第25話 群雄割拠(本能寺の変)

 1582年5月14日信長は15日より3日間、明智光秀の軍務を解いて徳川家康一行への接待役を申しつけている。

 5月17日に備中高松城攻囲中の羽柴秀吉から援軍要請が届いた。毛利輝元の出陣を知った信長は自らの出陣を決め、明智光秀に先陣を命じて出陣の準備に入らせた。 

 19日信長の家康接待は続き、20日に丹羽長秀ら4名を接待役に付けて、21日からは大阪・堺の見物に出かけさせた。

同日嫡男織田信忠も上洛し上京妙覚寺に入るが、信忠の上洛意図は未だ定かで無い。

 26日戦支度を終えた光秀は坂本城を発し丹波亀山城に入る。27日は北の愛宕山に登り愛宕権現を参拝し参籠(宿泊)する。翌28日連歌の会を催し亀山に帰城する。先発の軍備を運ぶ輜重隊が西国へ出発する。(1582年5月29日)

 29日信長は安土城に戦陣を待機させ「命令あり次第出陣せよ」と命じ小姓衆のみ率いて上洛して定宿の『本能寺』に入る。

 出陣直前に上洛した意図は定かでないが、6月1日の茶会酒宴の席で嫡男信忠との親子の盃が交わされたのは確かだ。

 信長は深夜に嫡男信忠を見送ってから、囲碁の対局を少し覗いて、しばらく後には就寝したという。

 

 6月1日明智光秀は1万3000の軍勢で亀山城を出陣した。信長の検分を受けるためと称して、東へ進むと“篠八幡宮”で兵を勢揃いさせて、重臣に始めて謀反の心積もりを打ち明けて了解を得たと思われる。この地は意味深く古くは源氏祖先の八幡太郎義家(源義家)の東征祈願に由来し、幕府方の源氏足利高氏が後醍醐帝の掲げる“倒幕”に従う決意を固めて六波羅探題(守る北条氏は平姓)に攻め上った由緒ある道であり、源氏流れの明智光秀が、平氏流れの織田信長に牙をむく恰好の道のりといえた。

 西国遠征道と京への分岐点杏掛に着いて全軍小休止したのが夜12時、兵の大半は謀反など知る由もない。

 不審を抱き通報者が出ないよう注意を払い、2日午前2時ごろ本隊は桂川を渡って火縄に火がつき戦闘態勢に入る頃「今日よりして、天下様にお成りなされ候間に、下々草履取り以下に至るまで勇み悦び候へ」との触れが全軍に回る。

 午前4時、本能寺の包囲が終わる。しばらくして鬨(とき)の声が上がり、午前8時前立ち込める焦げた匂いと死の静寂……光秀がその時、何処にいたかは解っていない。しかし、信長の遺体を見つけられず憔悴する光秀を見かね重臣斉藤利三が「合掌して火の手の上がる奥へ入るのを見た」と伝えようやく嫡男信忠の攻撃に移ったという。


 本能寺から1キロと少しの妙覚寺で謀反ありの報を受けて、救援に向かおうと出た嫡男信忠を駆け付けた村井貞勝が制止して“二条城”に移し、二条邸主東宮誠仁親王と若宮和仁王(後の後陽成帝)を内裏(天皇御所)へ脱出させた。

 明智勢は一時の停戦に応じて帝や宮方の脱出を許す。公家衆から女官衆まで一切が脱出した正午ごろ、明智勢が攻め寄せて信忠もよく奮闘したが最後には“無常の煙”となり、光秀は信長に続いて嫡男信忠の首級(しるし)も逃した。

 多く家臣が討ち死にした一方逃げ出した者も。信長弟、織田長益(後の有楽斎)は自決へ促す家臣を欺き、二条城をまんまと脱出している。


 徳川家康は堺の遊覧中に一報を受け、狼狽(ろうばい)の中で、服部半蔵に導かれて伊賀越えを果たし三河へと命からがら戻った。

 ただちに兵を引き連れて京へとって返そうとしたが、道中で明智勢敗北の報を受け兵を引いた。

 明智光秀を討ったのは備中高松から兵を返した羽柴秀吉だった。6月3日に信長の訃報を受けて、4日高松城主清水宗治切腹により毛利勢と和睦し5日から撤兵すると

6日岡山、7日に姫路、11日には尼崎に達して、畿内の摂津衆を味方に出来た事と(光秀は近江重視)徳川家康の接待で京にあった丹羽長秀・織田信孝が兵を引き連れ合流した事で、明智討伐一番乗りの体制を整えた。

 12日軍議で名目上、織田信孝を総大将としたものの事実上羽柴秀吉が盟主として

望み、山崎を主戦場とした作戦が決定された。


 一方で光秀は二条城制圧後、京の治安維持と近江の明智居城坂本城と織田本拠地の安土周辺を制圧すると共に、越後攻めにある織田家中で最大勢力である柴田勝家への備えを最優先した。

 3日・4日と坂本城にて近江や美濃の国衆の誘降に費やしたが思惑通りには進まず、5日に安土城を攻撃して奪取し、秀吉本拠の長浜城、丹羽長秀の佐和山城など周辺を占拠して、光秀は7日まで安土城で過ごした。光秀の誤算は娘たま(後ガラシャ)の嫁ぎ先である細川家が「喪に服す」として中立に構えた事。

 朝廷は近江をほぼ手中に収めた光秀に対し、7日に勅使を安土城に派遣して勝利を祝賀する。8日坂本城に帰った光秀は秀吉行軍の報に接するが、9日は朝廷へ返礼に上洛して、朝廷や寺院に銀子を配り上京・下京の地子銭免除を発し“新たな天下人”のように振る舞った。

 再び細川家に書状を送るが、態度は変わらず仕舞い、秀吉の調略が既に及んでいたようである。9日に姫路を発った秀吉勢は明石を経て、兵庫港近くに野営し別動隊で淡路周辺を制圧すると、本隊は充分な休息後11日夕刻尼崎に到着する。淀川対岸は大阪の地であり、亡君信長公の弔い合戦が間近に迫っていた。

 姫路を発ってから秀吉の行軍は、それまでのガムシャラさは無く、慎重かつ着実に進んで同盟者を募りつつ、情報戦を繰り広げながら、「逆賊明智光秀を討つ義戦」を最大限強調し、12日摂津冨田に着陣する頃には、池田恒興・中川清秀・高山右近ら摂津の諸将が相次いで秀吉陣営にはせ参じて去就を明らかにした。

 淀川と天王山に挟まれた山崎へ大軍を誘い込み陣形を狭めて順次撃破するしかない明智軍は守備的な陣形で臨み、冨田で一夜を過ごした秀吉は13日朝決戦の地山崎へ向かう。

 天王山は先遣隊中川清秀が既に抑えて、街道関門は高山右近が手中に収めていた。午後4時頃、明智軍先鋒の攻撃が始まると秀吉軍が反撃し一気に本隊がなだれ込んで陣形はたちまち総崩れとなり籠城も叶わぬまま光秀は逃亡する。

 岐阜坂本城を目指すが真夜中頃に伏見道で落ち武者狩りの土民と出くわし、襲われ死亡したという。

 秀吉が首級を確認したのは14日、原因不明の出火で翌15日に信長の安土城が焼け落ちて、荘厳な佇まいは呆気なく消え去った。(1582年6月)


 覇王織田信長が死んだ。そして王を倒した明智光秀も、この筋書きには誰もが驚き敵も味方も大混乱である。実しやかに陰謀や黒幕説が語られる所以である。

 甲斐・信濃では一揆が起きて、越後上杉・相模北条も所領拡大へ再び動き、戦国の騒乱へ逆戻りの様相を呈した。

 関東管領に任じられて日も浅い滝川一益が、16日から19日に掛けて北条氏直軍に大敗し尾張まで敗走すると、東国では上杉と手を結ぶ北条と、織田の盟友徳川家康の全面対決となったが、上州攻防で勝敗の鍵を握る真田昌幸を味方に就けた徳川家康が戦を制して、1582年10月有利な条件で北条氏直と和睦して、同盟に漕ぎ着け5カ国を領有する。

 有名な清須会議(1582年6月27日)では、織田家督と領地再分配が話し合われたが従属的な立場の家康は秀吉他、織田家重臣に関東管領滝川一益の撤退で混迷していた旧武田領への進出の了承を求め、織田勢は徳川家康に委ねていた。

 毛利では“本能寺の変”が伝わる6月5日前日に結んだ秀吉との和睦を欺かれたとして将士は一斉に激昂奮起し追撃を願い出たが、重臣小早川隆景は毛利所領の形勢不利を察し抑えて追撃を許さず、総帥毛利輝元もこれを支持した。

 6月9日鞆将軍義昭は小早川隆景に対し帰洛を意図し備前・播磨へ出兵を命じるが輝元は秀吉との和睦を遵守して動かなかった。

 6月13日に秀吉が明智光秀を破ると、戦勝を祝うために安国寺恵瓊を使者に送る。将軍義昭は安国寺恵瓊を介して、秀吉の帰洛斡旋を願い出ると、秀吉は承知の意思は示すものの話が進まない。(1582年6月26日)

 10月秀吉が信長公葬儀を仕切り、事実上の後継者として振る舞うと、柴田勝家・織田信孝ら反対勢力と火花を散らし、両陣営が毛利勢支援を求めた。

 11月将軍義昭は柴田勝家から帰洛の約束を取り付け支援を決め、越後上杉景勝に勝家との講和を求める御内緒を下した。毛利にも勝家支援を働き掛けるが毛利輝元は日和見を続け、両陣営と通交を維持し続けたのだ。

 織田家筆頭家老を自認していた柴田勝家だが、主君仇討でそれまで3~4番家老の羽柴秀吉に後れをとって、半年の間に名実ともに立場は逆転していた。

 互いの政治工作も虚しく結局は戦国の世のならいにより、元は味方同士がこれも又、天下分け目の戦いに臨む。

 12月越前の勝家が雪で動けないのを見越して、近江の柴田領、美濃の織田信孝を攻めたて降伏させた秀吉は、岐阜で囲われていた織田家家督三法師を手中にするが、1583年に入ると柴田勝家方が有利に戦いを進めて、3月北近江で両軍が対峙すると、4月、一度は秀吉に屈していた美濃織田信孝が再び挙兵した。

 秀吉が美濃へ追討の兵を向けた隙を突いて、勝家方重臣の佐久間盛政が砦へ奇襲を仕掛け陥落させる。勝家は秀吉の反撃を予測して、すぐに陣払いを命じたが、盛政は砦を前線基地とし兵を引かなかった。

 佐久間盛政奇襲の報に触れた羽柴秀吉は「天下はとった」と大いに喜んだという。

伏せていた兵で「美濃大返し」を刊行、盛政軍を包囲し勝家方の崩れた陣形を突く。 

 佐久間盛政も良く戦い、前線は一進一退激しい戦闘が繰り広げられる。そんな中、柴田軍の一翼を担う、前田利家隊5000が突如戦線離脱を開始する。連鎖するように勝家方の代表として秀吉との和睦交渉に携わった将が、次々に戦線を離脱して形勢は一気に秀吉方に傾き苛烈な集中攻撃に織田家中随一の猛将柴田勝家は吞み込まれた。

 わずかな兵を引き連れ越前北ノ庄城への敗走途中、勝家は戦場を離れ越前府中城に篭る前田利家を訪ね、妻マツの湯漬けを所望し去り際「秀吉に就け」と言い残したという。秀吉は降伏した前田利家に北ノ庄城攻めの先鋒を命じ、柴田勝家は切腹の後に天守最上階を爆破して壮絶な最後を遂げる。

 一族・側近ことごとく亡くなる中、人質の利家三女は落城前に返されたそうだ。(1583年4月24日)

 こうして天下は羽柴秀吉に転がり込んだ。一見、国内騒乱の一ページのようだが、違う仮説も存在する。織田信長がどうして歴史の舞台から降ろされたのかだ。

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