第26話 フォースインパクト(東征史)
1581年スペイン王フェリペ2世は財政的に困窮していたポルトガルの王位を継承し
『同君連合(ポルトガル併合)』を結んで、スペインは『太陽の沈まぬ国』となる。
1549年の日本開教以降、着実に信徒を増やすイエズス会は、1570年までに約3万人の信徒と西日本各地に40余りの教会を獲得し、1579年信徒は10万人に達した。
イエズス会員(バテレン)も55人に上り、ポルトガルの後ろ盾のもと順風満帆であった。1571年に地球を2分割するトルデシャリス条約のもと西回りでインド領有を目指すスペインがようやくフィリピン領有に至り、東インドに展開するポルトガルの植民地に楔を打ち込む。マニラにスペイン総督府が置かれ、覇権を争うが1581年のポルトガル併合により状況は一変して、ポルトガル海軍はスペイン海軍に統合されて絶対君主フェリペ2世の駒となり、イエズス会もまたスペインとの関係を深め新たな活路を開こうと動き出す。
1579年にイエズス会東インド管区名代としてヴァリニャーノが来日すると1581年織田信長主催で土御門帝も臨席した“馬揃え”に主賓待遇で招かれる。その後5カ月間安土滞在したヴァリニャーノと信長にどのようなコンタクトがあったのか、日本側の史料はほとんど伝えていないが、狩野永徳作とされる安土城を描いた屏風が贈られ、信長が黒人従者を“弥助”と名付けて召し抱えた記しが残る。
信長にとり南蛮人は貿易に欠かせぬパートナーであった事は先に記したが、それを支えたのは、イエズス会3代目布教長フランシスコ・カブラルだった。彼は布教への後押しの代わりに軍事物資の潤沢な提供を持ち掛け、信長との綿密な関係を築いたが1581年ヴァリニャーノによって解任された。
理由こそカブラルのアジア人蔑視とされているが、スペイン本国からの関与によるイエズス会方針転換が影響した事は、後任がガスパール・コエリョであった事からも明らかである。
新たなイエズス会の後ろ盾、スペインの狙い(欲望)は、マルコ・ポーロの時代と変わらずに「中華の略奪」である。産業革命を迎えるまでのヨーロッパにとり中華は先端文明の宝庫で、大航海時代に入りインディア香辛料を手中に収めて中華の支配を目指した先堀者だが、中華においてイエズス会の活動は難航した。
そもそも中華へのキリスト教伝来は635年唐代にシリア人宣教師がシルクロードを経由して伝えた。781年首都長安にキリスト教コミュニティー(ネストリウス派)の業績を称える『大秦景教流行中国碑』が建つが、907年唐朝の崩壊に伴い景教布教は衰退して987年最後の記録は教徒一人と記される。次の繁栄期は元(モンゴル帝国)時代「ワールシュタットの戦い」で圧殺されたヨーロッパ諸国は国土防衛の観点から多くのカトリック修道士が情報収集のために東へ向かう。ところが、モンゴル皇帝の周辺は仏教だけではなく、イスラム教にゾロアスター教など、様々な宗教の聖職者が競うように祈りを捧げ、同じような環境に混在している。
勿論、ネストリウス派キリスト教徒もその“お抱え祈祷団”の一員であったのだが、元皇帝はどんな宗教も神に通じる能力があるとして、こだわりなく接する宗教観で、一神教にこだわりバチカン公国まで存在するヨーロッパの常識と噛み合う訳も無く、「ローマ教皇からの祝福の使徒」もモンゴル皇帝には、全くの意味不明なことから「従属したいなら自ら来い」と突き返されたそうだ。
それでも布教に寛容な中で宣教師は派遣され、モンテコルヴィノは1294年大都に就いて20年間布教活動を続け、教会や学校を建てミサや聖書・ラテン語を教えて、10年間で6000人の改宗洗礼を授けたと教皇クレメンス5世へ報告した記しが残る。
布教活動は1368年、元朝皇帝トゴン・テルムが大都を放棄して、モンゴル高原に撤退するまで続くが、その後に冬の時代が到来する。
明朝の中華統一により、キリスト教活動は一時期停滞を余儀なくされ、1372年の「海禁令」で民間貿易は全面禁止となった。
1517年にポルトガル使節が来航して、北京で朝貢貿易を求めたが、ポルトガルに国を占領されたマラッカ(マレーシア)人使節の訴えによって、ポルトガルの使節は投獄され朝貢は拒否された。
明は国が定めた朝貢貿易しか認めず、民間の交易を一切禁止したため、しばらくは密貿易が細々と行われていた。
1557年倭寇(海賊)討伐の代償として、明朝はポルトガルにマカオ永久居留権を認めてマカオ交易ルートがどうにか出来たが、中華征服を果たしたのとまるで違う。
イエズス会の活動も同様であり、1549年、鹿児島に上陸して日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルは中華布教を志し1552年広州沖上川島に到着するが明朝の鎖国策から入国を拒否され、沿岸の島に留まり失意の中で病没してしまう。
以降も、多くの宣教師が入国さえも許されない苦況が延々と続く中で、1581年「ポルトガル併合」を迎えてスペイン王フェリペ2世が、布教と貿易という柔和策を捨て、武力による明朝侵攻を思案し始めるのは極めて当然の成行きだった。
1582年イエズス会ヴァリニャーノによるマカオからフィリピン総督宛の記しでは「東洋における征服事業は霊的な面だけでなく、それにも劣らず陛下の王国の世俗的進展にとって益するものである。それら征服事業の中で最大のものの一つは、閣下のすぐ近くにある。(このシナを征服することである)これは主や国王陛下への奉仕に非常に重要な行為であるのだが、その事業に関して手にするべき真の計画なり、情報なりを提供出来る者はほぼいない。そこで私が当地で得た経験をもとに若干の重要な事柄について、閣下と相談することが可能ならばとても嬉しい」
1583年フィリピンマニラ司教ダラサールは「中華統治者が福音と宣布を妨害するので、陛下は武装してかの王国へ攻め入る正当な権利を有する」と王フェリペ2世に説いており、イエズス会とスペインによる危険な欲望に東アジアが呑み込まれようとしていたのだ。
日本でのキリスト教信徒は、優に10万人を超えイエズス会構想の準備は大詰めを迎えており、1581年1月から5か月間のヴァリニャーノの安土での任務をこの状況に当て込むならば、一つに、織田信長以下キリシタン大名の戦力分析であろう。つまりスペインによる中華侵攻の軍事力を、遠い本国ではなく征服地(同盟地)で賄おうと考えるのは合理的で定石でもある。二つに、交渉の内容分析であろう。信長の思考を観察分析して思い通り信長を操るための餌を検討したのである。
3代目布教長を務めたフランシスコ・カブラルは、日本で調達の難しい硝石や鉛に真鍮などの軍事物資の潤沢な供給を約束して、織田信長を手懐け日本での布教活動の後押しを約束させてきたつもりでいたが、インディオと違い従属させたわけでない。
それどころか、既に信長軍以下、大名の戦闘力は南蛮貿易のもたらした文明兵器で侮れないものとなり、カブラルの嘲る意識を利用して、信長はハイレベルな軍事力の強化はまんまと成功していた。
ヴァリニャーノは信長を欺きイエズス会の企みである東アジア征服に引き込もうと誘ったようだが、信長はヴァリニャーノへの警告のように馬揃え(軍事力アピール)を繰り返し、高野山の聖職者を躊躇なく殺すのを見せつけた。
もはや政治音痴に等しい正親町帝以下朝廷の象徴的な権威だけ残し、困難な国是の重圧から対外的には解放して、一人で国難・国責を背負ったのだ。
またルイス・フロイス書簡「1582年の誕生日信長は己を神と宣言した」は外国の史料に限った記述から、信長のイエズス会決別宣言とも考えられ、ヴァリニャーノの外交交渉に織田信長はNOを突き付けたようなのだ。
利己主義的扱いの多い御仁だが、聖徳太子(遣隋使)や北条時宗(元寇)のように国家への外圧(フォースインパクト)に統治者として毅然と臨んだのだと私は思う。
ヴァリニャーノには「コンキスタドール(征服事業)」への貢献こそ存在意義であり妥協の余地などなく、必然的に『信長排除』の決断が短期間で成されたのだろう。
ルイス・フロイスの(日本史)には、信長の死の記述が詳しく記されているが、1581年『本能寺の変』前年、信長に招かれたヴァリニャーノに通訳として同行して、その後には、共に九州へ渡っており事件に遭遇してはいない。
記述の信憑性について多く意見があるが、本能寺に近い教会で事件に遭遇していたフランシスコ・カリオンの報告書と安土でのグネッキ・ソルディ・オルガンティノの体験を元に記されたと考えられ、都教区長を勤めたオルガンティノは、事件後すぐに京へ向かい、途中に明智光秀の居た坂本へも立ち寄って、事件の詳細把握に努めて、同行したダルメイダにより詳しく報告されたようだ。
どうやらフロイスによる加筆はほぼ無く、創作とされた記述は事実と考えられる。カリオンが記したとされる「弥助(黒人従者)奮闘のようす」などは非常に興味深く本能寺で信長を守り戦った後、妙覚寺から二条御所での血みどろの白兵戦ものり越え明智勢にボロボロで投降した後、明智光秀直々の命で本能寺近くの教会に戻されて、その後は行方知らずとなったとある。
弥助(黒人従者)は元々ヴァリニャーノに護衛として仕え武術訓練も受けていたとみられ、単に黒人奴隷と考えるのは誤りだ。
1581年2月の信長と謁見の際に奴隷として引き連れ、信長が気に入り召し抱えたとされるが、性格分析の賜物でまんまとスパイ送り込みに成功したのだろう。
個人的な見解だが、弥助が実行犯などとは思っていない。むしろ最終兵器であり、影にイエズス会がある事は絶対に知られてはならないのだ
とにかく、信長が死んだ1582年6月2日の弥助の行動は本能寺から脱出した際に、森蘭丸に託された信長首級(みしるし)を近くの教会で前田玄以に預けて、その足で嫡男織田信忠の篭る二条城に向かったともされる。
信長首級(みしるし)は前田玄以によって岐阜“崇福寺”に持ち込まれ弥助が伝えた遺言によってデスマスクが作成された伝承が残る。
崇福寺は1567年以来、岐阜の織田家菩提寺であり本能寺の変後に信長側室お鍋によって、信長・信忠の遺品が持ち込まれ霊廟に埋められたという。
あくまで荒唐無稽ではあるがデスマスクは実際に現存して、素材の粘土や付着した土の成分分析くらいは科学的検証も進んでおり、それはこの遺物を肯定する結果だというが個人的にフィクションの範疇で捉えている。
前田玄以は信忠の命に従い三法師を岐阜城から清州城に移し、織田家家督を守って貢献すると、その後には天下人秀吉に仕えて家康の時代までをその目で見た。
因みに、もと仏僧でキリシタン弾圧を指揮したが、秀吉「バテレン禁止令」の頃、1593年には秘密裏にキリシタンを保護に転じて、息子二人もキリシタンだった。
それでは、明智光秀はどういった存在なのか?ルイス・フロイスの記した光秀は
「嫌な奴でアンチクリスト」である。信長との関係について悪意を感じる程に光秀のあざとさと憎しみと恐怖を記した。本能寺の変以降の記述であり、意図的に繋がりを遠ざけるよう記された冷徹な主君殺しの仮面である。
「本能寺の変」翌日の6月3日、安土教会のオルガンティノは、神学生を引き連れて琵琶湖沖島へ脱出し明智光秀の使者から接触を受けた。
使者はオルガンティノ宛ての伝言と高山右近宛ての書状を携えて、キリシタン勢の協力を訴えオルガンティノは高山右近への2通の手紙を託した。
1通は日本語で光秀に協力を促して、もう1通には、右近だけが読めるローマ字で
「例えキリシタンが十字架に掛けられようとも光秀に協力してはならない」と記す。
右近にとってオルガンティノは師であり、荒木村重の与力として仕えた1578年に村重が信長に反旗を掲げた際、助言を求め「信長に降るのが正義であるがよく祈って決断せよ」の言葉に従った経緯もあった。そして盟友である中川清秀と共に反明智に回って、明智光秀は期待を大きく裏切られる結果となる。
オルガンティノはその後に坂本城に寄って、光秀の嫡男十五郎に祝福と洗礼を授け京への通行証を受け取って、無事京にたどり着いている。
オルガンティノが明智光秀の謀反を仕組んだのだろうか?どうやら、そういう訳でもなさそうだ。
イエズス会宣教師はいわばスパイであり、オルガンティノは局長、ヴァリニャーノなら長官といった役わりで、情報を統括する立場にあった。
スペイン本国には日本への武力侵攻の可能性を否定して、中華『明』の征服事業にキリシタン大名の軍事力を有効利用する案で、東インドにおける日本でのイエズス会活動の評価を上げはしたが、信長の謀殺に関与する証拠は何も出ていない。
ヴァリニャーノには信長政権が倒れる事を予期していた節も有り再び起こるだろう天下騒乱へ準備していた。つまり、「信長のことを助けるのをやめた」という表現が正しく、ヴァリニャーノの協定交渉を信長が突っぱねた事で、キリシタンの情報網や貿易独占権は、次の為政者への貢ぎ物となるが、明智光秀はその選考に漏れたということだろう。そして、キリスト教保護政策の継承を約束した羽柴秀吉が次の為政者へ名乗りを挙げる。
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