親町帝が孫に譲位『第107代後陽成天皇』が誕生すると

島津氏和睦の功賞により京へ帰還が許された15代室町将軍足利義昭が、秀吉と共に参内して将軍職(征夷大将軍)を朝廷に返上した。(1588年)

 これによって、毛利輝元など将軍義昭を最後まで敬った者たちは完全に豊臣秀吉に臣従する。秀吉は朝臣としての豊臣家本邸「聚楽第」を構え後陽成帝を招いた席で、有力大名に自身へ忠誠を誓わせた。イエズス会は「暴君はいとも強大化し、比類ない絶対君主となる」と報じ、多くの歴史家もこれをもって、事実上の豊臣政権の樹立としている。(1588年天正16年)


 1590年20万の大軍勢が小田原城を囲んで、3カ月の籠城戦で開城させ相模北条氏は滅ぶ。秀吉の東国出陣によって最上義光・伊達政宗、奥羽大名も参陣し急速に奥羽の仕置きが進むと日本全国で戦国の世は終わった。

 1591年は弟豊臣秀長、後継者候補の鶴松が相次ぎ病死して、甥秀次を養子として家督を継がせて関白職を譲り、秀吉は『太閤』となり政治の実権を握り「唐入り」を号令した。

 1592年宇喜多秀家を大将に、16万の軍勢が朝鮮に出兵する。長年、倭寇(海賊)絡みで両国の間に小競り合いはあったが、本格的な衝突は『元寇』以来300年以上が経過している。秀吉とコエリョの謁見の際「唐攻め」が公表された翌年1587年から朝鮮との折衝は対馬を通じて始まっていた。陸戦により中華『明』へ攻め入るには、朝鮮半島経由が常套手段であり、伸びる補給線を維持する為にも半島情勢を握るのは絶対に必要であった。

 半島は明の冊封下内乱で470年続いた高麗が倒れ、李氏朝鮮が起り200年経過して明に従順な朝鮮王李成桂は、秀吉の服属要求など応じるはずもないが、突然の暴挙に真意を図りかねて半島の防衛準備が遅れた。

 戦闘体制の整わない朝鮮軍は各地で敗北を重ねて豊臣軍は一気に半島を制圧する。開戦半月余りの首都陥落で、手立てのない政府に民心は離れて、豊臣軍への反感から抵抗運動が起こってゲリラが急増する。

 1593年明援軍が到着すると、半島の戦況は膠着して、双方軍糧が尽きる消耗戦に突入した。明軍は兵糧を用意できない朝鮮政府を責めるが国土は荒れ果て民衆は飢えている。戦意をなくした明軍は、飢えて尚も徹底抗戦を主張する朝鮮軍とゲリラ隊を適当にあしらって、独断で豊臣軍と講和交渉に入る。

 明使節“沈惟敬と加藤清正・小西行長”三者で行われた会談で講和合意するのだが、太閤秀吉には明降伏という報告が入り、明皇帝には日本降伏という知らせが届いた。 

 これには双方の講和担当者が穏便に講和を行うために、偽りを多分に含んだ報告をしたことが伺える。

 1596年、冊封を認める書状を持参した本物の明使節との謁見により、突き付けたはずの要望が、一つも叶わない真相を掴んだ太閤秀吉は激怒して明使節を追い返し、再度「唐入り」を掲げて、朝鮮派兵を決めたとされている。

 日本側で明との講和を推進した小西行長は太閤秀吉の側近石田三成と組み抗戦派の加藤清正を封じ、明使節の沈惟敬と共謀して欺瞞(ぎまん)外交を働く。

 「勘合貿易再開のみが太閤秀吉の要望である」と伝えたそうだが偽りの降伏文書を確認した中華『明』では、朝議の結果「封は許すが貢は許さない」と決まり、唯一の国交貿易の要望さえも拒否されてしまった。

 これは「冊封を認め明皇帝臣下の日本国王を名乗るのは許すが、貢ぎはしない」という意味で、秀吉は振り上げた拳を下ろす機会を失い、明に戻った使節団の沈惟敬は明朝により反逆罪に問われ処刑された。

 小西行長も秀吉の逆鱗に触れ、首を刎ねられて終わると思いきや、罪などは免れて石田三成もお咎めなし、どうやら太閤秀吉は欺瞞を裏で承知して、勘合貿易の正式な承認で手を打とう考えていた節もあるのだ。

 つまり、イエズス会に握られた貿易カードを何としても手に入れて、南蛮貿易への依存の脱却を最優先と考えたということである。

 問題児コエリョは1590年に肥前で死去した。しかし、太閤秀吉に植え付けられた侵略の恐怖は消えず、「唐入り」だけが南蛮から自立を叶えアイデンティティを守る要と考えたのだ。

日本には「銀(当時世界三分の一)」という宝の山があり、中華や西欧への輸出品として秀吉が直接貿易権を得れば、もたらされる利益は計り知れず、兵器弾薬を南蛮に依存する必要もなくなり、国内統治でも海外派兵でも優位に立てるはずである。

 「唐入り」同年1592年、秀吉はスペイン領フィリピンに降伏と朝貢を要求して、長崎の貿易商でキリシタンでもある“原田喜左衛門”をマニラのフィリピン総督府まで使者として派遣した。

 左衛門の「フィリピンは防備薄く征服容易とする進言や台湾占領の必要性」などの進言には、朝鮮出兵に忙しく答えられずにいたが、1593年フィリピン総督の返書が朝鮮侵略の遠征拠点である名護屋城に陣取る太閤秀吉の下に届くと、喜左衛門は再び使節としてマニラに渡った。

 フィリピン総督はフランシスコ会宣教師を使節として必要に送り込んで、畿内での布教活動を活発化させると信徒は増え大名の洗礼も相次ぐ。イエズス会の後発として来訪するフランシスコ会・ドミニコ会の宣教師・修道士はフィリピン総督府が送ったスパイであるのは明白だった。

 秀吉の恫喝を不快に思いつつ、積極的な軍事行動に出られないフィリピン総督府の事情を秀吉はまだ知らない。

 フィリピンという名は文字通りスペイン王フィリペ2世の名を冠してつけられた。1580年からポルトガルを併合すると、征服路線を改め領土維持政策へ転換したが、母国スペインは1581年ネーデルラント北部の統治拒否を受け支援者イングランドを叩く無敵艦隊を派遣するが、1588年「アルマダ海戦敗北」により衰退が始まる。 

 1596年新大陸からの貴金属の着荷は最大となるが、軍事費増大による国庫破綻は防げず、同年からのペスト蔓延と共にスペインの世紀が終わろうとしていた。


 コエリョによって心のバランスを崩された太閤秀吉の行動原理は確かに変わった。持ち味の非殲滅主義は影を潜め、恐怖が滲む事件が重なる。

 茶人千利休の切腹・晒し首に始まり「唐入り」が始まると、最初は「乱妨取り」を禁じた秀吉だが、朝鮮人奴隷を認め、1593年拾(秀頼)誕生で自己保身が膨らむと更に暴力性を増す。1594年、義賊であり盗人頭石川五右衛門は秀吉の暗殺に動いて捕まるが、関白秀次の家臣の依頼とも、民心を背負ったともいわれ、京都三条河原で子供と一緒に窯茹でにされた。

 1595年には、関白豊臣秀次についに謀反の嫌疑がかかり、秀次は逆心無き誓いをたてるが結局は切腹・晒し首、小姓や家臣らは殉死して、秀次の遺児(4男1女)は側室・侍女ら共々、三条河原で処刑される。

 そんな中で、1596年にスペインのガレオン船、“サン・フェリペ号の漂着事件”を経て、挑発的宣教活動を強めていたフランシスコ会修道士とキリシタンの公開処刑が決まって1597年「二十六聖人の殉教」が行われた。


 1597年、二次朝鮮出兵は2カ月で主要道制圧して城砦を築き作戦目標を完了した。予定通り兵の半数を本国へ帰還させ、1599年からの明進軍計画への準備に入った。

 1598年5月病に伏せって死期を悟る太閤秀吉は7月に諸大名を集め、家康に対して秀頼後見人を依頼すると翌月に生涯を終える。(1598年8月)


 朝廷は“豊国大明神”の神号を与えて、秀吉は神に祀られて葬儀は行われなかった。豊臣政権を継承した“五大老・五奉行”は朝鮮からの撤収を決め、密かに準備が進むが秀吉の死は秘匿されて派遣軍にも知らされない。

 明では、秀吉軍の攻勢に備えた増援によって陸戦と海戦の同時の反撃が開始され、9月からは朝鮮ゲリラと連合軍による反撃が始まる。残留する秀吉軍は強固な城砦でこれを迎え撃ち次々連合軍を破る。10月に入り連合軍は各地で陸軍・海軍の包囲を解いて退却した。

 明・朝鮮軍に戦う余力はもはや無く、民衆は恐れ慄き皆、逃避準備を始めていた。

1598年10月遠征軍に帰国命令が発令され11月加藤清正隊・毛利吉成隊・小西行長と島津義弘隊・全ての遠征軍が釜山を発った。

 こうして「唐入り」は朝鮮半島征服寸前で打ち切られて、豊臣政権を支えるはずの武将達の遺恨だけが残された。

 

 因みにスペイン王フェリペ2世も秀吉死去の5日前に病死し、カトリック教会による征服手法は前時代の遺物とされて、プロテスタントの「保護貿易」という征服形態に変わろうとしていた。

 1600年オランダ船リーフデ号が豊後に漂着してイギリス人ウイリアム・アダムスを徳川家康が家臣として召し抱える。

 当初、敵対心むき出しの在地カトリック勢力は家康にオランダ船を海賊と風潮して乗組員の処刑を望んで「カトリック征服事業」が暴かれるのを防ごうとしたのだが、アダムスは臆する事なく家康に西洋事情を伝え、気に入られて三浦按針として日本で生活を続け、その後も数々の功績を残す事になる。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る