第35話 フィフス・インパクト(西欧の理屈)
「ヒトの本性を規制せず、ありのままにすることで社会は発展する。ヒトの感情が社会発展の原動力となる(社会契約説)」はアダム・スミスの「ヒトの利己的行動が経済を発展させる」という経済論にもつながり侵略行動を肯定する思想背景となる。また「野蛮・無知・貧困などは文明化によって克服されなければならない」といった楽観的な近代化説が植民地主義を正当化する一方的な根拠となりヨーロッパ知識人の先端流行思想になる中で「カトリックの征服事業」(フォース・インパクト)から「プロテスタントの略奪計画」(フィフス・インパクト)へ移り変わってゆく。
1641年以降は、オランダのみが出島(長崎)を通じ通商を許された。
(1623年イギリス商館は営業不振で閉鎖・1647年ポルトガル船の来航拒否の発動)
フランス革命が興って、1793年オランダがフランスに占領されるとオランダ王はイギリスに亡命して、1798年にオランダの東インド会社は解散した。フランス皇帝ナポレオンは1806年弟をオランダ国王に任命、オランダ植民地はすべてフランスの影響下に置かれた。
イギリスは、亡命王の依頼によりオランダ植民地の接収を始めたが東インド会社の本拠地ジャカルタはオランダ(フランス)支配下、アジアの制海権はイギリスが握り貿易商は中立国アメリカ船を雇用して貿易を続けるという複雑な情勢下となった。
1808年オランダ船拿捕を目的にイギリス軍艦フェートン号がオランダ国旗を掲げ国籍を偽り長崎へ入港した。港に入るとオランダ商館員を拉致しイギリス国旗を掲げオランダ船の捜索して去ってゆくフェートン号を長崎奉行は成すすべなく見送った。
1824年には水戸大津沖にイギリス捕鯨船が出没し、その後にも外国船籍の接近が相次いだことから1825年「外国船打払令」が発令される。1837年にはアメリカ商船モリソン号に対し幕府は異国船打払令に基づき砲撃を行う。日本がオランダを除いた西欧諸国に対し「鎖国」を貫く中で、東アジアでは「侵略」が始まろうとしていた。
中華を支配した「清」は、伝統的な中華思想に基づき冊封体制下で国際秩序を維持出来ると考えていた。しかし、産業革命で力をつけたイギリスは輸出増大をもくろみ広州に限られていた貿易港の地域拡大を要求し、清はそれを突っぱねる。イギリスはインド貿易同様に大幅な貿易赤字を抱え、大量の「銀」流出問題に直面していたため是が非でも通商地域拡大と中華に受け入れられる商材が必要だった。
イギリス商人は、強力な貿易商品としてインド植民地で栽培した「麻薬アヘン」を三角貿易で運び込む。清は1796年アヘン輸入を禁止したが、密貿易は年々拡大して麻薬アヘンは中華公民に蔓延した。
1839年にアヘン密貿易の取締りが強化され、広州で密売人の摘発とアヘン没収が始まるとイギリスは武力で密輸の維持と沿岸都市での「治外法権」獲得を目論んで、1840年に武力侵攻を開始「アヘン戦争」が始まる。
近代兵器の前に中華清は成すすべなく敗れ、不平等な「南京条約(1842年)」で香港は割譲され、上海港など強制的開港と関税自主権の喪失に、領事裁判権の承認、最恵国待遇の承認などが国際的に強要される。
1844年にはフランス、アメリカとの不平等な条約締結が相次ぎ、中華清は完全に
西欧の食い物にされてしまう。
その後、清政府が「銀」流出を食い止めるため国産アヘン生産に踏み切ったことでイギリスのアヘン密輸が伸び悩むと、1860年強引な口実で「第二次アヘン戦争」を仕掛けてフランスと共に内陸部に侵攻し北京を占領して「北京条約(1860年)」を強引に結んだ。
清朝の敗戦は長崎に入港していたオランダや清の商船員を通じて日本にも伝わる。1842年、異国に対する脅威が膨らむ中で、幕府方の強固な態度(外国船打払令)はトーンダウンして、いよいよ緊張感が増した。
産業革命によって欧米の工場が夜間まで稼働するようになると、潤滑油やランプの灯火として使用された「鯨油」需要が膨らみ、世界の海で捕鯨が盛んになっていた。
日本の近海は太平洋の好漁場として知られ、アメリカ東海岸を基地とする捕鯨船は大量の薪や水に食料の補給拠点が必要だった。また、1844年に清と条約締結が叶い貿易開拓が国家事業となったアメリカでは、上海へ至る最短海上ルートの津軽海峡と対馬海峡を通過する航路上に補給拠点を欲していた。
1852年7月オランダ商館長が長崎奉行に提出した資料にアメリカが日本との条約の締結を求め艦隊を派遣する情報が記されている。司令官がペリーであることや陸戦用兵士と兵器を搭載している噂があることも告げ、出航は4月下旬との予想も伝えた。
オランダ領東インド総督からの親書にはアメリカ使節への対処法などアドバイスが記され、戦争への懸念が表されていた。
老中首座阿部正弘は十二代将軍家慶参謀として国難に対処した。1845年海防掛を設置して国防に着手すると、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など最先端頭脳に意見を求めた。1846年アメリカ艦隊が浦賀に通商を求め現れた時には鎖国を理由に拒絶できたが、1853年7月8日浦賀沖に黒船(蒸気船)が現れると幕府は慌てた。
この時、十二代将軍家慶は病床に伏せっており老中首座阿部正弘は「国書を受けるくらいは仕方ない」との結論に至り、ペリー一行の久里浜上陸を許して、浦賀奉行が会見した。幕府は将軍の病気を理由に国書への返答猶予を求め、「ペリーは1年後の再来航を宣言した」黒船は9日間湾内に滞在し数十発の空砲を発射する。祝砲として事前通告があったのだが江戸庶民には充分な威嚇となったようだ。
ペリー退去から10日後十二代将軍家慶が死去。病弱な十三代将軍家定に非常時の国政など担える訳も無い。老中首座阿部正弘へアメリカの開国要求に対する意見書を提出した幕府重鎮の彦根藩、井伊直弼は「開国論」を主張して、海防参与に任命した徳川斉昭は「攘夷論」を主張する。この時、勝海舟の意見書も阿部正弘の目に留まり幕府参謀に引き揚げられている。
1854年2月ペリー艦隊は横浜沖に停泊した。1カ月協議の末に「日米和親条約」が結ばれ下田と函館の開港を約束したが通商は拒否した。あくまで捕鯨船の補給拠点の提供という内容で、開国には応じたが攘夷派の不満を充分にかわす内容ではあった。それでも反対派の徳川斉昭は海防掛参与を辞任している。
1855年老中首座を開国派の堀田正睦に譲ると、阿部正弘は講武所(日本陸軍)や長崎海軍伝習所(日本海軍)、洋学所(東京大学)を創設し、西洋砲術の推進などの幕政改革に満身したが、1857年に39歳で急死した。優柔不断あるいは八方美人との批判と共に「善きを用い、悪しきを捨てよう」の心がけで常にヒトの話をよく聞き、能力のある者を引き上げた。阿部正弘の急死は幕府のバランス感覚を狂わせた。
4か月後、アメリカ総領事ハリスが江戸城内で将軍家定に直接謁見して米大統領の親書を奉呈し、通商条約交渉を持ち掛けている。(来航軍艦の脅威に幕府が屈す)
アメリカ総領事ハリスが持ち掛けた通商条約調印について第121代孝明帝の勅許を得るため老中堀田正睦が上京すると朝廷内の意見はまとまらず孝明帝は拒否した。
関白九条ら幕政指示派に、岩倉具視ら尊王派の公家が抵抗する形で勅許は退けられ老中堀田正睦は手ぶらで江戸に戻るしか無かった。(1858年4月)
幕臣大半はハリスの言う「清と戦うイギリスやフランスの侵略が及ぶ前に友好的なアメリカと通商条約を結ぶべき」に「やむなし」の雰囲気で押され「鎖国」を求める朝廷と溝は深く、老中堀田は事態打開に向け攘夷から開国派に転じていた福井藩主、松平春嶽(一橋派)の大老就任を意見したのだが 将軍家定は井伊直弼(南紀派)を大老に任命した。井伊大老はすぐさま一橋派の排斥に動く。
1858年6月、大老井伊直弼の独断決裁により「日米修好通商条約」が調印されると孝明帝は激怒したが、井伊大老は続けて7月にオランダ、ロシア、イギリス、9月にはフランスと次々不平等条約を締結した。
大老井伊直弼は開国派ではあるがいわゆる「売国奴」ではない。また天皇の勅許を重要視したのも実は井伊大老である。しかし、異国脅威を前に周辺のコントロールが出来ず、亡き阿部正弘のようには振る舞えなかった。結果として意図せぬ形で朝廷と対立を生み、「幕末の騒乱」に突き進んでゆくのだ。
孝明帝は8月「水戸藩に対し井伊大老を糾弾するよう」勅令を下す。幕府の対応は歯向かう攘夷派・一橋派への大弾圧「安政の大獄」発動となった。
天皇が幕政を批判し一大名に直接命令を下すことは、200年以上続けた社会体制を否定するものであり幕藩体制の根幹をゆるがしかねなかった。
これに関わる水戸藩士や反幕府の活動(尊王攘夷運動)を捕らえ処罰することは、幕府存続を信望する上で避けられない決断だったのだ。
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