第30話 家康の子供達

 徳川家康は三河の豪族松平氏の子孫であり、松平元康が元の姓名であった。

桶狭間の3年後(1563年)今川義元からの偏諱「元」を捨てて「家康」と名乗り、「徳川」という姓(かばね)は、1567年に朝廷より正式に認められ改姓している。当初は、家康一代限りとされたのだがその後に徳川が将軍姓となり、松平は将軍家と祖先を同じくする家臣が名乗る姓になってゆくのだ。


 松平元康には、正妻築山殿(今川義元姪)との間に嫡男信康があった。幼少時代を父同様、今川氏の人質として過ごし、9歳で織田信長娘徳姫と政略結婚し元服して、勇猛果敢な武将へと成長してゆく。

 二男、於義丸(松平秀康)は築山殿に仕えた女中との子であり、双子でもう一人が生まれてすぐに亡くなったことから縁が離れ家康とは3歳まで合わずに、家臣の下で育てられている。 不憫な異母弟の存在を知った嫡男信康の計らいから親子の対面が叶ったようだ。

 そんな嫡男の信康は、謀反の嫌疑によって1579年父家康の命により切腹となり(享年21歳)、その首は織田信長に送られた。三男の秀忠はこの事件が起こる5カ月前に誕生しており、生母は三河の名家の出である。 

 そして、小牧・長久手の戦い(1584年)の戦い後、羽柴秀吉との和睦条件として次男於義丸(松平秀康)は養子に出され元服して羽柴秀康となる。徳川家の後継者の目は難しくなったが、優れた武将に成長して周りに遇された。秀康の器量を見抜いた秀吉は、このまま豊臣家中に置けば分裂の種となりかねない存在と考えて、北関東の名家である結城氏に養子に出し結城秀康となった。徳川の世が開かれようとする時、会津征伐に従軍していた秀康は、徳川軍の反転後に上杉軍勢に睨みを聞かせる大役を実父家康より与えられて奮起するが、武勇を存分に発揮する機会に恵まれなかった。

 弟の秀忠は、別動隊を率いて中山道を西へ進むが、真田親子に足止めされ関ケ原に遅参した。大失態と言われたが、家康は後継の立場を変えず後に二代将軍となる。

 秀康は功を認められ、越前70万石の大名に立身して松平の姓を許されたという。武勇に優れ堂々威厳をまとう松平秀康は多く逸話を残して1606年34歳で病死する。


 関ケ原の後、家康が「息子三人の誰を後継者にすべきか」家臣に問う逸話が残る。本多正信は次男結城秀康を推して、井伊直政と本多忠勝は四男の松平忠吉を推した。大久保忠隣ひとり「乱世においては武勇が肝要ではありますが、天下を治めるには、文徳も必要です。知勇と文徳を持ち謙譲な人柄の秀忠様しかおりませぬ」と推した。

 二代将軍秀忠は父の教えを律儀に守って、冷静沈着に生まれたばかりの江戸幕府の基礎を固めるにはうってつけの人物であった。中国商船以外の外国船の寄港を平戸(長崎)に限定するなど「キリシタン禁制」を推進し「公家諸法度、武家諸法度」の法整備を定着させ武家政権を確立させた功績は大きい。


 家康には、男11人女5人合わせて16人の子があり将軍秀忠同母弟、四男松平忠吉は尾張・美濃清州藩主となるが1607年28歳で早世している。異母弟五男、武田信吉は常陸国水戸を封ぜられ武田氏を再興したが、1603年21歳で早世した。

 六男、松平忠輝は七男松千代(1599年早世)と双子であり、信濃・越後を所領としたが「大阪城攻め」で怒りをかったのか?家康は、子の中で忠輝だけを今際の際に呼ばなかった。1616年兄将軍秀忠の命で流罪となり、1683年幽閉先の諏訪高島城で死去した。(享年92歳)※五代将軍綱吉の世

 八男仙千代は6歳で早世し、同母弟九男、徳川義直は2歳で甲斐藩主、1606年元服すると翌年、早世した四男松平忠吉を継ぎ清州藩主となり、家康が東海道の要として築いた名古屋城を受け継いだ。1650年江戸名古屋藩邸で死去している(享年51歳)

 九男、徳川義直を租とする尾張徳川家は、後の世で「将軍御三家の筆頭」となる。

十男、徳川頼宣は2歳で五男武田信吉の遺領である水戸を引き継いで1606年元服し、異母兄徳川義直と同様に家康に可愛がられ、1619年紀伊和歌山藩55万石に転封して御三家、紀伊徳川家の家租となり、1671年享年70歳で没している。

 十一男、徳川頼房は同母兄の頼宣の駿府転封により1609年水戸所領を引き継ぐと1611年元服、大阪の陣で駿府城を守備した。(1614年)兄将軍秀忠の計らいにより将軍世嗣家光の一つ年上の身内として学友のように青春時代を江戸で過ごした。

 三代将軍家光は実の兄弟より幼馴染みで近親の頼房を頼りに江戸に留置いたので、水戸藩主は代々、江戸に常住する定府(参勤交代をせず江戸に常住)となり水戸家を俗に「副将軍」と称する論拠となった。1661年水戸就藩中に病で死去する。因みに水戸光圀(黄門様)は頼房の二男である。

 

 1616年父家康が亡くなり二代将軍秀忠の世が訪れると諸大名の間に改易(所領の没収刑)蟄居(謹慎処分)が吹き荒れ、大名・朝廷・寺社の厳しい統制が始まる。  

 狸オヤジだが情に厚い初代家康の柔軟性は二代秀忠には無く、すべてが杓子定規に進む。父家康は生前に、後陽成帝の次帝に秀忠の娘和子の入内を画策して皇位継承に介入し、1611年『第108代後水尾天皇』が即位する。後陽成院は入内阻止を続けたが1614年渋々認め、家康死去の翌年に崩御した。(1617年)

 1618年に女御御殿の造営が始まるのだが、後水尾帝と女官との間に皇子・皇女のあることが秀忠の知るところとなり、入内は問題視される。

 翌年、秀忠は上洛し宮中の秩序を乱す行為として咎め、天皇側近の多くを罰した。憤慨した後水尾帝は譲位を望むが、幕府使者に恫喝され、女官は追放・出家となる。 

 1620年、娘和子の入内で満足した将軍秀忠は、後水尾帝に処罰した側近の大赦を強要して、文字通り思いどおりに朝廷を操ったのだ。

 その後も朝廷への締め付けは必要に続いて、1625年に皇子高仁親王が誕生するが早世(3歳)すると後水尾帝は幕府へ通告なしに二女興子内親王(和子第一皇女)に譲位した(1629年)。こうして唯一徳川将軍家を外戚とした『第109代明正天皇』が即位するが、後水尾帝が逃げ出す様に帝を退いた理由が怖い。秀忠命により側室腹は皆、流産させられたというのだ。(後水尾院の一方的言い分かもしれないが……)

事実、後水尾院は多くの子息を残したが、帝であった時の子は正室和子との子だけであり、恐怖の流言を裏付ける。

 秀忠に余分な野心はないが「ただやるべきことはやりきる」そんな逸話である。


 和子入内の年、秀忠の二人の男子が元服し、家光・忠長と名乗った。(1620年)

秀忠の長子は次男家光が生まれた時にはこの世に亡く、正室お江(淀殿妹)との子の二人が世継ぎ候補であったが、兄家光(竹千代)は病弱で心身の問題により両親から敬遠され、家督相続は母お江に溺愛された2歳年下の弟忠長(国松)が有力だった。

 竹千代の乳母である春日局が大御所家康に竹千代(家光)の将軍就任を直訴して、家康の亡くなる1年前(1615年)ようやく世継ぎが竹千代(家光)に決まり、将軍へ準備が始まったのだ。

 秀忠は1623年家督を嫡男家光に譲り、父家康と同様に大御所として実権を握る。

三代将軍家光の結婚相手は摂家鷹司家(宮家)から迎えられた。(1623年20歳)

 1624年、弟忠長は加増を受け駿河大納言と呼ばれたが満足せず、大御所秀忠に「100万石を賜るか大阪城城主にして欲しい!」との嘆願書を送ったというのだから呆れられるのも仕方がない。最大の庇護者であった母お江が亡くなると(1626年)問題行動がエスカレートして将軍家光との数々の確執から1632年大御所秀忠危篤の際も面会は許されなかった。秀忠が死去すると改易となり兄将軍家光に排除されて1633年幕命により切腹となった。(享年28歳)

 こうして、長子による世継ぎ継承の原則が出来て、以後の前提となった。


 三代将軍徳川家光は幼いころ病弱・気弱で、化粧をして鏡を眺めてはウットリするような人物だったが、28歳で将軍としての実権を握ると「わたしは生まれながらの将軍である。大名は従へ!」と強権(武断政治)を揮って、武家諸法度を改定して「参勤交代で大名の統制を図る」仕組みを作りだし幕府に脅威となる大名を徹底して取り潰した。(1635年)

 対外的には長崎奉行への統制を強め『鎖国令』により日本人は東南アジアへ往来が禁止され、宣教師の密航手段で国際紛争の火種であった朱印船貿易は終焉して外国人(オランダ人・ポルトガル人・中国人)が代行することになる。九州各地の中国人は長崎のみに集住され(1635年)ポルトガル人は長崎出島に隔離される(1636年)。1637年島原の乱(藩主の圧政に抵抗するキリスト教徒を中心とした一揆)鎮圧後、ポルトガル断交を決め、1639年ポルトガル人を追放し1641年オランダ商館が出島に移されて『鎖国』体制を完成させた。

 島原の乱では、一揆軍が各地キリスト教徒とポルトガル(カトリック国)の支援を期待して、幕府方はオランダ(プロテスタント国)の直接的援助を受けた。幕府方はカトリック系キリスト教徒が反乱拡大に関与しているとの疑心暗鬼に陥り、禁教令を強化してポルトガル断交を決めているが、実際にはポルトガルはスペインの支配下にあり、本国スペインも戦時下、遠い東洋の内乱に介入できる国力はなくなっていた。


 1641年には、三代将軍家光には嫡男竹千代(家綱)が生まれた。その翌年から『寛永の大飢饉』により日本中で異常気象や災害が起こり、食料不足から物価高騰と貨幣価値が急落し、庶民生活に大混乱が生じる。将軍家光は飢饉対策を諸大名に対し指示して、江戸に在った多くの大名が領地へ就いた。

 幕府の武断政治は大名を、ひいては武士階級を困窮させて、百姓への厳しい年貢の取立てに結び付く、そこへ飢饉が襲えば庶民生活などひとたまりもなかった。

 混乱が収まらぬ中、1650年将軍家光を病が襲い、嫡男家綱が諸儀礼を代行するが翌年に三代将軍家光は江戸城内で死去する(1651年4月、享年48歳)。


 将軍家光の時代に幕府の政治的な諸役職が定まる。「家康はすべて自分で決めた。秀忠はそれには及ばないが半分は自分で決めた。家光はすべて重臣任せであった」と酷評もされたが、思い通りの『制度』を作って、実行に移した政治力は並外れており良くも悪くも絶対君主であった。

 




 



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