第24話 群雄割拠(おおづめ)

 信長包囲網が瓦解した今、信長に抗う者は僅かだ。足利義昭は顕如の石山本願寺と畿内勢力の三好義継に畠山氏を結びつけ、上杉謙信と毛利輝元を味方に就ける事で、信長へ対抗を企むが、毛利輝元は信長と同様に将軍義昭を“困ったチャン”と捉えた。(1573年9月)

 織田方羽柴秀吉と毛利方安国寺恵瓊は義昭の上洛を打ち合わせ、11月堺で義昭と双方の使者との面会が行われ無条件降伏と帰京が説得されたが、将軍義昭は信長から人質を求めて譲らない。秀吉は呆れかえって“もはやどこへでも行ったらよかろう”と言い捨てて引き上げたという。安国寺恵瓊は尚一日だけ留まり、輝元の意を伝えて

“西国に下向されると迷惑”と告げる。将軍義昭は従者20人ほどを伴い、堺を離れて、紀伊(和歌山)の寺に着く。

 義昭を匿ってきた三好義継は、信長の命により自害に追い込まれるが義昭は懲りずその後も各地の勢力へ協力を呼び掛け信長に対し反旗を掲げ続ける。(1574年1月)


 朝倉氏滅亡の後、旧領を安堵された越前を本願寺顕如の魔の手が襲う。

1574年1月から村々で土一揆が発生し、一乗谷を攻略すると加賀から指導者が入って首領に治まり、5月に土橋信鏡(朝倉景綱)を排除すると加賀に続き越前も一向宗の支配下に落ちて表向き“百姓の持ちたる国”となる。

 信長と顕如の攻防は続く、伊勢長島は信長所領尾張に近いが10万といわれていた一向宗門徒の自治都市と化していた。

 石山本願寺の攻防で、長島でも門徒が一斉蜂起して織田を攻めて長島城・桑名城と次々と落としたが、その時は信長と浅井・朝倉勢の和睦により一時戦が止められた。

 その後も、攻防戦は散発的に繰り返されるが、長島一向一揆衆はしぶとく戦って、信長を悩ませる。1573年9月、浅井・朝倉を殲滅した信長は長島攻めの命を下すが、この時も勝ち切る事が出来ず、1574年6月には織田軍勢三度目の大動員が図られて、籠城する門徒衆に対し、兵糧攻めから火責めが仕掛けられ、長島の自治領は徹底的に破壊された。しばしば、信長の冷徹な殺戮が非難されてきたが、一向門徒衆を相手に気など抜けば命取りになる事は、戦う相手ならば痛感したことだろう。

 ゲリラ戦に伊賀・甲賀忍者など武士の伝統に抗う戦術は織田方武将を恐怖させた。

長島一向一揆鎮圧により信長は戦力の集中が可能と成り、長年の懸案に終止符を打つべく天下統一の仕上げに取り掛かる。

 武田信玄亡き後(1573年4月)家督を継いだ嫡男勝頼は、1574年4月に将軍義昭の信長への反抗声明に呼応するように、所領の拡大を目指して東美濃の織田領に侵攻を始め、援軍が間に合わぬほどの速攻で信長勢を岐阜まで退却させると、同年の6月に遠江・三河の奪還を目指して徳川領に侵入し、東遠江をほぼ平定する。

 1575年5月三河長篠城に襲い掛かるが、堅固な守備に手間取り家康方の援軍到着を許してしまう。(援軍来報を知らせる鳥居強右衛門の武勇伝は有名)

 織田・徳川連合軍は、長篠に到着すると夜襲を仕掛けて長篠城の救援に成功して、武田本隊の退路を断つ。

 織田の本隊は“馬防柵を築いて”(野戦築城)武田騎馬隊を迎え撃つ陣形で臨むと、勝頼は主力軍を率い堂々対峙する。早朝に始まった総力戦は午後に入り雌雄を決し、織田信長の思惑通り織田・徳川連合圧勝に終わる。(1575年5月)

 信長は休むことなく、前年一向一揆の支配下に堕ちていた越前を平定し前田利家・佐々成正らに分割統治させた。(1575年8月)

 長島一向一揆と越前一向一揆の破壊と殲滅は本願寺顕如への強烈な恫喝となるが、 信長が赦免の方針をとったため、信長と本願寺の和議が成立する。(1575年10月)


 1575年11月正親町帝は信長を“権代納言・右近衛大将”に任じて『天下人』の称号を授ける。これに先立つ3月、信長は正親町帝より蘭奢待(らんじゃたい)切り取りも許されており、並ぶ者のない権威はもはや動かしがたく、室町幕府の伝統とは違った新たな権威の誕生は明らかな既成事実と成り、信長は嫡男信忠へ大名としての家督と織田家領国を譲り、安土城築城を宣言する。

 1576年1月、信長に長年従ってきた丹波国衆波多野秀治が信長の命で丹波の統治に掛かる明智光秀に突然刃向った。

 石山本願寺顕如が再び挙兵するなど反信長の動きが活発化すると、2月将軍義昭は潜伏先の紀伊から“備後鞆町”へ移って毛利輝元を頼った。信長は今や将軍義昭よりも上位の存在であり鞆町入りは輝元へ知らせぬままの強行であった。毛利輝元は信長と同盟関係にあり対応に苦慮したが、5月結局反信長の狼煙を上げた。

 足利義昭は鞆に御所を構え、“鞆幕府”として毛利輝元を副将軍に任じる。地方での足利将軍家の威光は未だに強く、信長と協力関係にあった関東管領上杉謙信も義昭の求めに応じて、武田・北条・本願寺との和睦を図って信長への反目を明らかにする。 

 再び反信長網が拡がる中でも朝廷で昇進が続き正三位・内大臣に就任した信長に1577年8月河内のくせ者松永久秀が背く、たった2カ月で籠城した城は陥落し久秀は自害に追い込まれてしまう。義昭に呼応したと伝わるのだが、あの松永久秀にしては解せぬ死に様だ。

 信長は久秀のくせ者ぶりが気に入っていた。3度目の裏切りも平蜘蛛(名茶器)を差し出すことで水に流すつもりでいたようだ。しかし、久秀は信長の使者にも合わず「平蜘蛛の釜と我らの首の2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ……」と最後の憎まれ口を叩いて、天守の業火に包まれた。享年68歳、東大寺の焼き討ち決起から丁度10年後のことである。(1577年10月)

 信長は11月、従二位・右大臣の昇進に続いて、翌年1月には正二位に昇叙される。3月に播磨別所氏が義昭・顕如にそそのかされて謀反に走るが、同じ頃に“東国の雄”

上杉謙信死去の報が入る。

 信長は翌月に右大臣・右近衛大将の武官職を突然辞して正二位のみを官位とした。解釈は様々だが武家に与えられる官職を辞し次のステージへ自ら鼓舞したのだろう。 

 収まらない戦闘の火種の元凶は明らかだったが、信長は律儀に将軍義昭を生かし、自ら運命を悟る道を残してきた。室町将軍を取り巻く邪(よこしま)な思いを断ち切り周りに納得させるには、それ以外にないと信じた。

 だから、播磨攻めで荒木村重が寝返った際も重用者離反に驚くが、取り巻く大局を見失わず、毛利勢に傾く流れを調略によって引き戻す事に成功する。(1579年1月)


 毛利輝元が上洛を断念すると、6月宇喜多直家、9月南条元続と毛利勢の裏切りが相次いで、毛利攻め総大将羽柴秀吉の蒔いた調略の種が芽吹いていた。

 1580年1月別所長治が切腹、播磨の攻略は終わった。3月には相模北条氏が従属を申し入れ織田支配下に下る。1576年から続く本願寺兵糧攻めは毛利水軍が制海権を失うと逃れようないものとなり、正親町帝の勅命のもと4月本願寺顕如が退去すると8月子の教如と雑賀衆の撤収により本願寺堂舎・寺内町が明け渡され、直ぐに炎上し灰と化した。遂に反抗を続けた一向宗の本丸が落ちたのだ。


 秀吉は次々西国を平らげ毛利を追い詰め、家康は1575年長篠の戦い以降、義昭の計略で武田と上杉が和睦して1576年武田と毛利の軍事同盟が成立すると、1577年に武田勝頼が北条氏政の妹を後室に迎え同盟を結んだので危機感を募らせたのだが、 

 1578年上杉謙信の病死による家督争いで、北条家養子の上杉景虎(北条三郎)へ支援要請された武田勝頼だが、もう一方の上杉景勝に家督が定まり武田と北条の仲は険悪になり、1579年9月同盟は手切れとなった。

 勝頼は上杉との連帯を深め、隣国へ同盟を拡げて北条氏へ対抗する。中でも信玄の時代から重鎮であった真田昌幸の活躍により、上州では北条氏を圧倒していた。1579年9月に北条氏政は、徳川家康と同盟を結んで武勝頼を牽制する。

 勝頼は信長と和睦交渉を重ねて衝突回避を模索するのだが、信長はこれを黙殺して1580年3月北条氏政の従属を受け入れた。

 “天下のため”を標榜し、本願寺を殲滅して東国の雄北条氏を支配下に置いた事で、信長の“天下の意味”は確実に畿内中心から日本全国へと広まった。

 1581年1月京で織田軍の武威を知らしめる“馬揃え”が行われて2月・3月と続いた。確かに同時期、正親町帝の子誠仁親王へ譲位を迫った記しもあるようだが、朝廷への圧力というより畿内掌握を世間にお披露目したに過ぎず、京民衆は素直に長く続いた戦乱の収束を喜んだ。

 8月安土城下で公家衆も参加する“馬揃え”が盛大に行われ安土が武家政権の中心と成る事が天下に知らしめられている。


 長篠戦以降は駿河奪還を悲願とする徳川勢と、補給路の確保に困窮する武田勢との睨み合いが続くが1580年10月、周囲を囲む砦の完成から家康は高天神城兵糧攻めに掛かる。信長との争いを避けたい武田勝頼は援軍を送らず、織田信長は家康に降伏を許さぬよう厳命する。見殺しにされ憤死する敵兵の命など信長の演出効果に過ぎず、前回武田勢に高天神城を奪われ見捨てる形となり、威信を傷つけられた仕返しなのは明らかだ。この戦いで武田勝頼の名声は地に落ちて、国衆は動揺し調略の猜疑心から甲斐の鉄の結束は見事に崩壊してゆく。


 1581年、信長は荒木村重を匿った高野山を攻めさせ、多くの高野聖(修行僧)を捕縛し殺害したが、激しい抵抗から戦は長期化して甲州遠征(武田領侵攻)で一旦は保留となる。1582年2月武田掃討作戦が始まり、織田軍が信濃方面、徳川軍が駿河に侵攻開始。味方にも見捨てられ、行く手を無くした武田勝頼は嫡男・正室と自害して甲斐武田氏は滅びた。(1582年3月)

 信長は武功を挙げた嫡男信忠へ「褒美と共に天下支配の権も譲ろう」と言葉を贈り褒め称え、家臣滝川一益に上野と信濃を与え『関東管領』に据える。

 武田領は分配されて国境の関所は撤廃された。


 4月富士山見物を家康の接待で楽しんだ信長は、その足で駿河に入って北条氏政の接待を受ける。更に江尻、浜松、船で清州へ回って安土城へ帰還した。

 同盟者は「その威に服し従属する」という姿勢を鮮明にして、抗う者は羽柴秀吉が攻める毛利勢など僅かとなった。

 さかのぼる正月に安土城御幸の間完成のお披露目が行われて正親町帝の安土行幸も間近な事が窺われる。

 朝廷では、信長の任官について太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれを任ずべきか話し合われ、5月には信長より正親町帝・誠仁親王に返答があった事は記されるが、内容は不明だ。時を同じくして、信長の招きに答えた徳川家康が武田攻めで従属した穴山梅雪を伴って、駿河拝領の礼に安土を訪れた。(1582年5月)



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